我が子をバッサリ切り捨てるより、いっそ健康的に「えこひいき」
過保護な親、過干渉な母、厳格過ぎる父、心理的虐待をする両親、
みんな思考一辺倒な人です。
マインドで感じることが出来ません。
ハートで繋がることが苦手です。
すると、規範意識、道徳、良識、肩書き、そういったものに、やたらと弱い人になります。
カタチに弱いんです。
親子関係に於いて大切なのは、
親が子を一個の人間として、尊重、する事、そして、
親子関係に流れる血液が、温か、であること、だと思っています。
規範意識、道徳、良識、肩書き、などに弱いことと、
親子関係が温かか否か、ということは、
一見、関連性が無い様に思えます。
規範意識などなど、は社会生活を営む上で必要なことですが、
それは家から一歩でた時に、基準となって来るもので、その基準をそのまま親子関係に適用するのは、相応しくない様に思います。
何故なら、親子関係は、温かな場所であることが、目的、とも言える特別な場所だから、です。
雑多な人が行き交う社会では、混乱を避けるべく、法律や規範意識などを尺度にしますが、
それをそっくりそのまま、親子関係に持ち込んだなら、杓子定規に裁く、問答無用に裁かれる、という関係性になってしまいます。
親子関係のパワーバランスは当然ながら親に偏っています。
そのパワーバランスに於いては、親が裁き、子が裁かれるという形が常態化します。
それが正しいか否かを脇に置いて、個人的には、時には未熟な子供の理屈を規範意識よりも優先させることも、親子関係に温かな血を通わせる為には、必要なことだと思っています。
場合によっては、特別な存在である我が子に、健康的な範疇での、えこひいき、すら、私は肯定的に捉えています。
そのさじ加減は、親に委ねられるので、難しいものがありますが、
子育てには、正解も模範解答も無いのですから、
親と子は、すれ違ったり、踏み越えたり、ぶつかったり、転んだり、する訳です。
だったら、虐待のある親子関係でなければ、親にとって我が子はかけがえの無い特別な存在であることは、動かし難い事実です。
躾けも、教育も大切ですが、かけがえの無い特別な存在に対する、健康的なえこひいき、はアリだと思っています。
私がそう思うのは、私自身が親の都合や感情を押し付けられる環境に育ち、
親が振り回す規範意識や道徳などの四角四面な正義の刀で、バッサバッサと切り捨てられた経験が幾らも有るからです。
幼少期にただの一度でも、親から滲み出す「お前が大切」という匂いを嗅いだなら、きっとその後の私の心の景色は違ったものになっただろう、と思うんです。
親から、えこひいき、されてみたかった、と思います。
健康的な、えこひいき、に明確な定義やラインはありませんから、さじ加減は難しいですが、
多少、踏み越えてしまっても、規範意識や道徳などで出来た四角四面の正義の剣で、問答無用に切り捨てるよりも、
ずっといい様に思います。
切り捨ててばかりいると、その子は自分の価値に疑いを持ち、自分のことを嫌いになります。
そうなるよりも、多少えこひいきが過ぎるきらいがあって、
仮に、その子の人格形成に偏りが出来たとしても、
切り捨てられて、自分には何の価値も無い、という思い込みを心に刻み込み、自分を嫌ってしまうよりも、
全然良いのではないか、と思っています。
お話しした、健康的なえこひいき、は、過干渉や過保護とは全く違います。
この子が愛しい、この子が大切、この子が特別、という思いは真実であり、
胸に秘めても、どうしても滲み出す親心は、躍起になってキレイに拭い取らなくても構わないのではないか、というお話しです。
だって抑えても滲み出す、この子が大切、という思いは素敵じゃないですか。
どこまでが健康的か、ということは、頭の片隅には有ってもいいか、と思いますが、
本当の意味で、この子が大切、この子は特別、と感じている親は、
既に子育てに最も大事な、子供を一個の人間として尊重する構えが出来ています。
だから、大丈夫だと考えます。
幼少期、尊重され、受け容れられ、存分に甘えることが出来た人は、
甘えの願望を早くに卒業します。
精神的な巣立ちは早い、のです。
外で使うべき、規範意識などで出来た正義の剣を、
親子関係で大切な我が子に振り上げてはいないか、
チェックして欲しく思います。
読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。
伴走者ノゾム