気づいた人が辿り着く場所
社会通念に照らして、ちゃんとしていない人を見て、「甘やかされて育ったんだな」などと言います。
例えばその、ちゃんとしていない人、が会社員だとしたら、
遅刻癖があったり、社会人としての最低限のマナーや、心構えに疑問符が付く時に、「甘やかされて育った」と言われてしまいます。
その人の、依存心が強かったり、責任感が薄かったりという面が目立つ時、周囲はその人を、
精神的に大人になれていない、と評価して、甘えている、と思う訳です。
実際、オフィシャルな場所にそぐわない行いが目立つのですから、
今現在、その人は、精神的には未熟で、甘えている、と評されても仕方が無いのかも知れません。
しかし、今、甘えた行いが目立つ人が、
必ずしも、甘やかされて育った、訳ではありません。
むしろ、その人は、甘えるべき時期に甘える事が許されなかった、のだと思います。
四歳未満の幼少期は、人生で唯一の、甘えるべき、特別な時期と言えます。
この時期に親から肯定的に、無条件に受け入れられる事によって、
その子は、自分はただ存在するだけで価値が有る、という感覚を持つに至ります。
ハイハイしていたものが、つかまり立ちをし、初めて歩く時、
親が、周囲が、注目し口々に、上手、上手、と褒めそやします。
皆に注目されたい、褒めてもらいたい、自分が中心でありたい、そういった願望は極めて幼児的ではありますが、
人間には誰にもそういった幼児的願望はあります。
なにも、初めて歩く時に限ったことでは無く、
お腹が空いたら泣けば、おっぱいを与えられ、
オムツが濡れて不快だったら泣けば、取り替えてもらえる、という、
自分が中心の無条件な受け入れを経験する時期が、幼少期という特別な時期です。
その経験が、幼児的万能感を育て、その子は、自分に価値を感じる事が出来る様になります。
四歳以降の幼少期の後期に入れば、徐々に社会との関わりが増えて行き、
望む様な注目や賞賛は、得られない事を知り、
自分が世界の中心では無い事が分かり、
幼児的万能感を卒業します。
自分が世界の中心であるという感覚は卒業するのですが、
自分は存在するだけで価値が有る、という感覚は残ります。
この感覚は、言わば自分に対する安心感です。
つまり、この子は、肯定的で無条件な受け入れを、経験として自分に取り込み、それが自分には価値が有る、という安心感になります。
生涯を通じて、これ程の受け入れを経験出来る時期は、母子密着のこの時期を置いては他に無く、
その意味で、幼少期の早期は、特別で大切な時期なのです。
この時期に、自分に対する安心感を築けるかどうかは、最初にして最大の発達課題とも言えます。
この課題をクリアした子供は、自分に対する安心感が有るので、
四歳以降の幼児的万能感を壊される経験にも、正面からぶつかる事が出来ますし、クリアする事が出来ます。
幼少期に存分に甘えを受け入れてもらえた子供は、甘えの願望を消化するのは早いのです。
その時期に、否定され、拒絶され、
受け入れられるにしても、親の望みを叶えた時にだけ受け入れられる、条件付きの受け入れ、に晒された子は、
幼児的願望は消化される事は無く、
よって自分の存在に対する安心感もありません。
生涯唯一の特別なこの時期に、甘える事が出来なかった子は、
甘えの願望を何ひとつ消化する事が出来ません。
自分の存在に対する安心感を得る、という最初の発達課題に躓いた子は、
安心感が無いまま、社会に触れますが、自分に安心感が無いのですから、最初から不安です。
不安を抱えたまま、自分は注目されない、賞賛されない、中心じゃない、という現実を突きつけられます。
もともと自分の存在に価値を感じていないところに持って来て、
厳しい現実に打ちのめされ、
打ちのめされる度に、自分には価値が無い、という思い込みを作り、その思いを強化します。
自分には価値が無い、という思い込みが強化されると、現実に触れることが怖くなります。
すると、現実に触れて、発達課題をクリアするどころか、
発達課題を回避する様になってしまいます。
そうして、最初の発達課題に躓いたその子は、年齢なりの課題にことごとく躓きます。
年齢を重ねても、発達課題に躓き、回避し、心は成長出来ません。
社会人になり、社会人としての心の成熟度を求められても、心は未成熟なのです。
責任感も独立心も、協調性も、何もかも未成熟なまま、です。
見た目は立派な大人ですし、本人に心が未成熟であるという自覚は無い場合が殆どですが、
心の中は、幼少期に満たされなかった、幼児的願望でいっぱいです。
その願望は未消化のまま残り続け、その人を内側から突き動かします。
今、甘えて見える人は周囲から、甘やかされて育った、と思われがちですが、
本当は、甘える事が出来なかった人、です。
心のこと、を考える時、
甘える事が出来ず、最初の課題に躓いた人が、年齢なりの課題に次々に躓く仕組みは、残酷な気がどうしても、してしまいます。
しかし、躓く時も次々と、ですが、
気づきに届いた人は、次から次に新たな気づきを迎えます。
そして、気づいた人が辿り着く深い人間性に触れる度に、
この人が長く苦しんだのは、
ここに辿り着くためだったんだ、と、
私は確信します。
今は苦しくとも、
苦しさは、深さに変わる、
そう思っています。
読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。
伴走者ノゾム
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