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イジメられる人もネガティブから報酬をもらってる
虐待にしても、イジメにしても、DVにしても、根本的な原因は、無価値感だと思っています。
虐待する方、イジメる方、DVする方の無価値感は理解し易いと思うのです。
相手を使って、抱える無価値感から目を逸らす訳ですから、実際にその立ち場に立った経験は無くても、察しがつく、と思います。
しかし、する方ばかりでは無く、虐待やイジメやDVを受ける側が、自分には価値が有る、と感じていることは、ほぼ無いと思います。
される側も、やはり無価値感から目を逸らしています。
つまり、する側もされる側も、無価値感から目を背けることには、変わりが無い、と言えます。
する側も、される側も、ネガティブな世界に浸り込み、ネガティブから報酬を受け取っています。
ネガティブな世界は重苦しく、晴れやかになる事の無い世界ですが、
ネガティブな世界にいるからこそ受け取る事が出来るもの、も有るのです。
受け取る事が出来るものは、
居場所であったり、役割であったり、です。
つまり、存在価値、です。
虐待やイジメやDVをする側は、相手を貶めることで、相対的に自分の価値が上がった様に錯覚することに、中毒になっています。
される側は、価値を貶められる対価として、必要とされている、と感じます。
勿論、これも錯覚です。
クラスメートからイジメられるから、辛いけど、その立ち位置にいれば、ここに居てもいいんだ、という心境です。
恋人から殴られるけど、この人は私が居なければダメになる、という感覚です。
虐待は、される側が年端もいかない子供ですから、親子関係という閉じられた中での、圧倒的に親優位のパワーバランスによって、
有無も言わさず、無価値なポジションに追いやられる感じかも知れませんが、
親が望む子供でいることで、居場所が得られる、ということですから、
同じ、と言えます。
親子関係であろうと、友人関係であろうと、恋人同士であろうと、
自分という存在を提供して、居場所を得たり、存在価値を得たり、する、という、
ネガティブな重苦しさを受け入れる代わりに、報酬として自分に価値を感じ、居場所を獲得する、という、
取り引きの様な人間関係です。
しかし、それは、錯覚に過ぎず、自分の価値も、居場所も、手に入る訳では無い、のです。
その場所に、安全、安心、は無く、
有るのは、危険と不安です。
その場所に居ながら、温かだ、と感じたものは、本当は冷たいし、
愛情だと思ったものは、心理的な取り引き、です。
そもそも、自分を与えて得られるものに、本当の価値など無い、と言えます。
何故なら、人は自分自身を愛するよりも大きな愛に辿り着くことは、難しいからです。
自分よりも大切なものは、存在しないから、です。
自分を大切に出来ればこそ、大切な家族があり、友人があり、恋人があります。
しかし、それは、自分があって、家族があって、恋人が居るのであって、
決して、溶け合い、混ざり合う様な、一色たんではありません。
大切な自分と、妻や子供は、どんなにかけがえの無い存在であっても、感情の境界線があり、混ざり合わないからこそ、
お互いが、尊重し合うことが出来ます。
イジメにしても、DVにしても、掘り下げてみると、幼少期の虐待に行き着く場合が、ほとんどだと思っています。
親が子供を自分の無価値感から目を逸らす為の道具として、所有、したら、
その子は、尊重、を知らずに育ちます。
不安と危険を、安心、安全と見誤ります。
その子は、冷たい心理的取り引きを、温かな愛情と信じ込みます。
ネガティブからの報酬を断らない限り、
ネガティブな世界を抜け出すことは、
出来ない、と思っています。
ネガティブの重さに耐えて、今日まで生き抜いた人は、本当は、強いんです。
当たり前に受け取っていた報酬を、
二度と受け取らないと決めるには、
確かに、踏ん切りが必要ですが、
生き抜いたその人なら、
その決断は難しくない、
そう思います。
読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。
伴走者ノゾム