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既に最初から尊い存在だった

何かに挑戦しようとするとき、
「出来る訳が無い」

挑戦が失敗に終わったとき、
「ほら見ろ、言わんこっちゃない」

失敗に打ちひしがれているとき、
「どうするんだ、大変な事になるぞ」

そんな、否定的な声、嘲る声、非難の声が頭の中に響くことが無いでしょうか。

その声を聞いた人は、それを自分の声だと思っています。

しかし、声の主は心の中に居座っている他者の声です。

幼い頃から、
「お前に出来る訳が無い」
「駄目な奴だ」
「役に立たない」

「しくじったら、どうするつもりだ」
「取り返しがつかないぞ」

「ほら見ろ、言った通りじゃないか」
「どうして言う事を聞かないんだ」

かつて、そう言っていた人が声の主です。

日常的に、徹底的に、否定されるうちに、心の中の【自分】は小さく固く、縮こまって、

隅っこに追いやられ、本来【自分】が居る筈の、心の真ん中には、声の主が居座ってしまってます。

心を他者に占拠された人は、行動を起こすとき、何か物事に取り組むとき、

先ずは、心の中で騒ぎ立てる声と闘わなくてはならないのです。

行動するのは、その後です。

騒ぎ立てる声は、例え言われ無きことであっても、その人には、真実であるかの様に響きます。

幼い頃、絶対服従しなくてはならなかった人の声だから、です。

長いこと、抗うことすら許されず、無抵抗で受け容れざるを得なかった人の声だからです。

目の前の物事に取り組む前に、その人は闘います。

恐怖を振り払って、死力を尽くして闘います。

捻じ伏せて、やっと物事に取り組む時には、既に持てる力の大半を使い果たしています。


誰もが、物事に取り組む時、上手く出来るかどうか不安にはなります。

人は、ネガティブな思考に陥り易い性質を持っています。

太古の昔、
他の動物には大きく劣る体力、運動能力、戦闘能力を、
人間は考える力と、危険を察知する用心深さで補い、生き抜いた為、
その生物的な記憶から、人のデフォルトのプログラムは、放っておけばネガティブに向かうらしいのです。

ただ、
肯定的に受け容れられる幼少期に恵まれ、
心の真ん中に【自分】が居る人と、

幼い頃に否定的な扱いを日常的に受けていた為、
心を他者に占拠された人とでは、

物事に取り組む時、行動を起こす時の、不安や恐怖の度合いには、

天と地ほどの開きが有るのです。


心の真ん中に【自分】が居る人は、
「やってみたらいいじゃないか」
と事も無げに言うかも知れません。

しかし、
心の真ん中に他者が居座っている人にとっては、
そんな簡単にはいかないのです。

傍目には、勇敢な人と、意気地の無い人に見えるでしょうし、
やる気に満ちた人と、やる気の無い人に見えるかも知れません。

けれども、
その意気地無しは、心の中で大変な勇気を持って、事ある毎に闘っています。

それなのに、
傍目にやる気無く見えるだけで無く、
自分自身も、
行動出来ない自分に、
挑戦に尻込みする自分に、
失望し、傷ついています。

誰もが傷つきたくは無く、
心を他者に占拠された人は、
やがて、行動しなくなります。
挑戦を避ける様になります。


行動しなくなり、挑戦を回避して傷ついた時、
あの声が響きます。

「お前に出来る訳が無い」
「駄目な奴だ」
「役に立たない」


もう、充分傷ついたと思います。
生きれば生きるほどに、傷の上に傷をつくる残酷な仕組みになっています。

残酷な仕組みから抜け出す手立ては、たったひとつ。

自分を責めて、裁くのを止めること、です。

どうして心の中に声が響くのか、誰の声なのかをお話ししたのは、

腑に落ちて頂く為です。

腑に落ちたなら、
自分は責められる必要は無く、
裁かれるべき存在でも無く、

即ち、
ありのままの自分で、なにを変えずとも、
引け目を感じること無く、受け容れていいんだと思える、そう考えます。


行動する前、行動する時、行動した後、
響く声は自分の声では無く、
また、真実でもありません。

言われの無い、心無い言葉に過ぎません。

その事を、心の奥底では知っています。

声が響いた時、納得しているでしょうか。
悔しく思ってはいないでしょうか。

本当に響く声の通りなら、悔しさは感じません。

いつもいつも、

心の中で闘う自分の勇気に、気づいてあげて欲しいのです。

既に、

最初から、

尊い存在であったことを、

思い出して欲しく思います。


読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。


伴走者ノゾム













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