映画「小学校~それは小さな社会~」

先日、ずっと気になっていた映画を鑑賞した。
鑑賞後の今、自分を、そして日本を丸ごと抱きしめたい気持ちでいっぱいである。

山崎エマ監督作品「小学校~それは小さな社会~」
日本の公立小学校の春夏秋冬を追うドキュメンタリー作品で、音楽の挿入はあるがナレーションや説明文の挿入はない。
けれど、監督が何を伝えたいことがかひしひしと伝わる。
なんてことない小学校の場面を切り取っているにも関わらず、小学生の頃の記憶など遥か昔のことのような大人の私が退屈するどころか100分弱を飽くことなく見続け、胸をいっぱいにした。
何度でも観たい。そんな作品だった。

自分で言うのもなんだが、私は割と真面目で仕事も一生懸命やるタイプ。
時間は守るし、ルールは破らない。ただの日本人。
だけど少しだけ、そんな自分を窮屈に感じる時があった。

それが鑑賞後の私は今、自分のことを愛おしく感じる。そして、道行く人々が、日本の風景が愛おしくて感極まりそうになる日々を送っている。

私たちはいつどうやって日本人になっていくのか

この映画のテーマとして大きく「私たちはいつどうやって日本人になっていったのか」と語られる中で、ストーリーラインとして1年生と6年生の児童にフォーカスが当たる。
小学校へ入学する頃の6歳児、ひいては生まれた頃はどの国の子どもも同じだが小学校を卒業する頃にはみな日本人になっているという対比を語るのだが、私も映画冒頭それをすごく感じた。

このドキュメンタリーは東京都世田谷区の小学校での撮影されている。
私は地方に住んでおり、確かに入学式当初の1年生は私の想像と差がなく感じたのだが、放送部の6年生二人を見た時にやや違和感を感じたのだ。
その二人の会話と、わが子とその友人たちの会話の質の違いを感じた。
同じ教育を受けたはずでも、決して同じ環境ではない場で過ごした、放送部の二人とわが子。二組にわずかな差異を感じたのである。
放送部の二人はそこで育ち、わが子はここで育った日本人になっている。
どうやら私たちは小学校6年間で日本人になっていくということを実感した。

日本の教育とは

外国の方が日本にくると大変驚かれるのが、まず鉄道のことだという。
時間通りに電車が来ることに感動される方が多いのだそう。
それから、列に並ぶこと。
道を歩いていて人に嫌なことをされることはないこと。

海外で生活したことのない私からするとそれは当たり前なことだった。
だが確かに、アメリカで生活していた友人は「バスなんて時間通りにくることの方が少ない」だとか「運転手が勝手に道順変えることも、バス停に停まってくれないこともある。」と言っていた。
どうして日本人はみなその当たり前ができるのか。

イギリス人の父と日本人の母を持つ山崎エマ監督は、大阪の公立小学校を卒業後、中高はインターナショナル・スクールに通い、アメリカの大学へ進学した。ニューヨークに暮らしながら彼女は、自身の“強み”はすべて、公立小学校時代に学んだ“責任感”や“勤勉さ”などに由来していることに気づく。

「6歳児は世界のどこでも同じようだけれど、12歳になる頃には、日本の子どもは“日本人”になっている。すなわちそれは、小学校が鍵になっているのではないか」との思いを強めた彼女は、日本社会の未来を考える上でも、公立小学校を舞台に映画を撮りたいと思った。

https shogakko film com

山崎監督がこの映画を撮りたいと思ったきっかけがまさに作品の結びになると思うのだが、本作を通してそれを実感した。

生活までもが教育の対象となっている日本。

給食当番や教室の掃除があるのは日本特有の文化なのだそう。
運動会や発表会のために何か月も練習したりするのもそう。
委員会や係があるのも日本ならではだという。

果たしてそれらから、子どもたちは何を学んでいるのか。

それは集団の中での自分の責任の果たし方であったり、社会生活での過ごし方なのだと思う。

日直などの役割と責任をみな平等にもらい、それを果たす事を6年間何度も繰り返すその過程で日本人になっていく。
自分のやるべきこと、できることをしっかりと全うする人間になっていく。
また、責任を果たす周りの友だちを見ながら、相手も様々な責任を果たしている事を感じ、リスペクトの心も育まれているのではないかと感じる。
不必要に人を傷つける必要もないことを学ぶ。
人と人が関わり合いや、お互いの役割を全うしながら生きている事を感じて平等性や協調性を育んでいく。

それが叶うのがこの、「生活までもが教育の対象になっている」日本の教育なのだろう。
そしてその結果、真面目で協調性のある日本人。
そしてこの平和な日本ができているのだろう。

経験で学んでいくこと

運動会や発表会を時間をかけて練習し取り組むのも日本ならではなのだそう。

運動会と向き合う6年生がいた。
苦手な縄跳びを最初はうまく跳べず同級生に遅れをとる中、暑い夏に家でも縄跳びを練習し続ける姿はそれだけでも胸を打つ。
うまく跳べないので楽しそうにも見えないし、縄が足に当たって痛そうにも見える。それでも出来るまで跳び続けるのが日本の12歳なのだろう。
運動会当日、大成功を収めた姿に涙が溢れる。

できるようになれば嬉しいこと。
辛さの先にあるもの。
頑張ってコツをつかめばできること。
みなで作り上げる尊さ。

経験からしか得られない学び。
これも日本ならでの大きな学びではないだろうか。

また、オーディションで勝ち取った楽器の自主練習を怠り教師から叱責される1年生がいる。集団の中で自分ひとりが責任を果たさないことに対し、1年生でも容赦のない叱責を受ける。

「あんまり練習できていないから失敗するかもしれない。失敗して怒られるのが怖い。」と次の練習に行けない彼女。
それを「一緒に怒られてあげるから。」と寄り添う担任。
そして「できるところまででいい。一緒に練習しよう。助けてあげる。」と厳しい眼差しを向けつつもあたたかく寄り添う音楽教師。

大人の助けがあって見事成功した合奏、その生き生きとした表情は自信に溢れており、あんなことがあったことを忘れたのかなと思うほどにリーダーシップを取り場を盛り上げる様子が非常に愛らしくこちらも笑顔になる。

自分一人が責任を果たさないと、秩序が乱れる。
自分の責任は自分に与えられている。
その責任を果たすことで、社会に属する楽しさや自信を得る過程。
まだ幼い彼女が得た経験と学びは、とても大きなものだろう。

先生も一人の日本人

ストーリーラインで数名の先生にもフォーカスが当たる。

児童に対する目線の厳しい先生がいた。

卒業式の日も児童たちを見送るまで先生は涙を見せることなく、凛とした姿で教台に立っていた。
厳しいと指摘を受けることもあったと話すが、それでも必要な厳しさだと思っていると話していた。
その先生が卒業式の後に同僚たちと食事を囲む中で声を発すことができないほど泣いていた。
苦しくて大変でもうダメかと思う瞬間もあったと話す。
きっと6年生を持つ重圧や、自分の指導が正しかったのか何度も自己を問い、向き合うからこその苦しさを真正面から受け止めてきたのではなかったのかと感じた。
そんな先生だったが、毎日6時には出勤し、教室の掃除をして換気をして、机をピシッと整えて児童を待っていたのだ。
毎日どんな気持ちで居たのだろう。
正解かもわからない自分の行動が、きっと児童にとっての何かになると信じて毎日続ける大変さ。
子どもたちはそんな先生の努力があったことに気づきもしないかもしれないが、こんな大人の行動一つも日本人を日本人にするのではないかと思う。
そして最後の教室掃除をする傍らには幼いかわいい子どもの姿。
あぁ、先生はお父さんだったんだ。
掃除の邪魔だと子どもさんを担ぐ姿は、どこにでもいる普通のお父さんだった。

多くの場合、教師は模範的な立場であることを強く求められ児童や保護者の前に立つだろう。
けれど、そこにいるのは教師である前に一人の人である人間だ。たくさんのことを感じ、考える人間だ。そんなことがひしひしと伝わってきた。

昨今、教員の労働環境について言われることが多い世の中であるが、この映画を通して私は教師はステキなお仕事だなと感じた。

置かれた環境で最大限楽しむ力

修学旅行の夜、引率の先生たちの話が興味深かった。
彼らは「自由と制限」の話をしていた。
子どものことを考えたら、自分たちの子どもの頃を思い出すと、もう少し自由に過ごさせてあげたいという本心もありながら、制限も必要であると悩む姿。

本作はコロナ禍の2021年に撮影されたこともあり、今よりも多くの制限があった時期だ。
それでも制限のある中で修学旅行は実施された。

修学旅行に行くのは6年生だ。日本の教育を受けた12歳の彼らは、ルールを守りながらもその経験を楽しんでいるように感じた。

遠い記憶が思い起こされる。私もそうだった。
修学旅行はとても楽しい思い出だ。
少ないおこづかい、少ないおやつ、消灯時間、テレビの時間、様々な制限がある中で、最大限に楽しんでいた。
制限がたくさんあって嫌だったなんて記憶は全くない。
むしろその制限を工夫することすら楽しんでいたように思う。

きっと本作の児童たちもそうであったんだろうと思う。
そして制限の中でも最大限楽しむ工夫ができること、それが日本人の強みなのだろうと感じた。

制限があることに不満を持ってもいい。自分の自由をもっと主張してもいい。
けれど、周りの人に迷惑をかけずに、周りの人に嫌な思いをさせずに、自分にある責任を全うしつつ、その中で最大限楽しむ術を知っている。

「足るを知る。」
そんな言葉もある。
多くを求めすぎなくとも、自分は幸せであること知っている。
だから人のために少しの我慢ができる。協調できる。
平和のためにちょっとの努力ができる。

その礎を作ってきたのがきっと日本の小学校教育なのだろう。日直、係、委員会などの役割は自分にも回ってくるものだし、遠足や社会見学では厳しくルールを叩き込まれる。
楽しい遠足だけれど、制限もある当たり前。
それを当たり前に知っているのが日本人なのだろう。


真面目でルールを守る自分が少し窮屈に思うこともあった。
けれど本作を通して、それ自分が一生懸命生きてきた証なんだと実感し自分を愛おしく感じた。
ドキュメンタリーの中の児童たちのように、教師に教えられ、たくさんの友人に囲まれ、経験の中で様々なことを感じ、受け止めて歩いてきた結果が今の私なのだろう。

自分が日本人であること、日本の教育を受けたこと、日本に住んでいること、全てを愛おしく感じることができ、今とてもあたたかい気持ちで周りを見ることができることに感謝している。









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