世の中を「不幸色」に見えるメガネで見ていないか
「暖かい」感情は沢山ありますが、私がとりわけ「暖かい」と思う「心の風景」が有ります。
それは、「励ます」ということ。
例えば、幼稚園のかけっこで走る我が子に、普段は静かなお母さんが声を限りに声援をおくる、子供の名前を連呼する。
励まさずにはいられない訳です。
この「励まさずにはいられない」という感情は実に人間らしく、親子の情愛が溢れていると思うんです。
今の世の中、それは、
競争心だ、
虚栄心だ、
不公平だ、
えこひいきだ、
などと受け取る人もいるのでしょうが、
そんなものを吹っ飛ばすくらい、私は「暖かい」と思うんです。
「幼稚園のかけっこ」と書きました。
これが小学生、中学生となれば、親子の関わり方もあからさまな声援とは在り方が変わって行くのは健全なことです。
ただ、まだ幼い幼稚園児の我が子が駆ける姿に、我を忘れて大声で声援する親の心情は、格別に「暖かい」と思います。
発達心理学や児童心理学の見地から見れば、子供の年齢が4歳を越えれば、親が我を忘れて声援を送るのは違うのかも知れませんが、
私の個人的な肌感覚では、アリです。
私は親に何らかの目的があって、おだてられたことはあっても、誉められたことも、励まされたこともありません。
両親は励ましているつもりで、ダメ出しをします。
本当に「励ます」ということが、心底わからない人達の様です。
そして、感情の境界線が無いに等しい親子関係なので、謙遜する場面で子供を落とします。
母にとって「謙遜」とは、自分が控えることではなく、
「この子はなんにも出来ないんです」と子供を落とすことなのです。
小学校に入学する頃には、既に無価値感だらけ、心は傷だらけでした。
確かに生まれたときから、機能不全家庭ですから、どの道、無価値感を抱えることにはなったのかも知れませんが、
幼い頃に一度でも励まされる経験をしていたなら、私の歩む道の景色は違った様に思います。
それが何歳までか、ということは脇において、幼い頃という括りで言うと、
乳幼児期に何らかの理由で、母子の一体感を感じることが叶わなかった子供は、
幼児期にそれを補う「暖かい」体験が必要だと思うのです。
それは、公平とか平等とかいった、常識的な正しさではなくて、
言わば、「えこひいき」かも知れません。
誰よりも大事、他所の子とは違う特別に大切な子、という価値を上げてくれる体験が必要なのだと思います。
その体験で、何らかの健全とは言い難い性格を構築してしまうきっかけになったとしても、
重大な無価値感を抱えてしまうよりも、ずっと好ましいのではないか、と個人的には思うのです。
よく、
「甘やかされたから、ろくでも無い人間になった」
などと耳にします。
半分くらいしか当たっていないと思います。
そのろくでも無いと言われる人は、
甘やかされた様に見えて、甘えたことが無い人です。
何らかの意図があって、おだてられられたことは有っても、
暖かな感情を持って、誉められたことも励まされたことも無い人です。
存在や感情を尊重されることなく、親の感情を引き受けさせられた人です。
無価値感に苛まれる人なのです。
甘やかされて、安穏とした心持ちで生きて来たなら、その人は「ろくでも無い」人にはならなかったと思います。
心に無価値感が張り付いているから、自分の価値を探したくて調子っぱずれな生き方になるし、
幼い頃に自分の感情の一切を抑え込んだから今、身勝手な振る舞いをしてしまうし、
本当に愛して、受け入れて、励ましてくれる人がいなかったから今、寂しくて他人に絡みつき、迷惑をかける生き方になってしまいます。
頭の良さや、容姿がどうかということよりも、ましてや経済的な豊かさよりも、
幼い頃に愛されて、受け入れられ、励まされたかどうかということが、その人が幸福に近づけるか否かを大きく左右します。
なぜなら、
愛された人は、仮に頭が良くなくても、そんな自分には価値がある、と思っています。
受け入れられた人は、仮に容姿がぱっとしなくても、自分の価値を疑いません。
励まされた人は、例え貧しくても、そのことは自分の価値とは無関係なことを知っています。
人は幼い頃にかけたメガネで世の中を見ます。
愛されて、受け入れられて、励まされた人は、
幸せ色のメガネを通して世の中を見ます。
蔑まれて、拒絶されて、利用された人は、
不幸色のメガネをかけてしまいます。
つまり、
頭や容姿の善し悪し、貧富などの条件や起こる出来事と、
その人の幸不幸は関係がなくて、
幸せ色のメガネをかけているか、
不幸色のメガネをかけているか、
それが、その人の見る世界、住む世界を決めるのだと思います。
人生の初期に於いてのメガネの選択は、親との関係性によって決まってしまうことは否めません。
しかし、人生の途中で不幸色のメガネで世の中を見ている、と気づくことは出来ます。
気づいたならば、メガネをかけ替えることは出来るのです。
先ずは気づくこと、
そして、
幸せも不幸も選べる、と知ること。
今、不幸色のメガネで世の中を見ていても、
メガネをかけ替えることなんて、
いつでも出来るのです。
読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。
NAMIDAサポート協会カウンセラー
伴走者ノゾム