他人に人生を明け渡すから苦しくなる
何故か気になる他人がいませんか?
事の大小に関わらず、何かを選択しなければならない時、
「あの人だったらどちらを選ぶだろうか?」
「こちらを選んだ私を、あの人はどう思うだろうか?」
そんな感覚が過ったことは無いでしょうか。
親子、兄弟、恋人、友人、上司と部下、
あらゆる関係性の中で、その様な感覚を覚える人は少なからず居ると思います。
その傾向が強い人は、コンビニやスーパーの店員さんなどの、特別に信頼関係の無い間柄の他人の事までが、気になってしまう場合があります。
この感覚は何なのか、というと、他人に心を明け渡した感覚です。
おそらく、この人は他人を気にしなければならない環境で育ったのだと思います。
本来、自分の感情を受け入れてもらう時期である幼少期に、親の顔色を伺い、
「今、お母さんは自分に、どんな態度を取る事を望んでいるのか」
「お父さんは自分に、どんな子どもでいて欲しいのか」
と、親を優先する事ばかりを押し付けられた子どもは、
自分の感情は置いてけぼりにして、親の意向を汲み取る様になってしまいます。
成長して、少年になっても、青年になっても、大人になっても、
その人は、自覚無く、かつて親に譲った様に、容易に他人に心を明け渡してしまいます。
他人に心を占拠されます。
他人に心を持っていかれます。
本来なら、幼少期に親から肯定的に受け入れられる事で、
子どもは、心の中に、
「確かな【自分】という意識」を育みます。
自分の心の中に【自分】が育ちます。
【自分】は心の真ん中にどっかと座ります。
ところが、
親の顔色を見て、親を優先してばかりの幼少期を過ごした人は、
心の中の自分は育たず、心の真ん中には親が居座り、【自分】は小さくなって心の隅っこに、うずくまるのです。
やがて大人になって経済的に自立しても、ことある毎に、或いは、思いもよらない時に、
親の意向が気になります。
この人の心の中の【自分】は隅っこに縮こまったままで、
相変わらず、真ん中には親が居座っています。
勿論、その事をこの人本人は意識していませんが、心は親に占拠されているのです。
親に占拠されていても、成長すれば、いつまでも親がかりの自分ではいけない、と無理やり心の中の親を押し退けてみたりします。
しかし、
押し退けてはみたものの、【自分】は縮こまったままです。
親を押し退けると、心に空きスペースが出来た様な感覚になります。
【自分】が小さく縮こまっているので、心もとない訳です。
だから、
その空きスペースを埋めるべく、他者の侵入を簡単に許してしまいます。
心の空きスペースを他者に埋めてもらった状態が、心を他人に明け渡した状態です。
他人が気になります。
表には、自立した大人の自分を装ってますが、
本当は他人を優先して、自分を蔑ろにする極めて依存心の強い状態です。
自分の意思が希薄です。
他人の目が気になります。
表出する態度、行動は、
意志薄弱な本質のままに弱々しさが前面に立つ場合もあれば、
本質を隠して、反動形成的に、他人を頼らない行き過ぎた自己完結に見える場合もあります。
どの様な現れ方をしようとも、心の内は、本来、【自分】が座るべき真ん中に【自分】は無く、
他人に心を明け渡した状態なのです。
本当は縮こまった【自分】を頼りなく感じています。
空っぽな自分を知っています。
頼りなく、空っぽであることから目を逸らす為に、他人を使うしか無いのです。
つきまとう感情は、虚しさです。
人の人生の幸福度を測る時、その人が金持ちか、貧しいか、ということとイコールの様に語る人がいます。
しかし、大金持ちなのに、満たされない人は掃いて捨てるほどいます。
心のど真ん中に、【自分】を持って、
自らの人生を味わい尽くすことが出来たなら、
世に言う大半の不幸は、不幸では無くなる気がしています。
なぜなら、
私達は起きる出来事に都度、意味づけをし、感情を選択して、見る世界を決めている、と言えます。
出来事に意味づけをするのは【自分】です。
感情を選択するのも【自分】です。
ならば、
心のど真ん中に、価値ある【自分】を感じられたなら、
豊かな人生を選択することは、容易な気がするのです。
心を他者に明け渡してはならない、
そう思っています。
読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。
伴走者ノゾム