
渋沢栄一の生涯-500の企業を創り、社会に尽くした男-
今日の日本社会において、企業の社会的責任(CSR)や、倫理的な経営が重視されるようになった背景には、ある一人の実業家の思想が深く影響を与えている。それが「日本資本主義の父」と称される渋沢栄一である。彼は「道徳経済合一説」を唱え、経済活動の目的を単なる利益の追求ではなく、社会全体の繁栄にあるべきだと考えた。その理念は現代のSDGs(持続可能な開発目標)にも通じるものがあり、今なお企業経営者や社会起業家に多くの示唆を与えている。
彼の人生は、単なる実業家の歩みではなかった。それは、「社会をより良くするために、どのように人々を巻き込み、仕組みを作るか」という挑戦の連続であった。
豪農の息子として生まれた経済感覚
1840年、武蔵国榛沢郡血洗島村(現在の埼玉県深谷市)に渋沢栄一は生まれた。彼の家は単なる農家ではなく、藍玉の製造販売や養蚕業を営む商業的な豪農だった。この環境が、彼に幼い頃から商才を育ませる。14歳の頃には、信州や上州まで一人で藍葉の仕入れに出かけるほどだった。一方で、幼少期から「論語」を学び、道徳や人としての在り方を深く考える機会も得ていた。
こういった幼少期の経験が、後の「道徳と経済の両立」という彼の信念の根底を形成することになる。
青年期になると、彼は尊王攘夷思想に傾倒し、倒幕を志すようになる。そして、一時は従兄の尾高惇忠らとともに、高崎城を奪取し、横浜の外国人居留地を焼き討ちにする計画を立てる。しかし、親族の説得により計画は中止され、やがて一橋慶喜の家臣としての道を歩むことになる。
パリで見た資本主義の衝撃
1867年、渋沢は慶喜の実弟・徳川昭武に随行し、フランス・パリ万国博覧会を視察する機会を得る。ここで彼は、西洋の発展した資本主義社会とその仕組みに強い衝撃を受けることになった。
特に渋沢に強い印象を与えたのは、株式会社という制度であった。個人の力では限界のある事業も、多くの人々が資本を出し合い、責任を分担することで、巨大なプロジェクトを動かすことができる。渋沢はこの「合本主義」こそが、日本の経済発展に必要であると確信する。
帰国後、彼は静岡藩で商法会議所(日本初の株式会社組織)を立ち上げ、その後、大蔵省に入省して日本の財政制度の改革に着手する。しかし、政府主導の経済政策では限界があることを感じ、やがて官職を辞し、民間経済人としての道を選ぶことになる。
民間の力で日本を変える
1873年、渋沢は第一国立銀行(現・みずほ銀行)を設立。これが、日本における本格的な銀行制度の始まりとなる。銀行を通じて、資金を広く流通させ、企業を育てることが、国を豊かにする鍵であると考えたのだ。
その後も、東京商工会議所、東京証券取引所、王子製紙、東京ガス、帝国ホテル、東京海上保険、大阪紡績など、日本経済を支える数々の企業の設立に関わった。その数は500社を超えると言われている。
しかし、渋沢の信念は単なる企業の設立に留まらなかった。彼は、財閥のように企業を一族で支配するのではなく、多くの人が資本を出し合い、公益のために事業を進めることを重視した。この思想は、日本の「財閥」と対比される「非財閥経営」の源流となった。
「論語と算盤」に込められた哲学
渋沢の思想は、単なる経済活動に留まらず、「道徳と経済の融合」という哲学へと昇華していく。それが、彼の著書『論語と算盤』に集約されている。
彼は、「正しい道徳のもとで行われる経済活動こそが、本当に社会を豊かにする」と説いた。そして、それを実践するために、女子教育や社会福祉事業にも力を入れた。東京養育院、日本赤十字社、東京女学館、日本女子大学の設立などにも積極的に関わり、社会全体の発展に尽力した。
道徳経済合一論は現代へ
1909年、渋沢は70歳で実業界を引退し、社会事業と国際交流に力を注ぐようになる。日米関係の改善のために渡米し、アメリカの大統領と会談するなど、民間外交にも尽力した。
1923年の関東大震災では、自ら救援活動に立ち上がり、多くの資金を集めた。また、昭和2年(1927年)には、日米親善のための「青い目の人形」交流にも関わるなど、晩年まで「公益のために動く実業家」として活動を続けた。
1931年、91歳でこの世を去るが、彼の思想は今なお日本に息づいている。
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おすすめの本:
参考文献:
渋沢栄一略歴|渋沢栄一|公益財団法人 渋沢栄一記念財団
新一万円札の顔「渋沢栄一」とはどんな人物?功績や新紙幣に選ばれた理由などを紹介|埼玉りそな銀行
渋沢栄一 – Wikipedia