この人生、は誰のものなのか
今、生きづらさを感じているのであれば、
その人はかつて、自分の感情を諦めて、親の感情を優先せざるを得ない環境に育った人、です。
悲しくて涙が零れそうな時も、親が明るく笑う子供を求めている、と察したら、
自分の泣きたい気持ちに蓋をして、親が望む通りに、笑ってみせる子、だったのです。
感情は見て見ぬふりをして、蓋をしても、自然に消えて無くなることはありません。
未消化の感情は、心の奥にうず高く堆積します。
生きづらい人が感じる重々しい感覚は、積もりに積もった、未消化の感情、の重さです。
感情は、感じ尽くす事によってのみ、消化されるのです。
生きづらさの重さに耐えかねて、生きづらさを手放そうと決意して、
自分と向き合い始めます。
自分と向き合い始めた、その時に、目指していたのは、「生きづらさを手放すこと」だった筈です。
ところが、迷い込む道があります。
親を許す、その道です。
先に触れました様に、生きづらい人は、自分の感情に蓋をして、親の感情を優先せざるを得ない環境に育ちました。
そうするうちに、その人は、自分の感情が湧き出すや否や、感じ取る間もなく、蓋をすることが、当たり前になってしまいます。
結果として、親の感情を察知する事には熟練しますが、自分の感情がさっぱりわからなくなってしまいます。
伸びやかな感情を感じ取ることが、最重要課題である幼少期に、自分の感情を見て見ぬ振りをしなくてはならない苦しみは、おおよそ、幼い子供には似つかわしく無い、大きな苦しみです。
悲しいし、悔しいし、無念なのです。
しかし、その子は、その感情の全てに蓋をして、感じ取ることを諦めます。
生きづらさを手放す、という事は、別の言い方をすれば、
自分を育て直す、と言い換える事が出来ます。
かつて諦めて蓋をして、心の奥に積もりに積もった感情を、
今改めて、感じ尽くすことが、うず高く積もった未消化の感情を溶かす唯一の方法であり、
生きづらさを手放すこと、であり、
自分を育て直すこと、なのです。
生きづらさを手放す事を目指した筈が、
いつしか、親を許すこと、にすり替わる迷い道に入り込む人は少なくありません。
その道に迷い込んだ人は、異口同音に、
「親も苦しんだし、仕方が無かった」と言います。
しかし、それは、かつて自分の感情を諦めて、蓋をしたことを、今また、繰り返すことに他ならないのです。
幼いあの頃の自分の苦しみを、自分自身が感じ取ることが出来ていないから、
親の感情、事情を優先します。
その時の感情を感じ取れたなら、簡単に、親に譲る、事など出来ない筈です。
泣きたい感情を諦めて、笑ってみせたあの日と同じことを繰り返しても、
生きづらさを手放すことには繋がらないのです。
自分の感情を諦めて、親の感情を優先して、
いつも、いつも、そうして、
犠牲になったのは誰でしょうか。
生きづらさを抱えてしまったのは誰でしょうか。
幼い自分の、その苦しみを、わかってあげられるのは、自分だけ、です。
「親も苦しんだ、仕方が無かった」という落とし所を見つけたら、
親は可哀想、自分は許した優しい子供、で居られます。
しかし、ここに収まる限り、
可哀想な親の優しい子供、として、
親の人生の登場人物、として、
生きることになります。
親を憎み続けよ、と言っているのではありません。
しかし、幼い日の自分が味わった無念をわかってあげられたなら、憎しみも恨みも、怒りも感じるのは当然です。
湧き上がる感情を、感じ尽くすことで、積りに積もった感情は溶けて流れます。
親を許すか、許さないか、
親を恨むか、恨まないか、は、
溶けて流れた後に、自然にどう感じるか、であって、
生きづらさを手放す時、
自分を育て直す時、
親有りきで、目指す場所を決めてはならない、と思っています。
誰からもすくい上げてもらえなかった、幼い日の感情を、すくい上げて、感じ尽くしてあげられるのは、他でも無い、自分自身だけなのです。
親から主役の立ち場を奪われてて、エキストラとして、人生を歩まざるを得なかった人は、
自分と親との感情の境界線が曖昧です。
生きづらさに気がついて、生きづらさを手放そうと決意しても、
自分の感情よりも、親の感情を優先する方向に引き寄せられるのは、致し方無い、とも思っています。
けれども、気がついた、という事は、
生まれて初めて、自分、の感情を優先する時が訪れた、という事です。
見誤る事無く、自分の感情を捕まえて欲しく思います。
親に対する優しさの後ろに、
恐れの感情が潜んでいないか、
今また、親に譲ることで、
我慢するのは、
犠牲になるのは誰なのか、
この人生は誰のものなのか、
見誤らないで欲しいのです。
読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。
伴走者ノゾム
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