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吐き出しの嵐と自己満足の優しい言葉

生きづらさを抱え、苦しみの最中に在る人は、溺れかけています。

溺れかけた人が空気を欲する様に、
生きづらさに苦しむ人は、幼い日に求めても求めても、得る事が出来なかった、受け容れ、を探します。


生きづらさを手放す道程で、必ず通る場所が有ります。

吐き出しのステージ、と、
自分と向き合うステージ、です。

本記事では、吐き出し、についてお話しさせて頂きます。

吐き出し、とは、自分の心情を吐露することです。

生きづらさを抱える人の吐き出しの時期は、激しく受け容れを求める時期です。
深みにはまって、もがいて、ようやっと水面に顔を出して、空気を吸うのです。
空気を吸い込み、欠乏した酸素を全身に巡らすことしか考えられません。

生きづらい人には、幼い子供に必要な、親から受け容れられる、という経験がありません。

端的に言うと、その受容されて然るべき幼少期に、
受容してくれる筈の存在である親から、
否定され、拒絶され、利用された事が、生きづらさの核を作っています。

生きづらい人が自分の苦しみは、抱える生きづらさ、から生じている事に気づいた時、

求めても得られなかった、受け容れ、を求める衝動、に駆られます。

こんなに辛かった、悲しかった、寂しかった、言葉に代え難い程の、無念、を、解ってもらいたい。

全部、受け容れて欲しい。

その衝動は嵐です。

完全なる受容を求めて止みません。

完全なる受容、とは、かつて受け容れを拒んだ親からの受容です。

つまり親による、無償の愛、を目の前の受け容れの姿勢を取った他者、に求めます。

勿論求めても、幼少期という特別な季節にのみ与えらる、無償の愛、に届く受容は得られませんが、

吐き出す事には、二つの大きな意味があります。

一つめは、抑圧した感情の解放です。 

幼い日に親の顔色を伺い、自分の感情を抑圧し、親の感情を常に優先しなければならない環境に育ち、

抑えつけるだけ抑えつけて、心の奥に堆積した感情、を解放します。

感情は感じ尽くす事でしか、消化する事は出来ません。

吐き出す事は、その意味で重要です。

二つめは、心の有り様の正しい認識、です。

嵐の様な吐き出しを経て、受容される実感を得ます。

と同時に、求める完全な受容は目の前の他者からは得られない事が見えて来ます。

受容を実感すると同時に、他者による受容は、求める完全な受容に届くことは無い、という事を知り、

自分と向き合う事でしか、生きづらさを手放す事は出来ないという事が、腑に落ちます。

苦しむ人が、自分で気がつく事でしか、腑に落とす方法はありません。

嵐に翻弄され、深みにはまり、息が出来ない状態の人に、
「あなたは溺れかけているから、手をこう動かして、足をこう動かして、顔を水面から出して下さい。」
と大声で叫んでも届きません。

溺れている人が、自分は溺れている、と認識する事が必要です。
その為に、吐き出します。
その為に、受け容れます。
その為に、腑に落とします。


先に述べた様に、生きづらい人は嵐の中で深みにはまって溺れかけています。

しがみついてよい相手が居たら、しがみついてしまいます。
心の中の苦しみを引き受けてくれる他者が居たならば、もたれかかってしまいます。

無理もありません。
溺れかけているのですから、そうなります。

ここからは、嵐を受け容れる側のお話しです。

夏の海や川で、溺れかけている人に、善意と勇気で手を差し伸べて、しがみつかれて二人とも溺れてしまう、といった話しはあります。

生きづらい人が、受け容れてくれる人を探す時も同じです。

つまり、吐き出しを受け止める側が、後先を考えず、手を差し伸べてしまうと、共倒れになってしまう場合もあれば、

差し出した手を、思いの外強い力で掴まれて、驚いて振り払い、返って溺れる人を窮地に追い込む事もあります。

つまり、受け止める側は受け止めるなら、それ相応の心構えや知識は必要です。

正直に申し上げて、距離を保って静観するのが適切だと思っています。

たとえば、苦しんでいる人が友人で、「放っておけない!」と思ったなら、放っておけない時点で、心理的な境界線は曖昧になっていて、嵐に巻き込まれかけています。

たとえば、苦しんでいる人を救う、導く、という思いがあるとしたら、もっての外で、
自分は助けている、良い事をしている、という思いが少しでも有るなら、それは苦しむ人を見ているつもりになっているだけで、自分の事を見ています。

では、親友であっても、手をこまねいて傍観しろ、というのか、と言われそうです。

生きづらい人は、他者に受容を求めながら、他者を信頼する事が極端に苦手です。

場合によっては、吐き出しを受け止める人を、この人なら受け容れてくれる、と理想化し、
少しでも自分の気持ちを理解してくれないと感じると、こき下ろします。

受け容れようとする人を試します。

上がったり下がったり、凪いだり波立ったり、だから嵐です。

楽観視する事は危険です。
だから優しさをもって静観するのです。

最終的には苦しむ人は自分で気がつき、自分で向き合い、自分で解放するしかありません。

極論をすれば、本質を突き詰めたなら、世の中で最も要らない職業の一つは、心理カウンセラーだと思っています。

本質的には苦しむ人は、本人でなければ救えないから、です。

しかし、本人でなければ救えない、逆に言えば、本人だけが救える、というその事を、苦しむ人は見つけるのが易しく無いのです。

その時ばかりは、カウンセラーは役に立ちます。

見つけてもらう為に、吐き出しを受け止めます。

吐き出して、吐き出して、その後に、他者による完全なる受容を求めてもそれは叶わない事が、苦しむ人の腹に落ちて、

ならばここからは先は、自分が自分と向き合うしか無い、と決断します。

自分がランナーであり、カウンセラーは伴走者に過ぎない、吐き出しを受け容れてくれる人の人生では無い、

自分自身の人生だ、という意識に辿り着きます。

苦しんでいるのも、気づくのも、吐き出すのも、向き合うのも、生きづらさを手放すのも、ぜんぶ自分、

自分の人生を生きるのも、自分、なのです。

自分で受け容れ、自分で歩くしかない、と腹を括った時から、自分と向き合うステージに入ります。


苦しむ人と、手を差し伸べた人が共倒れしない為にカウンセラーは居ます。

苦しむ人が、外に魔法の杖は無く、自分を救えるのは自分自身だと気づく為にカウンセラーは居ます。

苦しむ人の姿を映し、心の有り様を知ってもらう為にカウンセラーは居ます。

アドバイザーでもメンターでも無く、

苦しむ人が自分で自分を確立し、
自分で自分の尊さを思い出す為のツールです。

活き活きと軽やかに生きて、

ツールなど必要無いのが一番好ましいのですが、

苦しみを抱えきれなくなったなら、

使ってみるのも、方法の一つだと思っています。

カウンセラーは、カウンセラーなんて必要無い、ということを証明する為に存在します。

その逆説的な証明が成された時、

生きづらい人は自分の力で苦しみから脱します。

かつて苦しんだその人は、

自分の脚で立ち、

自分の脚で歩みます。

踏みしめて、踏みしめて、

力強く歩むのです。

生き抜いたその人は、

本当は強いのですから。


読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。


伴走者ノゾム













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