「お母さん、ありがとう」と喋るだけの人形
自分という存在に安心感を持っている人は、何か物事に取り組んで、成功すれば成功体験は積み上がり、
失敗すれば失敗に学び、苦い思いも経験として積み上がります。
対して、自分に対する評価が極めて低い人がいます。
自分に対する評価が極めて低い人は、この自分という存在に対する安心感、が無いのです。
心の中に有るのは、自分は無価値だ、という思い込みです。
その人にとって失敗はとても堪えます。
失敗は無価値の思い込みを裏付けることになるから、です。
たとえ成功したとしても、心の中では、まぐれだ、という気持ちが渦を巻きます。
成功体験は積み上がらず、失敗から学ぶことも出来ません。
常に無価値感に苛まれないことが最優先です。
その想いに追い立てられるから、余裕がありません。
その人の自己評価が著しく低いのは、幼い頃に、自分は無価値だ、と思い込まざるを得ない環境に育ったからです。
そう言うと、激しく罵倒され、責め立てられて、自分は無価値だ、と思い込んだんだな、と思うかも知れません。
そういう場合もあります。
しかし、数として多いのは、もっと密やかな、秘められた虐待、だと思っています。
答えを先に言うと、それは親の子供に対する過干渉、過保護です。
親が、子供の全てに口を出し、子供の全てを決めてしまいます。
先回りして、親がなんでもやってしまうのです。
子供は考えること、決めることをすべて失います。
人生から、考えること、決めることを取り上げられたら、それは誰の人生なのでしょうか。
その子が出来ることは、せいぜい「お母さん、ありがとう」と言う事ぐらいです。
私は個人的には、罵倒する、あからさまな虐待よりも、この秘められた虐待は、ある意味、子供に与える影響は大きい場合が少なくない、と思っています。
考えること、決めることを取り上げられ、その子が出来ることは、「お母さん、ありがとう」と言うこと、と言いました。
気がつくことが、難しいのです。
その子が、自分は生きづらい、と気がつくことが、
あからさまに罵倒されて育った人よりも、ずっと難しいのです。
考えること、決めることを諦めて「お母さん、ありがとう」と喋るだけの人形にされた子は、
大人になっても、長く苦しんでも、自分が生きづらい、ということに気づきません。
考えること、を取り上げられて生きて来たから、です。
仮に生きづらさに気づいても、生きづらさを手放す決断が出来ません。
決めること、を取り上げられたまま生きたからです。
親から搾取された、ということが認められず、親から愛を惜しみなく注がれた幸せな幼少期、というファンタジーの世界から出ようとしません。
「お母さん、ありがとう」と喋る人形として生きてしまったから、です。
あからさまな虐待を受けた人は、ある日パチンとスイッチが入った様に気づき、生きづらさを手放すことが多い様に思います。
密やかな虐待を受けた人は、間違いなく過酷な幼少期を過ごした人なのですが、
一度も親からぶたれたことが無い人も珍しくありません。
虐待の輪郭がぼやけていて、尚且つ、その人は、考えることを取り上げられ、決めることを禁じられ、人形としてファンタジーを生きて来て、
親と環境を疑うことが難しく、
生きづらさを認めることが耐え難く、
ファンタジーを手放すことが出来ません。
過干渉、過保護は、密やかな虐待です。
そこに身を置かざるを得なかった子に安心感は無く、
やがて無価値感に苛まれる人になります。
人生の選択権はその人にしか無く、どう生きたとしても、そこに善悪、正誤、優劣はありません。
しかし、微かにでも、おぼろ気にでも、
この苦しさはなんだろう?と感じたら、
そこから紐解いて欲しいのです。
心はきっと叫んでいます。
セルロイドの人形なんかじゃない!
耳を澄まして、
聞いて欲しく思います。
読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。
伴走者ノゾム