不自然な「サバサバ女子」達へ
「私って思ったことが口に出ちゃうヒトだから。」
などと言う女性は少なく無い様に思います。
初対面で挨拶としてこの様なことを言います。
印象としては、「サバサバした女性」になりたい人なのではないかと思います。
ドラマや映画には、この「サバサバ女子」はかなりの頻度で登場します。
劇中では「サバサバ女子」は魅力的なキャラとして描かれていて、この様になりたい、とか、この様に生きたいとか、憧れる気持ちはよくわかりますが、
実生活に於いて、いつもサバサバしている人など、ほぼ居ません。
人は多面性があるものであり、「こんな人」などと短く要約出来るほど、簡単ではありません。
映画やドラマだからこそ、極端なキャラ付けが、ストーリーを彩る訳です。
しかしながら、「サバサバ女子」になりたい人は、そこのところが、わかりません。
本人としては、人目に縛られず、思った事を話し、思った様に振る舞っているつもりなのだと思うのですが、はたから見ると、不躾で不自然な立ち居振る舞いに感じられる事が少なくありません。
そもそも、開口一番に
「私はこういう人です。」と自ら告げるという行為は、
「私をこういう人として扱って下さい。」
と注文をつけているという事です。
少し、押し付けがましい行為です。
本来、どの様な人なのかは、接する相手の心の中で判断される事なので、感情の境界線を踏み越えてもいます。
これは「サバサバ女子」に限ったことではなく、「デキる男子」「デキる女子」や「男気男子」「姉御肌女子」などなど、沢山ありますが、
どのパターンも、本人が「こうあるべき」という自己像に無理矢理合わせにいっている不自然さが有るように思います。
しかも、その自己像は一つの面から捉えた単純な自己像であることが多く、
「無理してるな。」「しんどいだろうな。」と見る人も少なく無いと思います。
立ち居振る舞いに不自然さが目立つ人は、本来の自分では受け入れられないという極めて強い思い込みに支配されていることが大半ではないか、と思います。
かつて、
もっと賢く、もっと強く、もっと明るく、もっと優しくあることを要求され続けた過去がある様な気がします。
そうされることで、賢さや強さなどの仮面を被らないと、素の自分では他人から受け入れてもらえないという勘違いが、心の奥にへばりついている様に思います。
それが不自然な「サバサバ女子」や「男気男子」を作ります。
幼い頃から、特別に優れることを求められれば、特別にサバサバした人や、特別に男気溢れる人が存在すると考えがちかも知れませんが、そんな一面的な人は居ないのです。
サバサバした面があり、ウジウジした面があるのです。
ここの理解が進まないと、自分が優れた何者かになろうと無理をすると同時に、
対人関係に於いて、他人に失望しがちにもなります。
みんな人なので、素晴らしい側面もあれば、くだらないことに怒ってみたり、と両面あるのです。
どのくらい前か定かではありませんが、時のローマ法王が、興奮した聴衆から腕を掴まれ、思わず怒りの表情で聴衆の手を振り払う様子が世界中に拡散されて、批判が集まりました。
直ぐに法王が
「私も人間、ということです。」
とコメントされました。
法王だから神に近いということでもない側面があり、腕を掴まれて、憤慨することだってある訳です。
無理に仮面を被って不自然に生きている自覚がある人がいらしたら、
仮面は自らの人間性の成長を著しく阻害するということを知って欲しいと思うのです。
他者に優越しなくては、と思う気持ちは、心の中の「もっと、もっと」と求める声に突き動かされています。
その声は自分の声だと思いがちですが、本当は自分に成りすました何者かの声です。
本来、心の中の「自分」という意識が育つべき場所に、声の主、が居座っているので、「自分」が育つスペースがありません。
やがて青年になり、大人になっても、声の主が居座っている限り、「自分」が伸びやかに成長、成熟することを阻害するのです。
先ずはそのことを知って欲しく思います。
知ることが全てでは無いにしろ、
知ることが全ての始まりなのです。
読んで頂いてありがとうございます。
感謝。
NAMIDAサポート協会カウンセラー
伴走者ノゾム
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