親子関係に於いて、大切なのは、親が子を、ひとりの人間として『尊重』することだと思っています。
子供が幼い頃は、子から見て親が世界の全てです。
無力な幼子と対比すると、親の力は絶大です。
だから本来、絶大な力を有する親は、無力な我が子に愛を注ぎ、守り、育みます。
ところが、心に幼児性を残し、情緒が未成熟な親は無力な我が子を、絶対服従の存在と見做してしまいます。
その親の心が未成熟なのは、かつてその親自身も、絶対服従の存在と見做され、感情を否定され、存在を拒絶された幼少期があり、
心の中に、自分には価値が無い、という思い込みが貼り付いていて、
その貼り付いた無価値の思い込みから目を逸らすことが、生きる目的になってしまっています。
否定と拒絶にまみれた幼少期に、心は凍りつき、成長の歩みを停めたのです。
親になった今も、情緒は幼子のまま、です。
稚い心には、
無価値な思い込みが、べったりと張り付いています。
確かな【自分】という意識が満足に育ちません。
【自分】が心の隅っこに小さく縮こまった状態です。
自分と他者を分ける感情の境界線が曖昧です。
そんな心の在り様で、『尊重』すること、は出来ません。
我が子を『尊重』する、ということは、どんなに幼く、小さく、か弱くとも、ひとりの人間として、独立した人格を認める、ということです。
親がどんなに我が子を愛している、と主張したとしても、そこに『尊重』が無かったら、
愛、が成り立ちません。
『尊重』を欠いた親子関係は、その圧倒的な立ち場の違い、力の違いから、強い親が弱い子供を『所有』する関係になります。
強者と弱者、主と従、の色に染め上げられます。
本来、親子関係はもっと暖かみに満ちたものだと思うんです。
また、そうでなくては、子供の心は健やかさを失います。
主が親で、従が子供の親子関係は、言い換えると、その子にとって人生の主役が自分ではなくなります。
勿論、生まれた時から、その親子関係の中で育つのですから、
その子に、人生の主役を降りた認識はありません。
しかし、とてつもなく虚しく、自分の人生がまるで他人事に思え、
楽しむことも、味わうことも、出来なくなります。
人生や、自分の存在にすらリアリティが薄く、
自分の為に懸命になることが出来ません。
人生を切り拓くことが億劫になります。
他人事だから、です。
ただ、先にも触れた様に、生まれた時からそうなので、その全てに実感が伴わず、自分の生きづらさに気がつくことが難しいのです。
気がつくことは難しくても、気持ちは重苦しいのです。
その子の親もそうです。
尊重されること無く育ち、得体の知れない重苦しい気持ちを抱えたまま、人生を歩き、親になったのです。
得体の知れない重苦しさは、かつて否定されたことへの怒りです。
かつて拒絶されたことへの、親への怒りなのです。
幼い頃、親への怒りを心の奥に閉じ込めました。
抑え込まれた怒りは溶けることはありません。
心の奥に根雪の様に積もります。
怒りは正しい方向に向けることが出来ない時、必ず自分よりも弱い存在に向けられます。
心のこと、に方程式は無い様に思いますが、抑圧した怒りは弱者に向けられることは、どうやら間違いない様に思います。
その為、心が未熟な親は、自分を慕って止まない我が子の姿が、絶対服従の姿勢に見えてしまうのです。
我が子の慕う姿を、絶対服従の姿勢と見間違えてしまうのは、根雪の様に積もった、怒り、のせいです。
怒りのせいで見間違い、
怒りに呑まれて我が子を否定し、拒絶し、貶めます。
機能不全家庭で起きる様々なことは全て、自覚の無いままに起きること、なのです。
親は怒りに呑まれ、操られている、とも言えるかも知れません。
子供の生きづらさ、の原因は親の心にあります。
親が先ず、自分を操っている、怒り、に気がつくこと、です。
親の心の根雪が溶けた時、
子供の心は、健やかになるのです。
読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。
伴走者ノゾム