恐れず、惑わず、囲いの外に出てしまえ
残酷な動物実験のお話しに、少し触れさせて頂きます。
飛び越える事が出来ない高さの柵で犬を囲い、その柵に犬が触れたらバチバチと電気が流れる仕掛けを作ったら犬はどうするか、という実験です。
犬は最初は柵を飛び越えて自由になろうと何度と無く飛び越えようとし、その度にバチバチと電気ショックを受けます。
度重なる挑戦が無駄であり、挑戦する度に耐え難い痛みを覚えることを悟った犬は、うずくまって挑戦することを諦めてしまいます。
犬が諦め切った後、柵を犬が楽々と越えることが出来る低いものに替えても、恐怖と諦めに取り憑かれてしまった犬は、うずくまったまま動こうとしなかったそうです。
自分が生きづらさを抱えている、と気がついた後、
生きづらさを手放したい、と言いながら、生きづらさにしがみつく人は、とても多いのです。
しがみつく人が多い、というよりも、すんなりと生きづらさを手放す方向に駆け出す人は、とても少ない、と感じています。
自分の抱える重々しい感覚が、生きづらさだと知らないままに、長く苦しんだ人は、
苦しさの正体は分かっていなくても、苦しさから逃れたいと願い、抗ったことと思います。
抗えば耐え難い痛みを感じ、抗うことを止めうずくまれば、重々しい感覚に支配されても、激しい痛みは回避出来ることを、長く苦しむ中で知っています。
つまり、抗いさえしなければ、耐え難い痛みは感じなくて済む、と学習してしまった、ということです。
柵の中でうずくまれば、電気ショックを受けることは無い、と諦めてしまった、ということです。
しかし、その場にうずくまっていては、いつか朽ち果ててしまいます。
柵から出て、食べ物を探さなくては、犬は死んでしまいます。
生きづらい人は、幼い頃から、親子関係という囲いの中で生きています。
仮に今、大人になって、所帯を持って、物理的、経済的にはひとり立ちしていても、生きづらいのであれば、心理的には、おそらく囲いの中です。
幼い子供は、無力です。
その頃の親の力は絶大です。
親は子供を愛で包んでいるつもりですが、
親もまた、愛の無い環境に育った人で、
愛し方を知らないし、愛のなんたるか、も分かっていません。
愛で包んでいるつもりで、高い柵で囲み、
優しく撫でるつもりで、電気ショックを与えます。
親は、そうとしか生きられないし、そんな親子関係になるしか無かったのですが、
子供が、その囲いの中にいつまでも、あまんじて、うずくまる必要はありません。
犬は、耐え難い痛みを避ける為に、うずくまっていたら、いつか朽ち果てます。
生きづらいその人は、囲いの中にうずくまっている限り、耐え難い痛みは感じずに済みますが、
それと引き換えに、重々しい苦しみはそのままです。
重々しい苦しみは、蓄積します。
いつか本当に動けなくなり、いつか押し潰されてしまいます。
重々しい苦しみが、生きづらさだと気がついた時点で、
柵は簡単に越えることが出来る低い柵に替わっています。
囲いは出ることが出来なかった親子関係、
柵は越えることが出来なかった親です。
かつて無力だった幼い自分にとって、柵はとてつもなく高かったけれど、
成長した今、無力な存在などでは既に無く、
気がついた今、柵は低いものに変わったのです。
囲いから出られないのは、慣れ親しんだ無力な自分としての感覚に囚われているから、です。
柵が越えられない程に高く見えるのは、かつて無力だった幼い自分の、目線の記憶、です。
恐れなければ、囲いは消えて無くなります。
怖がらなければ、柵は飛び越えられるのです。
誰のものでもない、
自分の人生が、
そこにあります。
読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。
伴走者ノゾム