「悔やみ」を「恨み」に変えるか「学び」にするか
たとえば、事業に失敗したならば、
誰もが後悔すると思います。
ひとしきり打ち拉がれた後、進む道は二手に分かれる様に思います。
悔やみの感情に呑まれる人と、リカバリーを考えることにシフトする人が在る、と思うのです。
悔やみに呑まれる人は、ダークサイドに堕ちて行く顛末を辿ります。
リカバリーを試みないのですから、事態が好転することは、ほぼ望めません。
悔やみは、恨みに変わることが多い、と感じています。
悔やみの段階では、一旦自分が下した判断、ひいては自分を責めます。
しかし、その失敗や損失を受け容れられず、自分を責めることに耐えられず、外に原因を探します。
店の金を着服したアイツのせいだ、
儲け話を持ちかけたアイツのせいだ、
悔やみは、いつしか恨みに変わり、恨みに巻かれた人は時を止めてしまいます。
リカバリーを考える人とて、いっときは悔やみますし、恨みにも巻かれるかも知れません。
アイツは憎い訳です。
しかし、恨みに巻かれて時を止めたところで、人生が好転しないことに、その人は気がつきます。
着服したアイツを雇ったという出来事、を受け容れます。
次は失敗しない様にしよう、と前を向きます。
経験に学びます。
止まりかけた時は、再び動き出します。
同じ出来事が起きても、
悔やんで恨んでダークサイドに堕ちる人と、
ひとしきり悔んだらリカバリーを考える人に分かれます。
ダークサイドに堕ちる人のフォーカスは、アイツという「人」に向いています。
私達がコントロール出来るのは、自分の心だけです。
「人」は自分の心の外ですから、どんなに憎んでも、いくら恨んでも、コントロール不能な領域です。
そのコントロール不能な「人」に対する恨みで心がいっぱいになってしまった状態は、自分の心を「人」に明け渡した状態です。
つまり、人生の主導権を「人」に預けてしまっています。
リカバリーを考える人のフォーカスは、自分に降り掛かった「事」にあてられています。
アイツに「店を任せた」という出来事、
その結果、アイツが「着服した」という出来事に向いています。
フォーカスは「アイツ」では無いのです。
出来事もコントロールは出来ませんが、自分の人生に起きた「事」なのですから、
悔やみが恨みに変わることも、時を止めてしまうこともありません。
例に挙げた、事業の失敗などという一大事に限ったことでは無く、
日々の生活の中で、フォーカスを「人」に向けることで、大切な自分の人生の、限られた時間を、どれ程他者に明け渡しているでしょうか。
失敗した時、誰もが悔やみます。
その後です。
フォーカスを「人」に向けたら、「悔やみ」は「恨み」に変わりがちです。
「恨み」に執らわれて、良いことなど一つも無い様に思います。
フォーカスを「事」に向けたなら、失敗は自分の人生の1ページに取り込まれ、
取り込まれた瞬間、「悔やみ」は経験という「学び」に変わります。
手本にしたい、と思う人は世に沢山居ますが、
その方々も、「悔やみ」の感情に執らわれることは、多々有るのではないか、と思っています。
ただその後、フォーカスを何処に向けるのかを、制御することが実に見事な気がします。
「悔やみ」を「恨み」に変えてしまうのか、
それとも「学び」に変えるのか、
その選択は、人生の色合いを左右する様に思うのです。
読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。
伴走者ノゾム