そもそも自分という存在が腑に落ちない
生きづらい人は、生まれてから今日までの自分にまつわるあらゆる事が、腑に落ちていません。
自分の成り立ち、自分が生きて来た道のり、
もっと言うなら、自分という存在が腑に落ちていないのです。
だから、目の前のやるべき事に集中出来ません。
腑に落ちていない自分の、目の前のことなど取るに足りないことに思えます。
事の大小に関わらず、目標が定まりません。
どうにも腑に落ちない自分という存在の人生なんか、なんだか他人事に思えて、目標なんて定まる筈がありません。
皆が、これが好き、あれは嫌いと言っている意味がわかりません。
皆が好きなものが好き、な気がします。
そもそも、好きか嫌いか、よりも得する方を選びたい、と感じます。
クラスで一番人気のあるA子ちゃんと付き合いたいとは、思います。
好きかどうかは分かりません。
一番人気があるから、好きな様な気がします。
付き合ったなら、皆が羨むだろうから、だから好きです。
でも、ちょっと手が届かない気がするから、自分に好意を持っているっぽいB子でいいか、と思います。
フラれるよりも、自分を好いてくれる娘が好きな娘です。
皆が進路について夢を語ります。
〇〇大学に入りたい、✕✕社に入りたい、アナウンサーになりたい、警察官、通訳、弁護士、教師……、
ついこの間まで、進路なんか決めていない、って言っていたのに、さっさと決めて、みんなズルい、と思い、焦りますが、やりたい事が思いつきません。
全てが他人事です。
自分に興味が薄いのです。
興味が薄いと、当然ながら一生懸命になれないし、コツコツと積み上げる根気もありません。
どうしてそうなってしまったのでしょうか。
余程のレアケースを除いては、原因は幼少期の親との関わり方にある、と言い切って良いと思っています。
親が、その子を否定的に扱い続けたのです。
その子が泣きたくても、親が子供の泣き声を聞きたくない気分であれば、泣く事を許しません。
涙を溜めたその子をなじります。
弱虫、泣き虫となじります。
或いは、呆れた表情を浮かべたり、ため息をついて、無言の圧をかけます。
その子が罪悪感を持つ様に仕向けます。
親はどうしてその子が泣きたくなったのか、という事には興味がありません。
親が子供の泣き声を聞きたくないし、泣き顔を見たくない、という事が全てです。
親はその感情を、涙を溜めたその子に突きつけます。
それでもその子が涙を湛えたまま、見つめて来たら、罪悪感を擦り付けるのです。
その子は、弱くて泣き虫な自分を責め、自分の事が嫌いになります。
泣きたい時に限った事ではありません。
その子が、怒りたくても、はしゃぎたくても、笑いたくても、親の気分が優先です。
その子に感情の自由はありません。
親の気分が優先で、その子の感情は蔑ろです。
生まれた時からそうなのです。
ずっとです。
その子は、自分の感情は蔑ろにされて当然なのだ、と思い込みます。
その子は、自分という存在は否定され、拒絶される存在だ、と思い込みます。
それは、強烈な無価値感を生み出します。
その子は、自分には価値など無いと、決めてしまいます。
生まれた時は、誰もが光りを放つ生命のかたまりです。
無価値な存在だと決めつけて生まれ落ちる生命などありはしないのです。
無価値に扱い、思い込ませたのは、愛する能力を欠くその子の親です。
無価値に扱われ、否定され、拒絶され、心の隅に追いやられてはいますが、生まれ落ちた時の光りを、誰もが持っています。
無価値に扱われるうちに、心の真ん中には無価値の思い込みが、べったりと貼り付いてはいますが、
親から否定される度に、追いやられた光りは、抗います。
その抗いが、自分には価値が無い、と感じながらも、微かに、そんな事は無いんじゃないか、という腑に落ちない感覚をもたらします。
その子は、九割方自分には価値が無いと決め込みながら、一割、そんな事は無いと抗います。
そんな腑に落ちない感覚を持ちながらも、九割に押し切られ、
自分に価値を感じる事が出来ず、
価値の無い自分に興味も無く、
興味の無い自分の人生は他人事に感じられます。
生きづらい人は述べた、腑に落ちない感覚、を知っている筈です。
親から、他者から、無価値な扱いを受けた時、納得いかない思いがある筈です。
モヤモヤしたり、チクチクしたり、人によって感じ方は違っても、
無価値に扱われた時、大いに納得する、などという事は無く、腑に落ちない感覚がある筈です。
生きづらい人は、自分という存在が腑に落ちないまま、生きています。
いつも収まりきれない決まりの悪さ、腑に落ちない感覚を持ちながら、生きづらい人は生きています。
しかし、腑に落ちない感覚がある限り、生命の光りは消えていません。
無価値に扱われた時のモヤモヤは、生命の光りの脈動です。
否定された時のチクチクは、生命の光りの明滅です。
光りは、心の隅に追いやられても、消えてはいないのです。
目を凝らし、光りを捕まえて欲しく思います。
手繰り寄せれば、
人生は自分のものになります。
自分という存在が腑に落ちます。
軽やかに人生を歩めます。
光りは決して、
消えないのですから。
読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。
伴走者ノゾム