優先順位の問題。
今日は朝活を行うことができた。
30分走っているところを、久しぶりだったのっで17分で切り上げた。
積読をしていた本を読んだ。というのも、その本を人に勧めることになりそうで、おそらくぴったりはまるのだけれど、僕自信がその本をちゃあんと読めていないな、反省した。
ちゃあんと読むということはなんだろう、と少し前に考えて、読書ノートを書いたり、noteにあげてみたりしていた。
でもなんだかピンときていない。
内容をすべて記憶することは不可能だし、間違って解釈してしまったりしてしまう(というよりも読書の目的の半分はその脱線にあるのかもしれない)から、本当にその本だけを独立して吸収した、と考えること自体が読書への偏見ということだろうか。
読書をしていると、その内容について考えることもないわけではないけれど、全く関係ないことを考えてしまうことが良くある。
あ、そういえば昔こんなことがあったな、とか、仕事でこれが使えるのではないか?とか仕事の本を読んでいないときの方がひらめくことがある。そして多くはその内容を忘れてしまう。
だから、読書メモをとるというのは、むしろ本の内容を忠実に書くのでは無く、本と読者(この場合は僕)との相互作用の軌跡を記述するべきなのではないか、と今書きながら考えている。
本の内容を知りたければ本を読めばいい・・・かな。もちろん小さくまとめたり強調することによって便利ではある。例えば本の内容について話をしなければならない場合、コンパクトに本の内容だけを抽出する必要はある・・・あるけれど、なんだか目次とはじめに・おわりにぐらいを読んでおけば事足りるのでは?とも思う。
書くことについてこだわっているけれど、僕はあまり書くことを上手に行えていない、と考えている。だからこそぐるぐるぐるぐる書くことについて書いてしまっている。
今日はでも読書に対しての向き合い方というか腰の入れ方のようなもののとっかかりをなぜか見つけることができたような気がする。
ページ数や時間をかけたらいいという物でもないな、と思いつつついついそこに目が行ってしまう。鏡を置きながら読書をすべきなのだろう。もちろんその鏡には自分の考えのすべてが写ることは無い。だけれど、自分は写っている。本の世界にのめり込んでしまうことはちょっと難しそうなとき、そういう関わり方をすれば、本のことを嫌いになることは避けられるだろう。