たとえば、中学生の時にイジメられた経験があるとします。
大人になって同窓会があっても、同窓会とまでは言わなくとも、同級生で集まるといった時にも、当時イジメられて、孤立していた自分には誘いの一報すら届かない。
その事に、大人になった今再び、傷つく。
おそらく、再び傷ついたその人は、今が満ち足りていないのだと思うんです。
その人が、今満ち足りて幸せであるならば、
イジメられた、という辛い経験は、完全に過去の出来事になり、
そんな事もあったな、という、思い出、に変わります。
思い出に変わったなら、同窓会の誘いの声がかからなくても、今再び傷つく事はありません。
傷つくということは、過去の出来事である筈の、中学生の時にイジメられ孤独だった、という経験に、
今現在も縛られ、自由を奪われ、今、を生きる事が出来ていない、ということです。
その辛い出来事は、思い出にはなっておらず、今尚、生きている、ということです。
辛い出来事が今も尚、生きている、ということは、過去に執らわれて、今を生きる事が疎かになってしまっている、と言えます。
イジメられた経験それは、忘れ難い事ですが、
その人が今現在に満足して、活き活きと生きているならば、
忘れ去る事は無くても、過ぎ去った過去の思い出、に必ず変わります。
更には、過去への執らわれが溶けて、思い出に変わった当初は、写実的なタッチと色合いで、目に痛い感覚だったものが、
今を生きることに集中するうちに、淡い色合いになり、
そんな事があったにも関わらず、今を生きている自分を好きになります。
やがて思い出はセピアがかった色合いに変わり、
あんな事があったからこそ、今の自分が在る、と思えます。
辛かった過去の出来事は、消し去らなくて良いのです。
過去の自分は、イジメられても、孤独の中に居ても、
生き抜いた頑張り屋です。
過去を消し去ろうとすれば、過去の自分と、自分の頑張った軌跡をも、否定する方向に進んでしまいます。
辛い過去の出来事は、頑張った自分の軌跡として、心のアルバムに貼り付ければ良いのです。
アルバムに貼り付けたなら、今を生きることに一生懸命になれば良いのです。
あの孤独を生き抜いたのですから、今を生きる勇気はもともと持っています。
弱気になったら、アルバムを開いて、頑張った自分の軌跡、を見てみたら、弱気の虫は退治出来ます。
退治したなら、アルバムを閉じて、今を生きます。
そうやって今を生きるうちに、今を生きる事が、活き活きと軽やかに、自分の人生を歩む事であり、それが満ち足りる事だと実感します。
その実感を得た後に、アルバムを開いてみたならば、思い出はきっと優しいセピア色に変わっている筈です。
繰り返させて頂きます。
今を生きる事が出来れば、辛い過去の出来事に執らわれる事も無くなります。
思い出に変える事が必ず出来ます。
更に今を生きれば、
アルバムに収まった思い出は、
優しいセピア色に染まります。
読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。
伴走者ノゾム
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