
この世から全ての敵を一掃する唯一の方法
この世から全ての敵を無くしたければ、
この世の全てを等しく愛せばいいんです。
私には……、出来ません(笑)
この世の全てを等しく愛することが、この世から敵とおぼしき存在を全て消し去る、おそらく唯一の方法だと思っています。
しかし、私には出来ません。
右の頬を打たれたら、左の頬を差し出すらしいですね。
そんなことは、私には難し過ぎます。
突然、理由も無く一発もらったら、そのワンパンで気を失わない限り、怒りに燃えてやり返すことを反射的に考えてしまうと思います。
やり返すのを理性で抑えたとしても、心は怒りで煮えたぎると思います。
いつも、自分の心が世界を創る、世界は自分が選び取っている、と発信しておきながら、不意の理不尽な一発を食らったら、
その一発で気絶しない限り、報復するしないは脇に置いても、心は怒りでパンパンになると思います。
私は、左の頬は差し出せないし、その瞬間、相手に対して湧き上がる感情は、怒りであり、つまり私はその時、その相手を愛するなんて無理なのです。
勿論、突然殴られて湧き上がる怒りは、ストレートで正当な怒りであって、
ネガティブな感情を覆い隠す為に二次的に生じる怒りでは無いので、
ストレートに感じる方が健全、と言えます。
ただ、報復は身を滅ぼしますし、何も産み出さないのですから避けなくてはなりません。
「何をするんだ!」と怒る気持ちは、ちゃんと味わい尽くした上で、取る行動は怒りに呑まれないことが肝要だと思います。
私に限ったこと、では無く、この物質世界に生きるなら、
人をジャッジすることを止めたい、
全ての人を等しく愛したい、と思っても、
おそらくそれは、叶わないのではないか、と思います。
人はポジティブな面もネガティブな側面も必ず持っています。
愛の人で在りたい、と願っても、この世界を生きるなら、ネガティブな側面が無い人にはなり得ないと言えます。
この世界には、愛に溢れる人、優しい人、誠実な人は沢山います。
しかし、欺く人、騙す人、傷つける人も沢山いるのです。
人の心にポジティブとネガティブがある様に、
世の中にもポジティブとネガティブが共存しています。
その世の中を生きるには、時にジャッジすることも、身を守ることも必要なのです。
この世に、神と天使が生まれ落ちない理由、です。
心のネガティブがあまりにも大きいと、生きづらさになってしまいますが、
時にネガティブは生きる為に必要です。
必要だから誰の心にも、ポジティブとネガティブが有る、と言えます。
高僧が悟りを求めて人里を離れます。
心を突き詰めれば俗世を離れます。
俗世に生きる限り、時にネガティブは必要だからです。
私は俗世に生まれ、これからも山に籠もることは無い筈ですから、優しい人とも、傷つける人とも、出会います。
この世から全ての敵を無くすには、全ての人を等しく愛することが唯一の方法と思われます。
でも私には、右の頬を打たれた時、左の頬を差し出すことは出来ません。
当たり前の感情を持った、俗な自分でありたい、と思っています。
愛することが出来、時に怒る、自分でありたい、と思っています。
悟ることも尊いですが、俗世に生き、ポジティブもネガティブも存分に味わう中で、
ネガティブと上手に付き合う術を探すことも、価値ある生き方だと思うのです。
読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。
伴走者ノゾム