今の私は「苦笑い」で上出来
このところ、たて続けに記事の内容は母子関係です。
それには理由が有り、我が母の加齢による衰えが顕著であり、
半世紀にも及ぶ我々親子の関係が、いよいよ目の前に突きつけられ、好むと好まざるとに関わらず、つまびらかになる場面が少なからずあるのです。
私は幼少期に欲して止まなかった「母の愛」はついぞ与えられることはありませんでした。
母から愛されたいという願望は自然に消えて無くなることは無く、半世紀の長きに渡り、私を内面から、時に追い詰め、時に焦らせ、振り回し続けました。
そして、紆余曲折有り、ようやっと本当に母を「諦める」に至りました。
私が母を「諦め」て、代わりに何を得たのか?
それは、母の真実の姿を明らかに眺める力です。
愛されたい、と言う感情が有るうちは、その感情が邪魔をして、母の姿を捕える事が、実に難しいのですが、
諦めると、見たい姿、見たくない姿、全てが白日の下に晒されるのです。
母を諦めることで、私は母からは、爪の先程も愛されていなかったことを、嫌と言うほど知ることになりました。
母には、そもそも、自分と自分以外の存在しかなく、自分以外の存在は利用価値の有る無しで二分されているのです。
そこには、息子だからとか、夫だからとか、近所に住む人だから、とか、そういった区別は無く、
自分にとって利用価値が有るか無いかが全てなのです。
そう言うと、私が未だに母に執らわれ、その反動の被害妄想的な感じ方だと思われる向きもあろうかと思いますが、
そうでは無く、只、母の「愛する能力の欠如」は、私の想像の遥か上をゆくもので、
まさか!?の更に上、そんなコトは無いだろう!?の遥か上をゆくのです。
勿論、そんな母の姿を、積極的に見たいとは思いませんし、見た後には、残念な思いが残りますが、
そんな、今の私の心境は、「苦笑い」です。
それは、相当に「苦い」のですが、
確かに「笑って」いるのです。
言葉にするなら、
愛されたいと願ったけれど、ただの一度も愛されることは無かったなぁ、
でも、母は母の世界でこれが良いと思って生きているのだから、
良しとするしかあるまい。
そんなところでしょうか。
相当に「苦い」のですが、それでも「笑う」ことが出来ている、今の自分は、自分なりには、上出来です。
幼少期、既に混沌の中に在り、子供らしい子供時代は無く、いつも苛立ち、いつも怒っていました。
本当に笑ったことなど無かった。
少年時代、混沌は更に深まり、いつも何者かの仮面を被って生きていました。
その場に合わせ、空気を読んで、笑って見せたが、それは、「笑顔の仮面」でした。
本当に笑ったことなど無かった。
青年になり、大人になって、物理的には親から離れ、経済的にも自立して尚、心は執らわれ、囚われました。
自分の人生を歩めませんでした。
本当に笑ったことなど無かった。
でも今、「苦く」はあっても、私の「笑み」は、心の内から湧いてきた「笑い」です。
80%の諦めと、10%の清々しさと、10%の満足で構成された、
健やかな人々とは少し違った「笑い」ではありますが、
今の私は笑っています。
人は自然の理に逆らって、不幸を目指す時、笑うことは出来ません。
ならば、ぎこちなくとも、苦く笑っている今の私は幸せの方を向いていて、
現時点、上出来じゃないか、そう思うのです。
読んで頂いてありがとうございます。
感謝。
NAMIDAサポート協会カウンセラー
伴走者ノゾム