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モダンとポストモダンを架け橋した建築家-フィリップ・ジョンソンの生涯-
フィリップ・ジョンソンは、20世紀の建築界において最も影響力を持った人物の一人である。彼が築いたモダン建築の基盤、そしてポストモダン建築への転換は、現代の都市景観に決定的な影響を与えている。特に、ニューヨークの摩天楼や、ガラスと鋼鉄が織りなす建築の表現は、彼の功績なしには語れない。しかし、彼の人生は単なる建築家の成功譚ではない。彼はその時々の流行を先導し、思想と美学を行き来しながら、時にスキャンダラスな道を歩んできた。
芸術と贅沢の中で育まれた感性
1906年、フィリップ・ジョンソンはオハイオ州クリーブランドに生まれる。父親は成功した弁護士であり、家族は財産を築いていた。一方、母親は芸術に造詣が深く、幼い頃から美術や音楽に親しむ環境で育つ。
高校はニューヨークの名門ハックリー校に入学し、その後ハーバード大学でギリシャ哲学、歴史、フィロロジーを学んでいる。
この時期に彼の人生を変える出会いがあった。それはヨーロッパへの旅であり、ル・コルビュジエやミース・ファン・デル・ローエといった建築家たちとの邂逅である。
また、父のアルミニウム会社の投資成功により、彼は莫大な財産を相続することになる。この資産が、彼の贅沢な遊学や、後の美術館活動、さらには建築の実験を支える基盤となり、彼の将来を歩む基盤となった。
モダニズムの伝道者として
1930年、ジョンソンはニューヨーク近代美術館(MoMA)の建築部門の初代ディレクターに就任する。ここで彼は、モダニズム建築をアメリカに紹介する役割を担った。1932年にはその後の世界中の建築業界に影響を与えることになった「インターナショナル・スタイル」展を企画し、モダニズムの旗手として名を馳せる。特にミース・ファン・デル・ローエとの関係は深く、彼の建築哲学に大きな影響を受けた。
しかし、1934年にMoMAを離れ、政治とジャーナリズムに傾倒していく。ここで彼は後に自身のキャリアに影を落とすこととなるナチスへの共鳴を示す。この時期、彼はヒトラーに魅了され、ナチス・ドイツのプロパガンダ活動に関与している。
しかし、第二次世界大戦の勃発とともに、彼は政治活動を放棄し、建築の道へと戻る。
ナチズムとの決別と建築家としての再出発
戦時中、彼はハーバード大学に再入学し、建築を学び直している。師であるマルセル・ブロイヤー、ヴァルター・グロピウスのもとで建築技術を学び、1946年にはMoMAの建築部門に復帰する。さらに1949年には、自身の代表作「ガラスの家(Glass House)」を発表し、建築家としての本格的なデビューを果たした。
この「ガラスの家」は、彼のモダニズムに対する愛と哲学を体現した作品であり、ミースのファーンズワース邸に強く影響を受けたデザインであった。以降、彼はモダン建築の推進者として活躍しながらも、徐々にポストモダンへの転向を模索し始める。
モダンからポストモダンへ
1950年代から60年代にかけて、ジョンソンはミースとの共同作業を続けるが、70年代に入ると彼の建築は大きな変化を迎える。1978年にはAIAゴールドメダルを受賞し、翌年にはプリツカー賞の初代受賞者となる。この頃から、彼はポストモダン建築の旗手として、新しいスタイルを模索し始めた。
代表作として挙げられるのが、1984年の「AT&Tビル(現・550マディソンアベニュー)」である。これは古典的なペディメントを持つ高層ビルであり、モダニズムに対する反論とも取れるデザインだった。彼はこうしてモダンとポストモダンを往復しながら、建築の概念を広げ続けた。
建築の未来を見据えて
晩年のジョンソンは、脱構築主義へと関心を移し、フランク・ゲーリーやレム・コールハースといった建築家たちと対話を続けた。彼は晩年まで建築の最前線に立ち続け、ガラスの家でその生涯を閉じた。
彼の死後、その影響は世界中の建築界に広がり続けている。今日の建築において、モダンとポストモダン、合理性と装飾性をどう融合するかという課題は、彼の遺産の一部である。彼の作品は今なお都市の象徴として存在し、その思想は多くの建築家に受け継がれている。
Book
自伝・伝記:
おすすめの本:
参考文献:
デザイン読書補講 13コマ目『評伝 フィリップ・ジョンソン 20世紀建築の黒幕』|designing
Philip Johnson – Wikipedia