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「さびしんぼう」論──富田靖子を一人三役と見るか? 一人四役と見るか?


はじめに

ラストシーン、ヒロキと百合子が結ばれたかと見えたわたしたちに、ヒロキの声が問いかけます。

「そんな光景を、みなさんは何とお考えになるだろうか」

大林宣彦(監督)/1985/『さびしんぼう』/東宝

ヒロキの妻は、百合子なのかどうか。

百合子と結婚してめでたしめでたし、としてしまうと、たいせつなものを見落としてしまうことになりはしないでしょうか。

大林監督は、「何とお考えになるだろうか」と投げかける幕切れをよしとしました。

富田靖子は一人何役だったのでしょうか。同じ容姿の百合子とタツ子、そしてラストシーンにおけるヒロキの妻と娘。

一人二役

いったん、一人二役のみを見ていきましょう。

富田靖子はエンドクレジットで「さびしんぼう」の役となっていますが、百合子とタツ子の二役を演じていることはあきらかです。

ただし、これはあくまでも演出上の一人二役です。映画のなかの世界で、ふたりは同じ容姿として扱われてはいません

タツ子がメイクをしているとはいえ、このふたりが同じ容姿であることに、ヒロキは違和感をもたず、それぞれの態度で接しています。

一方で観客には、このふたりが重なって映ります。

ヒロキは、百合子を追いかけることで母親に似た女性に惹かれていますし、タツ子と抱き合って別れを迎えるとき、そこに百合子の姿が重なってきます。

監督は、『A MOVIE・大林宣彦』で以下のように話しています。

母親と、その少女時代の話であって、文学の場合は、イマジネーションで、両者を同じ肉体として見ることができる。

だけど、映画ですと、藤田弓子と富田靖子という別の肉体が演じなきゃならない。映像というのは不便なもので、これは同一人物には見えない。

そこで、橘百合子と、さびしんぼうを、富田靖子という同じ肉体を持った少女が、二役を演じて、ワンクッションにして、藤田弓子の肉体に飛ばしちゃう

『A MOVIE・大林宣彦』(1986年/芳賀書店)

ワンクッションとは、同一人物が演じることによって、別人を同じ容姿で見せ、容姿=人物の同一性を薄れさせたといったところでしょうか。

おかげで、容姿の異なる富田靖子と藤田弓子が、同一人物タツ子として観客に伝わりやすくなり、富田靖子のイメージを「藤田弓子の肉体に飛ばしちゃう」(重ねる)ことができたというわけです。

なんと見事なアイデアなのでしょう。

さらにこの一人二役は、意図的なものか偶然の産物か、一石二鳥の効果を生んでいます。

ふたつめはラストシーン、ヒロキの傍らに座る富田靖子を、同じ容姿でありながら百合子だと決定させないという効果です。

百合子を富田靖子が演じ、十六才のタツ子をだれかほかの役者が演じていたら、と想像してみましょう。

ラストシーンで富田靖子が出てきたとき、わたしたちはもう、彼女を百合子であるとするほかなくなってしまいます。

一人二役であることにより、大林監督が意図した、ヒロキの妻が百合子なのかどうかを明確にしないラストが成立しているわけです。

遺伝子

そして時は過ぎ、いつか僕は大人である

大林宣彦(監督)/1985/『さびしんぼう』/東宝

こうヒロキが独白する数年の間に、なにがあったか。百合子とはまた別の女性に恋をした可能性に思いを馳せます。

そのだれかがやがてヒロキの妻となります。好みの女性像が変わっていなければ、百合子とタツ子に似ているところがあるかもしれません。

そしてヒロキの娘もその女性の血を引き、百合子とタツ子に似た容姿に育つこともあるでしょう。

また、妻の遺伝子だけでなく、彼自身に母タツ子の血が流れてもいます。娘にはその遺伝子が強く出るかもしれません。

ヒロキの側のタツ子の遺伝子によっても、ヒロキの娘は、百合子に似る要素をもっているわけです。

「別れの曲」のオルゴール

ラストシーンのオルゴールを何と見るか。ヒロキと百合子が結ばれたとする考え方の証拠品となりそうなオルゴールについて、検証しておく必要があります。

果たしてあのときの、ヒロキが百合子へプレゼントしたオルゴールだったのかどうか。

そうではないと思いたいがために可能性を探れば、ヒロキがこのオルゴールをまたいつかどこかの店で見つけ(同じ店かもしれません)、なつかしく購入したという推理は苦しいでしょうか。

ヒロキの父道了も、誕生日を迎える妻タツ子に、「別れの曲」のオルゴールを買おうとした過去がありました。

尾道に住む彼らにとって、手に入れようとすれば手に入れられる、そんな商品なのかもしれません。

そしてヒロキはどのような大人に成長したか。「夢見がちな少年に育ってしまった」彼が、思い出のオルゴールを買いなおす大人になったとしても不思議はありません。

もし母親の性格に似たとしたらなおさらです。なにせタツ子は、息子に自分の思い出の曲を弾かせるような大人です。

タツ子が夫道了について、「最近またお母さまへ似てきたわ」と嘆くセリフもあります。ヒロキも同じように、母タツ子に似てくることが暗に示されています。

おふくろさんもロマンチスト

僕が夢見がちの少年に育ってしまったのも、多分にこの風景のせいだろう

大林宣彦(監督)/1985/『さびしんぼう』/東宝

同じ土地で育ったであろうタツ子も「夢見がち」の少女に育ち、その延長で大人になりました。

母親について「僕とは正反対だ」といっていたヒロキも、「さびしんぼう」の話を聞き、彼女がロマンチストであったことを知っていきます。

タツ子は「ヒロキ」という名前の、「別れの曲」を上手に弾ける男の子を好きになりました。

彼女にとっては、ピアノが上手なヒロキが、主人公ヒロキにとっての百合子のような存在だったわけです。

またタツ子は、男子学生たちが口をそろえて言うとおり、あきらかに主人公のヒロキにも恋をしています。なかなかに恋多き女性です。

尾道という土地よりも、ロマンチストなタツ子こそが、その遺伝子と教育とによって、ヒロキを「夢見がちな少年」にしたのかもしれません。

裏さびしんぼう

ところで、もしタツ子を主人公にした「裏さびしんぼう」とでもいうべき映画を撮るならば、ふたりのヒロキはもちろん尾美としのりの一人二役でしょう。

さらにいえば、井上ヒロキはタツ子の血を引いており、つまりはタツ子の父親の血を引いています。

ファザーコンプレックスの要素も絡み、きっとタツ子の父親も尾美としのりが演じることでしょう。世代を超えた男女の入れ替えがきれいに繋がります。楽しい想像の脱線です。

指一本で単音のメロディをなぞるだけだったヒロキの「別れの曲」は徐々に上達していきました。映画の終盤でも、なおタツ子に「へたくそにしか弾けない」と言われてはいますが、ピアノの上手なヒロキに近づく可能性は示されています。

タツ子の思い出のヒロキも、初めからピアノが上手だったはずはありません。彼女がその演奏を耳にする日までに、相当な練習を重ねたことでしょう。

かなしい両想い

さびしんぼうの格好をした十六才のタツ子は、その思い出のヒロキと出会う前だったのか、出会った後だったのか。

私も一度でいいからそんなプレゼントもらってみたかった。

大林宣彦(監督)/1985/『さびしんぼう』/東宝

そう口にしているところから想像するに、出会った後の可能性が高そうです。

ちなみに『A MOVIE・大林宣彦』では、もとの剣持亘の台本について以下のように書かれています。

母親が昔、神かくしに遭った(中略)、その時期に現代に出てきていたという

『A MOVIE・大林宣彦』(1986年/芳賀書店)

タイムスリップのSF考証はともかく、タツ子の中で記憶と時系列が連続しているとすると、彼女は、思い出のヒロキを、主人公のヒロキに重ねて恋をしていることになります。

主人公のヒロキのほうも、いつか思い出になる百合子、もしくは母親をマザーコンプレックス的に重ね、十六才のタツ子に恋をしかけています。

まるで合わせ鏡のようです。

タツ子は思い出のヒロキに片想いをし、主人公のヒロキは百合子に片想いをしていますが、ここではおたがいの矢印が一致している、両想いとしてとらえてもよい関係です。

ただし双方が、相手に別の「さびしんぼう」を重ねた両想い。

しかもタツ子が十七才の誕生日をむかえることで、終わりをむかえる運命です。

その最後の時だけ、雨のなかで、だれも重なっていない、おたがいの想いがつながった両想いに見えるのは残酷です。

が、その残酷さは、令和の時代にwacciが歌うところの「素敵な残酷さ」ではないでしょうか。

「さびしんぼう」という言葉

母タツ子と息子ヒロキは、発想や言語化のセンスまでも似た親子でした。

どうして「さびしんぼう」という呼び名が僕の心のなかで生まれたのかはわからない

大林宣彦(監督)/1985/『さびしんぼう』/東宝

僕は自らの心がおもむくままに彼女を「さびしんぼう」と呼ぶようになった

大林宣彦(監督)/1985/『さびしんぼう』/東宝

なぜその言葉を思いついたかわからない「さびしんぼう」という言葉は、タツ子が十六才のときに作った創作劇で「とてもロマンチック」な失恋の話に使った言葉でした。

冒頭で「あとから考えれば不思議な符牒だった」というヒロキは、すでに物語を見通しています。「さびしんぼう」という言葉を十六才のタツ子が使っていたことも知ったうえで、このモノローグを発しているのです。

一方で十六才のタツ子は、恋愛感情のバイアスがかかっているところもあるかもしれませんが、ヒロキが作った詩を「あんたの詩よかった。あたし好きよ」と褒めます。

さという字が
びという字を
おんぶして
しんぼう.
しんぼう.
と歩いている

大林宣彦(監督)/1985/『さびしんぼう』/東宝

タツ子自身が使った「さびしんぼう」という言葉を紐解いて表現したヒロキの詩を、彼女が気に入ったのは当然のことでしょう。

永遠に願った真実の恋の勝利

物語のすべてを理解したヒロキのモノローグは、「思えばこれこそが、あなた(=ショパン)が永遠に願った真実の恋の勝利というものではなかっただろうか」と投げかけます。

安直に考えれば、この映画において「恋の勝利」は、百合子と結ばれることでしょう。ただ、それだけでは、ふつうの恋の勝利でしかありません。「永遠に願った真実の恋の勝利」は、また違った意味を持たされていると考えるべきです。

振り返ると、やはり血縁/遺伝子にかかわる内容ではないかと考えられます。

母と息子の関係をあらためて見ておかなければなりません。

マザーコンプレックス

百合子とタツ子を一人二役としたことの効果が、ここにもあります。マザーコンプレックスと恋愛との混交です。

「さびしんぼう」の格好をしたタツ子を別の役者が演じていたとするとどうなるでしょうか。

若いときの母親と百合子とのシンプルな三角関係になり、マザーコンプレックスの要素が強すぎてしまいそうです。

一人二役としたことに加え、映画全体を通して、微妙なさじ加減があっただろうことは、想像にかたくありません。

男の子っていつでも母親に恋しているものなのよ。

大林宣彦(監督)/1985/『さびしんぼう』/東宝

映画『さびしんぼう』には、マザーコンプレックスの要素がたしかにあります。わたしがこの映画をすすめた友人のなかには、拒否反応を示した人もいました。

「アメトーーク」の「お母さん大好き芸人」の回で霜降り明星の粗品さんが、マザコンが恥ずかしいと言っていること自体がもうダサい、といった趣旨の発言をしていて、その価値の転換に目からうろこでしたがそれはともかく、とりあえずここではその是非はどちらでもよく、映画『さびしんぼう』にマザーコンプレックスの要素があることはだれの目にもあきらかで、それなしにこの映画は成り立ちません。

クライマックスでふたりの「さびしんぼう」と別れた翌朝のヒロキは、写真にうつった「さびしんぼう」が母親であることを理解しています。十七才のときの写真を飛ばしてみようかと考えているのはそういうことですし、冒頭のモノローグからして、彼はすべてを認識しています。

そのうえで、ヒロキは、「なかなかかわいいよ」「かなりの美人だよ」「俺、こういう女の子、大好きさ」と、目の前にいる母親本人に向かって口にします。

このテイストが駄目な人間には駄目であろうこの突き放しに、監督の覚悟が感じられます。

あらためて「永遠に願った真実の恋の勝利」について考えてみましょう。

母親から受け継いで自分のなかにある/流れるものが、「永遠」や「真実」につながっていく。「真実の恋」は自分の遺伝子に内包されている、だからこそ「永遠の勝利」となる。

せっかく映画という形で表現されているものをつまらなく整理してしまうようですが、考え方としてはこういうことになるのではないでしょうか。

論理的に整理してしまうことを厭わないでいられるのは、それでもなお、理屈におさまらないたくさんのきらめきが、たしかにこの映画にあると信じているからです。

「別れの曲」が流れる

そんな日があるとすれば、そこにはかならずやあの甘美な別れの曲のメロディーが、今もまた流れているに違いない。

大林宣彦(監督)/1985/『さびしんぼう』/東宝

ラストシーンの映像をわたしたちとともに見ているかのように、ヒロキがモノローグでつぶやきます。

次の世代へと受け継がれた「別れの曲」。

タツ子がヒロキに弾かせていたように、おそらくはヒロキが娘に弾かせているわけで、それは彼の思い出の曲だからにほかなりません。

ヒロキと娘の関係も気になります。オルゴールを見上げるやさしい目。ヒロキの思い出について聞かされたことがあるのでしょうか。

また、娘にもだれか、すてきな「さびしんぼう」がいるのかもしれません。

ヒロキの父道了のセリフに「父さんは母さんの全部が気に入ってもらったんだからな。その思い出もたいせつにしてあげたいと思う」とありました。さらに息子に対して、「その人のよろこびもかなしみも、みんなひっくるめて好きになれ」と伝えます。

「いつしか大人である」ヒロキが実践できたのかどうか、わたしたちの想像にゆだねられています。

ヒロキの妻にもいろいろな思い出があることでしょう。かくしたい境遇や過去があるかもしれません。百合子のように

ヒロキの妻は、百合子であってもいいのかもしれません。

ここまで見てくると、監督が結末をはっきりさせなかった理由がわかってきます。

百合子と結ばれても結ばれなくても、「永遠に願った真実の恋の勝利」にたどり着いた。少なくともヒロキがそう思えている、そのことが、この映画のハッピーエンドなのではないでしょうか。

一方で、愛される側でもあるヒロキ。その妻が百合子でなかったとしても、彼女も、夫のなかの「さびしんぼう」の思い出を含め/オルゴールも含め、彼の全部を好きになってくれた、とするのは虫がよすぎでしょうか。

ラストシーンのオルゴールは、道了がタツ子へプレゼントしようとしたように、もしかするとヒロキの妻が買ってくれた可能性もなくはありません。

また、その妻ではなかったとしても、百合子もいつかどこかで、すてきな「さびしんぼう」に出会っていることを願います。

彼女の家にこそ、あの時のオルゴールが置かれていることでしょう。

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