冬の凛とした空気に似ている
自分と他人の間に、ハッキリとした感情の境界線を引くことは、
少し孤独をはらむ感覚がある、と思うのです。
人が生きる、ということは、自己を確立するための旅であり、自己を手放すことに気づく旅でもある、と思うのです。
自己を確立する、
自己を手放す、
両者は相反する事柄ではあるものの、
言語を越える部分では、実は混然一体としたものでもある様に思います。
私達はこの世に生まれ落ちた時は、自と他の区別も無く、エゴからも開放された完璧な存在であると思ってます。
しかし、生まれ落ちたのは、この物質世界です。
物質世界を生きるには、その完璧な存在であり続けることは不可能で、
一旦、自己を確立する必要がどうしてもあって、
自と他の区別をつける必要がどうしてもある、と思うのです。
だから、私達は完璧な全体性から離れて、自己を確立します。
生まれた時は完璧な存在であるのに、物質世界で生きるには、全体に抱かれたままでいることは、難しいのだと思います。
嘘をつくこと、を知ります。
偽ること、を知ります。
争います。
傷つけるのです。
それは、この世を生きるには、どうしても必要なことなので、皆そうします。
そうすることは、何も悪くない。
誰も悪くありません。
この世を生きるために必要だから、そう生きるのだと思います。
生きて、生きて、生き抜く中で、薄らぼんやりと、
生まれ落ちた時は、完璧な存在だったことを思い出すのかも知れない、と思っています。
完璧な存在であったことを思い出すことが、生きること、なのかも知れないと思うのです。
完璧な存在として生まれ落ちるのも、
完璧な全体性から離れるのも、
自己の確立を欲するのも、
嘘をつき、偽り、争い、傷つけるのも、
完璧な存在であったことを思い出すのも、
全部、必要で、全部、必然なのかも知れないと思っています。
生きる中、
ふとした時に感じる寂しさは、自己の確立を欲し、完璧な存在であることから離れる、離別の寂しさ、の様な気がします。
完璧な存在であることから離れ、
自他に境界線を引くことは、
孤独をはらみ、
寂しさを感じます。
それは、
冬の朝の凛とした空気に、
よく似ている、と思うのです。
読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。
伴走者ノゾム