【小説】夜間飛行(1/1話)
約24000字
同じクラスの男子高校生3人が主人公です。
THE BLUE HEARTS 「月の爆撃機」歌詞
←この物語のなかで重要な役割を担っています
*
放課後の学校は、音で溢れている。
ボクは屋上に立って、じっと、耳を澄ましている。やわらかい風が、頬を撫でる。
野球部の掛け声や演劇部の発声、吹奏楽部の演奏、体育館の床とシューズが擦れる音に、駐輪場を出ていく生徒たちの笑い声。ここには届かなくても、誰もいない教室でクラスメイトと語り合う声や、分厚い参考書をめくる音もあるだろう。
前向きなものも、そうでないものも、ここにいるひとりひとりの思いを全部のせて響く、学校の心臓みたいな音だ。
だけどボクは、知っている。主役たちの音に隠れて、誰にも気にかけられないまま消えていく音があることを。
その音を、ボクは、ちゃんと聞くことができる人間でありたい。
だから今日も、耳を澄ます。
「よう、シュウヘイ」
名前を呼ばれて振り返ると、クラスメイトの彼がいた。ボクは返事をする代わりに、ゆっくりと頷く。
ボクは、彼のことをとても慕っている。はみ出さないのに、自由だからだ。
彼は、こうしてときどき屋上にやってきては、何をするでもなく、ただグラウンドのほうを眺めて帰っていく。いつもなら、真っすぐフェンス際へ歩いて行くのに、今日はボクのすぐそばで立ち止まった。
「あれ、見ろよ」
彼が頭上を指さしたので、ボクは反射的に空を見上げた。
そこには、月があった。気が遠くなるほど果てしなく広がる青空に、雲みたいな月が、ぽっかりと浮かんでいた。
「なんか、キレイだな」
彼の言葉に、ボクは「うん」と大きく頷く。
「今日の俺、ラッキーかも」
嬉しそうに笑う彼の横顔をみて、自然とボクも笑顔になっていた。
*
机の上に横たわっている一枚の紙きれが、とても忌まわしい。帰りのホームルームが終わり、みんながせわしなく動き始めるなか、僕はそいつと睨みあっていた。
〈進路希望調査票〉
そう掲げられたタイトルの下に、国公立、私立、四年制大学、短期大学、就職、の文字。
「来週から中間面談を始めるから、今週中には提出するように」
担任の宮下は、ホームルームでぶっきらぼうに言い放った。
高校二年の秋。大学受験が迫っているという危機感はまるでなく、フレッシュさも底をついて、嘘でも本当でもとりあえず笑っているうちに、一日が過ぎていく。目標達成とか努力とか、そういうものはもうとっくに遠く離れた世界のことになっていた。ひたすら無難に、やらなければいけない(と言われた)ことだけをこなす毎日だ。
このままでいいのか。いや、よくない。じゃあ、どうすればいい。どうすればいい…。
そんなありきたりな自問自答も、何度も繰り返しているうちに、なにも感じなくなった。こんな僕だから、将来のことなんてどれもこれもピンとこない。
きっといくつになっても、何を手に入れても、欲しいものはなくならなくて、望んで手に入れたわけでもないものを、他人に羨ましがられたりするのだ。僕にとっての不幸は誰かにとっての幸せで、逆もまた然りで。「自分のため」と「他人のため」は決して両立し得ないし。そうだとしたら僕は、どちらのために生きるべきだろうか。自分以外の人間を、誰一人として不幸にしない幸せなんて、本当にあるだろうか。ないとしたら、僕は僕が幸せでいることを、素直に受け入れられるだろうか。
ねずみ色の疑念が、むくむくと頭をもたげる。
幸せって、何なのだろう。わからない。
「英太、帰んねーの?」
ふいに、聞き慣れた声が降ってきて、僕は我に返った。顔を上げると、クラスメイトの晴人が目の前に立って僕を見下ろしていた。
「ああ、いま帰ろうと思ってたとこ」
僕は強ばった表情筋を駆使して笑い、乱暴に〈進路希望調査票〉をかばんにしまい込んだ。
たかが紙切れ一枚で、考えすぎだ。
昇降口を出ると、西日が真っすぐに僕たちを刺した。まぶしい、と晴人が顔をしかめる。
晴人の瞳が、ガラス玉みたいに輝く。晴人の瞳は透き通るような茶色をしている。ハリネズミみたいに立てた短髪も、きれいな栗色だ。僕より十五センチくらい高い身長も相まって、一年半前、入学式の日に初めて晴人をみたときに抱いた印象は「いかついイケメン」だった。
ただ、晴人のキャラクターを知って、その日のうちに「いかつい」の部分は払拭された。
「また明日なー」
校門を出たところで、晴人が空に向かって突然、声を飛ばした。
「何してんだよ」
僕が訝ると、晴人は頭上の電線を指さした。目をやると、そこには一羽のカラスがとまっていた。
「あいつ、毎日あそこにいるんだ」
屈託なく笑う晴人の顔を、僕はまじまじと覗き込んでしまう。突拍子のないことを言ってこんな風に笑うやつが、「いかつい」わけがない。
「だからって挨拶するかよ」
僕が半ば呆れて、からかうように言うと、晴人は真剣な顔つきになった。
「英太、しらねーのかよ。毎日挨拶してると返事するようになるらしいぞ、カラスって。俺は、それが本当かどうか確かめるんだ」
「マジかよ、お前。ていうか、なんであいつが毎日来てるカラスと同じだって分かるんだよ」
「そんなの、目を見りゃあ分かるだろ」
こらえきれずに僕は笑う。
「これは、カラスのほうが賢いってこともあるかもな」
「わかってないな、英太。まずは信じてみるってことが、大事なんだよ」
俺は絶対あいつに「また明日」って言わせるんだ、と晴人は鼻息を荒くした。
電線の上のカラスが、僕たちの会話を一笑するかのように、カア、と声を上げて飛び立っていった。
晴人と一緒に駅までやってきた僕は、電車に揺られながら窓の外を眺めていた。夕日がろうそくみたいな灯りを残して山の向こうに沈んでいき、風景が群青色に染まっていく。
ボックス席の向かい側に座っている晴人のほうにちらりと目をやると、晴人は窓枠に頬杖をつき、目を閉じていた。
学校ではいつも豪快に笑っていて、馬鹿なことばかり言ったりやったりしている晴人だけれど、時々こんな風に、人が変わったように無口になることがある。きっと、晴人には晴人なりの苦労があって、誰にも話さないでいる思いが、少なからずあるのだろう。
高校に入って最初の五月、ようやく新生活になじんできたころのことを思い出す。
「なあ、英太からも説得してくれよ、あいつのこと」
隣のクラスの高田くんが、僕に頼み込んできた。高田くんは坊主頭で、こんがりと焼けた肌にくぼんだ大きな目が特徴的で、いつもおどけたような表情をしていた。
彼が言う「あいつ」とは晴人のことで、彼はどうしても晴人を野球部に入れたいらしかった。
「俺が何回誘っても、もう野球はしないんだって、頑固なんだよなあ。今のところ、英太がいちばん晴人と仲いいだろ。親友がやってみろよって背中を押したら、晴人の考えも変わるかもしれないじゃんか」
高田くんは眉を八の字にした。しかし、やはりどこか真剣みにかけた表情に見える。損な顔立ちだな、と僕は関係ないことを考えていた。
「いちばん仲がいいなんて、晴人は思ってないかもしれないだろ」
僕が遠回しに拒否すると、高田くんは「いやそんなことないっ」と声を上げ、なんだかこちらが励まされているような気分になった。
「本人がやらないって言ってるんだから、俺が言ったって無駄だよ。きっと」
僕はまったく、晴人を説得する気になれなかった。僕が言って変わるくらいの意志なら、もうとっくに晴人は野球をしているだろうと思ったからだ。
「先輩にも、どうにかして晴人を引っ張ってこいって、言われてるんだよ」
高田くんは食い下がってくる。
そんなの知ったこっちゃない。その先輩が直接来ればいいだろ、と言ってやりたいところだが、それは飲み込んだ。
昼休みの終わりが迫っているのを確認して、僕は話を逸らして時間を稼ぐ作戦に出た。
「晴人って、そんなにすげーの?」
「すげえすげえ。俺らの世代では県内ナンバーワンといっても過言ではない」
何がどう具体的に「すげえ」のかは分からないが、高田くんの興奮ぶりからいって、晴人が相当な選手だったということだけは伝わった。
「あいつ、どこの中学出身だっけ?」
僕は重ねて訊く。
「一応三中だけど、もともとは浜のほうだよ。いちばんの仲良しなのに、知らなかったのか」
仲良しだからって何でも知ってなきゃいけないという決まりはない、という反論を考えついてみたが、口に出すほどのことでもない。代わりに、へえ、と間の抜けた声を出した。
「浜のほう」とは、僕たちが住んでいるこの県の、太平洋沿岸の地域を指していう言葉だった。一方、僕や高田くんが生まれ育ったこのまちは、浜のほうからだいぶ西側、県内でも内陸のほうの、山に囲まれた盆地だった。
自分の生まれ育った地区から他の地区に進学してくる生徒は滅多にいないから、晴人になにか事情があったのだろうということは簡単に察しがついた。
「だからさ、晴人がこっちにいるのは、俺たちにとってもチャンスなんだって」
そう言われると、高田くんたちが必死になるのも、わからなくはない。
どうしたものか、とため息をついたところで、昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴った。
「ああ、悪い、行かなきゃ」
僕はわざとらしく顔をしかめて、意味もなく自分の後方を指さしてみせた。
その場を立ち去ろうとすると「頼むぞ、英太!」と高田くんの声が飛んできて、僕は「気が向いたらな」と、絶対に約束を果たさないやつの決まり文句を吐いた。
あれから一年半近くが経った今も、夏の大会が始まるからとか、三年生が引退したからとか、ことあるごとに教室にやってくる野球部のやつらの勧誘を断り続けて、晴人は帰宅部を貫いていた。晴人のほうから話し出さないことに深入りするつもりはないけれど、地元の高校に進学していたら野球を続けていたのかな、と少しだけ気になったりはする。
電車が速度を落として、僕が降りる駅に停まろうとする。車内アナウンスが流れると、晴人が目を開けた。
「もう着いたか」
晴人が涼やかに笑ってみせる。
「また明日な。古文の課題、忘れんなよ」
「おう」
ホームに降り立つと、一日の終わりが両肩に落ちてきて、心底ほっとする。駅から家までの帰り道は、世界でいちばん空気が澄んでいると思う。
僕はズボンのポケットからアイポッドを取り出す。大学進学を機に家を出た兄ちゃんが置いて行った、おさがりだ。
イヤホンを繋いで、曲を流す。インポートされているのは、ザ・ブルーハーツの『ライブ・オール・ソールド・アウト』一枚だけだ。
ブルーハーツの歌を聴いていると、いつもより少しだけ、胸を張って歩ける気がする。勝者も敗者もまとめてぶん殴ってくれるような彼らの歌が、僕はどうしようもなく好きだった。
*
「おっはよう、英太」
駅から学校へ向かう道中、後ろから突然肩を組まれ、僕は体勢を崩した。
「朝から元気だな、晴人」
僕は耳からイヤホンを外して応じ、晴人の腕から逃れた。朝は電車が混んでいるから、お互いに違う車両に乗っていると駅を出てからでないと顔を合わせないこともある。
昨日の夜中にやっていたバラエティー番組の話をしながら、緩やかにのびる坂をのぼっていく。
正門の前まで来たところで晴人が立ち止まる。何事かと僕も足を止めると、晴人は「おはよー」と、上空に向かって挨拶をした。
まさかと思って頭上の電線に目をやると、案の定カラスが一羽とまっていて、艶々とした瞳で晴人を見下ろしていた。ちなみに、正門をぞろぞろと入っていく他の生徒たちも晴人を不思議そうな目で見ていた。
「朝もやるのかよ、それ」
僕は思わず眉をひそめ、晴人を置いて昇降口へ向かった。晴人はすぐに追いついてくる。
「あのさ、せめてもうちょい人目につかないところでやってくれよ」
僕の小言を、晴人は豪快に笑い飛ばす。
二階へ上がり、ガラス張りの渡り廊下を並んで歩いていると、中庭を横切る人影が目に入った。
中庭に人がいること自体は珍しくない。運動部の部室から教室へ来るときの近道だからだ。ただ、朝練をしている生徒たちが戻ってくるにはまだ早い時間で、明らかにその彼女は目立っていた。
「あ、あれって」
同じくそれに気が付いた晴人が、呟いた。
「いつも駅にいる子じゃん」
晴人に言われて僕も思い出した。彼女は、放課後によくホームで見かける生徒だった。おそらく、一年生だろう。僕たちとは使っている路線が違うけれど、駅に来る時間が被りがちだったのでなんとなく顔を見知っていた。
「なんか、雰囲気変わったな、あのこ」
「うん、前はさ、もっと髪の毛長かったろ」
晴人の言葉に僕はまた、ああ、と納得する。
「こう言っちゃあ悪いけど、前はもっと、なんか、暗い感じだったな?」
「そうそう、サボテンだった」
サボテン? 妙なたとえをする晴人に、僕は聞き返す。
「うん、なんか、この世のすべてが敵、みたいなオーラが出てただろ」
僕は否定とも肯定ともつかない相槌を打った。
「絶対、いまのほうがいいよな。サボテンに、花が咲いている」
花が咲いたのかどうかは別として、彼女の印象がよくなったことは確かだった。
「間違いない」と僕は頷いた。
「ありゃあ、恋だな」
晴人は続けて言う。自身のみなぎった表情だ。また適当なことを言い出したな、と僕は苦笑する。
「なんでもかんでも恋とか愛とか、つまんねーよ。これだから暇な高校生は」
僕は鼻で短く息を吐いてみせた。
「お前こそ、暇な高校生代表のくせによー」
晴人はケタケタと笑う。
間違いない、と僕はまた頷いた。
今日も僕の斜め前の席は、朝のホームルームが始まっても空席のままだった。その席の主であるシュウヘイは、学年で一、二を争う成績を誇る一方、遅刻の常習犯でもあった。
一時間目の途中、教室の前の扉が開きみんながそこに注目した。入ってきたのはシュウヘイだ。後頭部の寝ぐせと盛大に曲がったネクタイを直そうともせず、伏し目がちに席へ歩いてくる。
黒板に向かって数式を書いていたのは、担任の宮下だった。宮下は、上半身だけこちらを振り返って、シュウヘイの姿を目で追う。教室に流れていた空気がほんの少しだけ緊張を帯び、なぜか僕がそわそわする。
「おはよう、神沢」
宮下は、シュウヘイが席に座ったタイミングを見計らって呼びかける。それに対してシュウヘイは、目をきょろきょろと動かしただけだった。
教室でのシュウヘイは、どんな時でもこんな風だった。クラスメイトが事務的な用事で話しかけても、先生が授業中に問題の答えをたずねても、じっと目を伏せている。そのたびに、均衡を保っていた教室の空気がわずかに歪んで、僕はその歪みに焦って、どうして何も言わないんだよ、と心の中でシュウヘイを責め、神経をすり減らしていた。
斜め後ろからみるシュウヘイは、いつも物憂げで、すべてを諦めたような、微かに怯えているような目をしていた。僕は、その目が無性に嫌いだった。
クラスのみんなも、あからさまな嫌がらせをするようなことはなくても、異質なものとして、どこかでシュウヘイを遠ざけている節がった。
だけどひとりだけ、シュウヘイを特別扱いしない人間がいる。晴人だ。
といっても、晴人がシュウヘイと話しているところを見たことがあるわけではないし、シュウヘイがクラスで孤立しないように、晴人がなにか特別に気にかけてやっているということもない。だから、もしかするとクラスメイトの大半は、晴人もみんなと同じようにシュウヘイを遠ざけていると思っているかもしれない。
でも、僕にはわかる。
他のクラスメイトとシュウヘイの間にある緊張感のようなものが、晴人とシュウヘイの間にだけは、ないからだ。僕たちには知り得ない何かで、ふたりがつながっている。明確な根拠があるわけではないけれど、僕はそう、確信している。
その日の放課後、晴人が何も言わずにカバンだけを残していなくなった。トイレやロッカースペースにも姿はない。僕は「またか」と心の中で呟いた。
晴人は週に一、二回、こんな風にいなくなることがある。大抵、三十分は戻ってこない。別に、先に帰ってしまってもいいのだけれど、早く帰ったところでやりたいことがあるわけでもないし、なんとなく、僕はいつも晴人を待つことにしていた。
今日は課題が多かったから、この時間に少し片づけよう。
そう思い立った僕は、数学の問題集とライティングのノートを持って、三階へ向かった。三階には少人数クラスのときにだけ使う小教室がいくつかある。図書館やラウンジと違って、放課後にやってくる生徒がほとんどいないから、落ち着いて勉強をするには最適な穴場だった。定期テスト前には、晴人と一緒にこもることもある。
いつも使っている教室の扉を開け、窓際の席に腰をおろす。舞い上がった細かいほこりに日光があたって、きらきらと目立つ。黒板の上にかけてある時計を見て、四時台の電車はむりだな、とより手のかかりそうな数学の問題集を広げた。
ちょうど三十分くらいが過ぎ、あと一問解けば終わり、というところで晴人からラインが来た。
〈どこいるー?〉
〈三〇五の教室。五時の電車までちょっと時間あるし、お前も来いよ〉
〈オッケー、飲みもん買ってく〉
〈いちごミルク頼むわ〉
返信をうって十分ほどすると、晴人が缶と紙パックを手に持って現れた。
「サンキュー」と僕は、晴人が放った紙パック受け取った。
何の気なしにストローですすったジュースの味に、むせかえる。
「なんだよ、これ」
そのときになって確かめた紙パックには、「りんご黒酢味」の飾り文字が躍っていた。咳き込む僕を見て、晴人は豪快に笑った。
翌朝、僕はいつもより一本早い電車に乗っていた。
昨日、三階の教室に持っていって手をつけなかった英語のテキストを、丸々そこに忘れて帰ってしまったのだ。おかげで午前中までにやらなければならない予習もできなかったから、早めに行ってホームルームまでに済ませようという考えだった。
僕は無事に英語のテキストを手にし、三階の教室を出た。
早朝の校舎内は、心なしかひんやりしている。廊下を歩く自分の足音が、やけに大きく響く。わざとゆっくり、階段を下りてみる。大きなあくびも気兼ねなくできる。
ふと、踊り場の壁にある縦長の窓が気になって、僕はそこから下を覗き込んだ。ちょうど第一グラウンドが見える方向で、部活ごとに揃いのジャージを着た生徒たちが何人か、ストレッチをしたりランニングをしたりして、身体を動かしていた。放課後の練習よりは、やはりリラックスしているように見える。
僕はしばらく、その様子を眺めていた。レモン色の朝日を浴びて、時折笑い声を響かせながら弾む彼らは、すごくキレイだった。
何かいたたまれない気分になって、窓から離れようと身体をねじったところで、視界の片隅に見覚えのある人影がうつった。僕は再び窓の外に顔を向けた。
やっぱり。緑色のフェンス越しにグラウンドを見つめているのは、晴人にサボテンと称された彼女だった。
サボテンの熱い視線の先には、集団から少し離れてウォーミングアップをしている、陸上部の男子生徒がいた。おそらく、この前の全校集会で表彰されていた三年生だ。
ありゃあ、恋だな。
晴人の声が蘇る。あんな姿を見せられたら、反論の余地はない。あれは九十九パーセント、恋だ。
僕は、何となく意気消沈してそこを離れた。実際には意気消沈する謂れも筋合いもくそもないのだけれど、窓枠に切り取られた、ザ・青春の一ページを目の当たりにして持て余した羨望を嚙み砕いて心の奥底にしまい込むのは、それなりに労力が必要だった。
僕は制服のポケットからアイポッドを取り出して、イヤホンを耳につっこんだ。自分をちっぽけに感じてやるせなくなったときは、ブルーハーツを聴くに限る。
選んだのは、『ライブ・オール・ソールド・アウト』のなかで、いちばん好きな曲。「月の爆撃機」だ。イントロのギターのメロディが流れた瞬間に、この曲の世界観に一気にひきこまれる。
この歌の世界のなかで、僕はいつも地上にいる。夜空を見上げると、大きな満月が浮かんでいて、一機の爆撃機がそこに向かって飛んでいく。圧倒的な月の光のなかに消えていく爆撃機の小さな影を眺めながら、僕は、コックピットのなかのパイロットが見ている景色を想像する。パイロットが抱えるあまりにも大きな孤独に魅了されて、僕の目は、いつも月と爆撃機に釘付けにされているのだ。
僕は階段を下りながら、気が付いたときには歌を口ずさんでいた。周りには誰もいないものと信じ込んでいたから、結構な声量になっていた。
そこで突然、
「ねえ」
と、肩を叩かれた。
僕は驚いて、びくりと身体を震わせた。振り返ると、そこにいたのはシュウヘイだった。僕は固まって眉間にしわを寄せ、右へ左へ視線を泳がせた。
どうしてここにシュウヘイがいるんだ。
最初の驚きが収まってくると、油断しきって歌を歌っていたところを見られたかもしれない、という羞恥と焦りと屈辱が湧き上がってきた。その後で、シュウヘイがしゃべっている、という驚きの第二波がやってくる。
「なに?」と僕は、イヤホンを外しながら訊ねた。思わず、きつい口調になる。
「なんていうの? いまの歌」
シュウヘイは、普段の姿が嘘みたいに、まっすぐに僕の目を見つめていた。
やっぱり聞かれてたのか。そう思うと耳が熱くなった。僕はすっかり動揺しきっていた。
「ごめん、急に話しかけて。いい歌だなって思ったんだ」
シュウヘイはそう言って、柔らかく笑う。慣れないことに、どこか戸惑っているようにもみえたけれど、その目には、僕が嫌っていた怯えや諦念は浮かんでいなかった。
僕はゆっくりと、首を横に振った。
「『月の爆撃機』、ブルーハーツの」
僕が答えると、「ブルーハーツって、名前だけ聞いたことあるなあ」とまた笑った。
「うん、僕がいちばん好きなバンド」
何いらないことまで喋ってるんだ、と僕は頭を掻く。
「そうなんだ、ありがとう。聴いてみるよ」
そう言ったシュウヘイは、肩の力が抜けていてとても愛嬌のある表情をしていた。
知らなかった。シュウヘイってこんな顔だったんだ。
シュウヘイはそのまま、立ち尽くす僕を置いて階段を下りて行ってしまった。今日は遅刻しないで来られたんだな、とその背中を見送りながら思う。
僕はもういちどイヤホンを耳につけて、教室へ向かって歩き出す。
そういえば、誰かにブルーハーツが好きなことを話したのは、これが初めてだ。
その日の四時間目、体育の授業はサッカーだった。
次の時間が昼休みということもあり、僕たちは遊び半分でのんびりと片づけをしていた。
「おーい、そろそろボールよこせよ」
ボールが入ったかごを倉庫へ運んでいた田中が、僕たちに声をかける。僕は周辺にいたクラスメイト数人と、ボールを抱えて田中のもとへ急いだ。晴人だけが、ふざけてリフティングの練習を続けていた。
「晴人、腹減った。帰ろうぜ」
僕の呼びかけにも、生返事をする。
かごにボールをしまい、田中を手伝って倉庫の扉をおさえていると、校舎の一階、渡り廊下を制服のままのシュウヘイが歩いているのがみえた。ズボンのポケットに手を突っ込んで、いつも通り目を伏せていた。歩いてきた方向からして、保健室にでも行っていたのだろう。シュウヘイが体育の授業に出ることは、滅多になかった。
「サンキュー」
倉庫から出てきた田中が、僕の視線を追ってシュウヘイの存在に気が付いた。
「あいつ、またさぼりかよ」
田中が、冷たく言い放つ。周りにいたクラスメイトたちも、その声に反応して校舎のほうに目を向けた。
空気が、また微かに歪む。
「俺、前から思ってたんだけどさ、あれって甘えだよな」
田中が、誰にともなく言い出す。
「遅刻したり、授業であてられてんのに無視したりさ。先生たちだって、あいつがちょっと成績いいからって贔屓してんだろ?」
田中の口元には、嫌な笑みが浮かんでいた。
目には見えないけれど、濁った空気が確かに僕たちの周りに漂い始める。田中に同調しろ、シュウヘイに対する不満を言え、とその空気は僕たちに囁く。
今までの僕だったら、真っ先に流されていたかもしれない。僕もあんまり好きになれないんだよな、と率先してシュウヘイの陰口を助長したかもしれない。
でも、今日だけは、そうすることに抵抗を覚えた。なぜなら、僕は、シュウヘイの本当の顔を知ったから。
空気の歪みが大きくなって、緊張を帯びてくる。
「確かに」
クラスメイトのひとりが、乾いた笑いとともに頷いた。
僕はいらだった。なんか違う、と唇をかんでいた。田中の言うことは、違う。的外れだ。
きっと、シュウヘイがああしているのには、何か理由がある。甘えなんて言葉では片付けられない、もっと、なんていうか、強い信念みたいなものがあるんじゃないか。それを知ろうともせずに、自分たちとは違うものと決めつけて否定するのは、間違いなんじゃないか。
僕は、間違っていたんじゃないか。
今まで空気を歪ませていたのは、先生の質問やクラスメイトの声かけに何も答えないシュウヘイの異質さではなくて、シュウヘイをそういう目で見ていた僕たちのほうだったのではないか。
いらだちは募っていく。田中にも、みんなにも、自分自身にも。
その間にも田中たちは、シュウヘイについて好き放題言い合っている。
このままでいいのか。
いや、よくない。
僕は小さく深呼吸をした。
「お前らさ」
僕の言葉に、みんなが話すのをやめ、こちらを向く。心臓の音が、体内に重く響く。
「やめようぜ、そういうの」
僕が無理やり笑ってみせると、田中は不満そうに顔をしかめた。何か言いたそうな目をしていたが、ふん、と鼻を鳴らしただけで昇降口のほうへ歩いて行ってしまった。他のクラスメイトたちも、居心地悪そうにその場を去っていく。
きっと、僕の気持ちは何も伝わっていない。僕自身、何か伝えたいものがあったのかどうかも分からない。
彼らに背を向けて、倉庫の扉を閉めていると、ボールをわきに抱えた晴人が現れた。
僕の表情から何かを察したのか、晴人は言葉をさがすように目を左右に動かした。
「あいつら、何も知らないくせにな。口だけは達者だぜ」
晴人はそう言って、倉庫のなかへボールを放り投げた。
「なんだよ、聞いてたのかよ」
「まあな」
晴人は涼しげに笑って見せた。
キンモクセイの匂いをのせた風が、僕たちの間を通り抜けていった。
*
「そういえば今朝、みかけたんだ」
昼休み、僕と晴人はジャージのまま、購買部で買って来たパンにかじりついていた。
教室は、制汗剤や弁当の匂いが混じって奇妙なことになっていた。
「なにを?」
晴人は、すでに二個目の袋を破いている。僕は立ち上がって、晴人の後方にある窓を開けた。
「サボテン」
椅子に座りなおしながら僕が答えると、晴人は一瞬考え、「ああ、花が咲いたあの子か」と大口を開けてパンにかぶりついた。
「恋してたか? サボテン」
僕が頷くと、晴人は「やっぱりな」と、口いっぱいに詰め込んだパンを嚙み砕きながら言った。窓から入ってくるそよ風が、晴人の短髪を微かに揺らす。
「いいなあ、恋。俺もしたい」
晴人は目を細め、遠くを見るようにして言った。
「恋ねえ」
僕は一つ目のパンを食べ終わって、袋を丸めた。
僕は普段、映画を見たり小説を読んだりしていると、なんでもかんでも主人公同士に恋をさせるなよ、と思ってしまう質だった。
だけど往年の大女優や伝説のミュージシャンなど、その世界を極めるようなひとたちは、「恋愛は素晴らしい」とこの世の真理見たいに主張するひとが多い気がする。学校でも、いるだけで周りのひとに好かれるような、魅力的なキャラクターをもっているやつらはみんな、恋はするべきだと信じて疑わないようにみえる。
僕は人間としての器が小さいのだろうか、と切なくなる。
「晴人はやっぱり、恋は素晴らしいと思うのか?」
僕が訊ねると、晴人は口いっぱいに詰め込んだパンを飲み下した。
「なんだよ、急に。そりゃあ素敵だろ。彼女ほしいぜ」
うん、晴人はそうだよなあ、と僕は何度か頷く。
僕の様子を見て、納得がいっていないと思ったのか、晴人は続ける。
「好きなひとがいると、前向きになれるだろ。毎日が明るくなるっていうかさ。今の俺ならなんだってできる、って気持ちになる。分かるだろ。だから、サボテンにも花が咲いた。それは素晴らしいことだろ?」
僕は眉根にしわを寄せ、腕を組む。
「でもさ、恋人がいることがステータス、みたいなことだってあるじゃんか。そういうのは、僕はどうかと思う」
そういうことがあるから、どちらか一方がめちゃめちゃに傷つく、みたいな失恋が後を絶たないんじゃないか。
「まあ、なくはないな。でも、そればっかりじゃないって。そもそも、恋は素晴らしくないからしないようにしよう、なんてこと出来ないだろ」
まあ、それはそうだけど。
でもやっぱり、自分の世界を明るくすることが恋なら、それは究極のエゴじゃないか、エゴは絶対に美しくない。と僕は頭のなかで屁理屈をこねてみる。
「恋なんて、いわばエゴとエゴのシーソーゲーム」
晴人は、僕の心の中を見透かしたかのような歌を口ずさんでいた。
「あ、でもさ」
晴人は突然歌うのをやめ、ごみを捨てようと席を立った僕に言う。僕は、椅子をシーソーのようにしてのけぞっている晴人を見下ろして、続きを待つ。
「恋する気持ちそのものっていうより、誰かのことを大切にできる自分がいるってことが、素晴らしいのかも。たしかに、それは恋に限ったことじゃないもんな」
*
「ちょっと待って」
次の日の朝、駅から学校へ向かう道すがら、晴人が唐突に空地へ分け入っていった。僕は言われたとおり歩道に立って、ぼんやりと空を見上げて待っていた。
僕のなかにあるすべての感情が吸い取られてしまいそうなくらいに、見事な秋晴れだった。
「ほら、捕まえたぞ」
無邪気な声をあげながら戻ってきた晴人が、僕の目の前に突き付けたのは、一匹の赤とんぼだった。
晴人に腹をつままれて、感情の読み取れない目で僕をみつめるそいつは、頭を一定のリズムで左右に傾ける。自分の身になにが起きたのだろう、と必死に考えを巡らせているようにも見えるけれど、どこか間抜けだ。
「おい、お前、晴人なんかに捕まるなよ」
僕は「なんか」の部分を強調して言い、学校のほうへ再び歩き始めた。
「いやいや、むしろ光栄だろ。俺に捕まえてもらえて」
晴人は訳の分からない反論を口にしながら赤とんぼを放してやって、僕のよこに追いついてきた。
校門を入っていくと、グラウンドの上にも無数の赤とんぼが飛び回っているのが見えた。
教室にカバンを置き、ペンケースとルーズリーフを机にしまったあとで、僕はトイレに立った。
用を済ませて廊下へ出ると、トイレの横にある階段を誰かが通っていく足音が聞こえた。踊り場と廊下を仕切る壁に隠れるようにして階段を覗き込むと、見覚えのある背中が、そこを駆け上がっていくのが見えた。
あ、シュウヘイ。
シュウヘイは、何かに突き動かされているかのように、必死で階段を上っていた。物静かで怠惰そうないつもの様子からは、想像もつかない姿だった。シュウヘイのなかに潜んでいた激しさが、発散されているようだった。
それを垣間見てしまったことに、なぜか罪悪感めいたものを感じる。
僕はしばらく、シュウヘイの通ったあとを眺めていた。そういえば、シュウヘイとブルーハーツの話をしたのも、この階段だったな。
「おーい、英太。リーディングの和訳うつさしてくれ」
教室の入り口から上半身だけを出した晴人が、こちらに向かってノートを振っている。僕は、おう、と返事をしてその場を離れた。
朝のホームルームが終わっても、シュウヘイは教室に姿を見せなかった。
一時間目の授業で使う英和辞典を出すために廊下にあるロッカーへ行くと、パーテーションで区切られた隣のクラスのロッカースペースから、話し声が聞こえてきた。
「なんかさ、不気味だったよねー」と女子の声。たぶん、話したことのないひとだ。
「あ、俺も見たよ。お前らも見たのか」
そこに、こちらも聞き覚えのない男子生徒の声が混ざってくる。
「何のはなし?」とまた別の女子が訊ねる。
「今朝、屋上でね…」
そこで、好奇心がにじんだ声たちは遠ざかっていってしまい、その先は聞き取ることができなかった。
屋上?
隣のクラスの誰かが発したその単語に、なぜか、階段を駆け上がっていったシュウヘイの背中が重なった。するとその映像に、「不気味」という言葉も引き寄せられてくる。
なんか、嫌な感じだ。
英和辞典を手にして教室に戻ろうとすると、ちょうど隣のロッカースペースから、去年同じクラスだったひかりが出てきたところだった。晴人も合わせて三人でよく一緒につるんでいた仲だ。
目が合って僕が立ち止まると、ひかりも小さく首を傾げた。
「ちょっと聞こえたんだけど、みんなが屋上がどうとか、何の話してんの?」
僕が訊くと、ひかりはああ、と頷いた。
「なんか、そっちのクラスの神沢? が今朝、屋上のへりに立ってたらしいよ。みんな見たって」
示し合わせたかのようにシュウヘイの名前が出てきて、僕は少し動揺する。
不思議なことに、ひかりの言葉で、みんなが見たであろう光景が鮮明に、僕の頭のなかにも浮かび上がってきた。
やっぱり、不吉な感じがする。その不吉さを、ひかりのストレートな言葉が具体化する。
「もしかしたら飛び降りるんじゃないかって、話のネタにされてる」
僕は眉をひそめ、首を傾げてみせる。ひかりが続ける。
「神沢と同じ中学だったっていうやつも、見てないくせにでしゃばって口出してさ、勝手に、あいつはこうだったとか言って、みんな探偵気取りになってる。しょうもないよ、本当に。神沢って、本当にそういうことするやつなの?」
ひかりは呆れたようにため息をつく。
「いや、違うと思う…」
僕は、曖昧な返事しかできなかった。
ひかりのクラスのやつらが、シュウヘイのことをどう言っていたかは知らないが、好ましい内容でないことは、ひかりの不愉快そうな表情からも想像がつく。
「ひかりは、見たのか? やばそうだったか、シュウヘイ」
僕の質問に、ひかりは首を横に振る。そうか、と僕は頷いた。
「シュウヘイ、実はまだ教室に来てなくてさ。まあ、遅刻はいつものことなんだけど。紛らわしいよ、まったく」
シュウヘイの物憂げな表情が脳裏に浮かんできて、危うさを感じる。
しかし、そもそもみんなの見間違いで、本当はそいつがシュウヘイじゃなかったという可能性だってある。屋上の一部は普段演劇部が練習に使っているから、鍵を開けられる生徒がいることは間違いない。だとしても、朝の時間に、関係のないシュウヘイがそこに立ち入ることができるのかどうかは怪しい。僕が階段で見かけたシュウヘイだって、屋上に言ったという保証はなくて、前の僕みたいに三階の小教室に忘れ物をして急いでいただけかもしれない。それで、そのままどっかで居眠りでもして遅れているに違いない、きっとそうだ…。
「なんか、心配だな。ちょっとだけ」
ひかりのつぶやきに、僕は顔を上げた。
心配。確かに、僕はいまシュウヘイのことを心配している。少し前の僕だったら、たぶん、違っただろう。
「うん、まあな。足止めしてすまん、ありがとう」
僕の言葉にひかりが頷いて、僕たちはそれぞれの教室へ戻った。
なんとなく落ち着かない気分で席に着くと、グッモーニン、と妙に声のとおる先生が扉を開けて入ってきた。
こんな日に限って、一時間目が終わっても、シュウヘイは教室にやってこなかった。
休み時間、僕はロッカーに戻す英和辞典を手にしたまま、晴人の机に腰かけていた。
シュウヘイのことを放すと、晴人は「ふーん」と焦る様子もなく、むしろ大して関心も無さそうに言うだけだった。
「俺も今朝、シュウヘイ見かけたぞ」
僕たちの会話が聞こえたらしく、クラスメイトが突然話に割り込んできた。
「どこで?」
僕が訊ねると、彼は「屋上だよ」と答えた。
「俺以外にも見たやつ、いるぞ」
そう言って彼があげた名前は、いずれも自転車や徒歩で通学しているか、朝練がある部活に所属しているかで、僕や晴人のような電車通学組よりもあとに教室へやってくるメンバーだった。
クラスのみんながシュウヘイを見間違う可能性は低い。やはり、屋上にいたのは本当にシュウヘイだったようだ。そうなると僕がみかけたのも、屋上へ向かうシュウヘイの姿だったということか。
シュウヘイは何のために、そこへ向かったのだろう。あいつの身体にみなぎっていた激しさは、何だったのだろう。その激しさは、シュウヘイを、とんでもない方向へ導いてはいないだろうか。
ひかりに話を聞いてから、僕の頭のなかで屋上のへりに佇んだまま止まっていたシュウヘイの姿が、ふわりと宙に浮かんだイメージに変わり、僕は身震いした。
「みんな飛び降りるんじゃないかって、騒いでたな」
彼の言葉に、晴人の目が鋭く光った。彼を睨んでいるのだ。
僕も彼の言葉の、あまりの軽さに腹が立ち、「やめろよ」と口に出していた。
「冗談に決まってんだろ、そんなの」と彼は笑う。
何が冗談だ。彼らがおもしろおかしく話題にしていることが、現実になったとしたら。本気でそう思ったら、へらへら笑っていられるわけがないだろう。こういうやつらの、想像力が欠けた軽薄さには、本当に腹が立つ。
「それにさ、シュウヘイって中学のときも同じようなこと、したことあるらしいじゃん」
きっと、ひかりが言っていた、「自称シュウヘイと同じ中学のやつ」が言いふらしているのだろう。それが嘘だろうと本当だろうと関係ない。なんの事情を知っているわけでもないだろう他人の過去を、大した考えもなく口にするそいつの神経に、怒りを通り越して、嫌悪感を覚える。
晴人の表情にあきらかに苛立ちが浮かんだ。晴人がここまで負の感情をあらわにするのは珍しい。やはり、晴人とシュウヘイの間には、周りのみんなが気づいていない絆があるようだ。
しかし、怒りを向けられている当の本人は、まったく気づいていない様子だった。
「知らねえよ。くだらねえ噂話すんな」
僕は静かに言って、まるで緊張感のないそいつを追い払った。
晴人は口を引き結んだまま、廊下のほうに目をやっていた。
晴人が無口モードに突入したことを察した僕は、晴人の肩を軽くたたいて、その場を離れた。
二時間目の途中、そっと開いた後ろ側の扉から、シュウヘイが入ってきた。シュウヘイは伏し目がちに歩いてきて、僕の斜め前の席についた。先生からの声かけにも、反応しない。
いつもどおりだった。
僕は、心底ほっとしていた。
昼休み、コンビニで買って来た弁当を机の上に広げた晴人は、ほんの少し無口モードを引きずっているようにも見えたけれど、ほとんどいつもの雰囲気に戻っていた。
僕はひとしきり迷った挙句、腹に抱えていた疑問を口にした。
「シュウヘイは、どうして今朝、屋上にいったんだろうな」
晴人はちらっと僕の目を見て、それから大口をあけて白飯を頬張った。晴人が大量の米を咀嚼している間、沈黙が流れる。
「今日だけじゃねえよ」
口いっぱいに詰まった米を、ペットボトルの水で流し込みながら、晴人は言った。
「え、そうなの?」
僕はおにぎりにかぶりつこうとしていたところだったけれど、晴人が発した言葉に動きを止めた。
晴人は、また白飯を口に詰め込んで、大きく頷く。
僕は驚くと同時に、シュウヘイのことを話したときの晴人の落ち着いた様子を思い出して、合点がいった。シュウヘイが屋上に行くことは毎朝の習慣で、晴人はそれをわかっていたから、根も葉もない噂話に踊らされて無駄な心配をする必要がなかったのだ。
「なんで晴人が知ってるんだよ」
「なんでって、あいつに直接聞いたからだよ」
直接聞いたって、いつの間に。僕の疑問を察したかのように、晴人は付け足す。
「あいつは、放課後も昼休みも屋上にいるよ。俺も放課後、時々行くから、そのときに仲良くなったんだ」
そうか。放課後に時々姿を消した晴人は、屋上にいっていたのか。そして、そこでシュウヘイと話すようになった。なるほど。
さっき晴人は、「シュウヘイと仲良くなった」とごく当たり前のことのように言った。でもそれは、全然当たり前のことじゃない。少なくとも、僕にとっては。僕のなかのシュウヘイは、先生の呼びかけにもクラスメイトの頼み事にも応えない、そういうイメージだからだ。
だけど、いまの晴人の様子をみていると、僕がそうだと決めつけていたことが、まったく別の側面をもっているように見えてきた。
シュウヘイに話しかけたのは、他のクラスメイトや先生であって、僕じゃない。シュウヘイは、僕の声に応えなかったわけじゃない。シュウヘイと関わることを勝手に諦めていたのは僕のほうだったのではないか。
あの日、僕が口ずさんでいた歌の名前を知りたいと言ったシュウヘイの顔が浮かんでくる。僕は、本当のシュウヘイに会ったことがある。
そうか。晴人は、きっとあのシュウヘイのことを、最初から知っていたのだ。そして、そのシュウヘイが本当のシュウヘイだということを、当たり前のように理解していたのだ。
なんだかそれは、人間として生きる上でとても重要な素質のように思えた。
シュウヘイの件に限ったことではなく、僕やクラスメイトたちが見ることのできない世界を、晴人はたくさん見ているんじゃないか。
僕も、その世界に触れてみたい。
せめてシュウヘイのことを、もっと、ちゃんと知っておきたい。
そうすれば、僕のなかで何かが変わるかもしれない。そんな予感があった。
「シュウヘイと、話してみたいな」
僕は、晴人に言っていた。頭のなかの考えがふいに落っこちてしまったような感覚だった。
晴人は弁当箱を持ち上げて、最後の一口をかきこむ。
弁当箱を机の上に置いた晴人は、胸の前で両手を合わせ、「ごちそうさまでした」と言ってから、僕の目をまっすぐに見据えた。
「じゃあ、行くか」
晴人は口の端を上げて、楽しそうに言った。
晴人に連れられてやってきたのは、三階からさらに階段を上った先、三方をくすんだ壁に囲まれているスペースだった。左右の壁には、屋上へ入るための扉があって、〈施錠中。関係者以外立ち入り禁止〉の張り紙がしてあった。
「鍵、壊れてんだよ」
晴人はそう言って、右手のほうのドアを平然と押し開ける。
なるほど、与えられた情報を鵜呑みにせず、実際に行動したものだけがこの先に進むことを許されたわけだ。
僕は頭のなかに浮かんできた壮大な言い草に自己満足しながら、晴人に続いて屋上に足を踏み入れた。
まず目に入ってきたのは、いつも見ているより遥かに広大な、秋晴れの空だった。解放感に包まれ、僕は深呼吸をした。
足元には汚れたコンクリートの地面が、のっぺりと広がっている。向こうのほうにぽつんと、黒い塊がみえる。
「いたいた」
大きな手のひらで顔にひさしをつくっていた晴人がつぶやき、その塊のほうに向かって歩いていく。僕は後ろをついていく。
僕たちの足音に気が付いたのか、黒い塊がむくり、と身体を起こした。
「よお」
声が届く距離まで近づいた晴人が手を挙げると、シュウヘイは「珍しいなあ」と眩しそうに僕たちを見上げた。後頭部の髪の毛には相変わらず、寝ぐせがついている。
晴人は慣れた動作でシュウヘイの正面に腰をおろし、あぐらをかく。僕はポジショニングに迷ってその場で足踏みをし、結局晴人のすぐ横に体育座りをした。
「今日は一段と遅かったな。教室に来るの」
晴人にそう言われたシュウヘイは、うーん、と伸びをしてから一気に肩の力を抜いた。
「今日は、あまりにも空がきれいだったから、離れたくなかったんだ」
そう言って、空を見上げる。
僕と晴人も、つられて空を見上げた。
なにも景色を遮るものがなく、視界ぜんぶが、青で埋め尽くされる。今朝と変わらず、見事な秋晴れだった。
僕は制服に吸い寄せられてくる陽射しの温度を感じながら、目を閉じた。そのうち、空が身体のなかに染み込んできて、宙に浮かんでいるような感覚になった。再び目を開けると、僕はあの青空と溶け合っている。
穏やかな風が僕の頬を撫で、徐々に、感覚がもといた場所に着地する。
「なるほど」
僕がそう言ってシュウヘイのほうを見ると、シュウヘイは顔を下に向け、目を細めた。
晴人は、ふーん、と眠たそうな声で言って、その場に寝転がった。
しばらくの間、誰も何も言わずに、ただ風が僕たちの髪を揺らした。
シュウヘイと話してみたいとは言ったものの、いざとなると何を話題にしたらいいのかわからない。かといって、何か話をしなくたって、ここにこうやっているだけでも十分な気もしていた。
そんなことを思いながら、心地のいい静けさに耳を澄ましていると、シュウヘイが先に口を開いた。
「あのさ、この前、ありがとう」
僕がシュウヘイのほうに目をやると、シュウヘイは少し照れ臭そうに笑った。
「この前?」
僕が聞き返すとシュウヘイは、
「うん、歌の名前、教えてくれたとき」
と自分の首を撫でた。
「ああ、うん。別に」
なぜか僕も照れ臭くなって、ふわっとした返事をしてしまう。
「あれから聴いた? 『月の爆撃機』」
「うん」
「どうだった?」
僕の質問に、シュウヘイは視線を下、真ん中、上、上、下と動かした。頭のなかに浮かんでいるたくさんの言葉たちを、空中に並べて選んでいるみたいだ。
「本当に、あの爆撃機がこの町の上に来てくれればなって、思った」
その答えに、僕は一瞬言葉を失い、シュウヘイの顔を見つめた。シュウヘイも僕の目をみて、少し困ったように笑った。
僕は驚いていた。僕も、シュウヘイと同じようなことを、考えていたからだ。
時々、目の前にあるものや自分がやっていることのすべてが、どうしようもなくつまらないものに思えることがある。誰かと自分を比べて不安になったり安心したりして、何のためにこんなことをしているんだと腹が立ってくる。しかし、つまらないこととわかっているのにそこから抜け出すこともできない。これから先も同じことを繰り返すに違いないと、うんざりする。僕が人間として、社会のなかで生きている限り、きっとずっとそうだ。
そんなの虚しすぎる。だから、あの爆撃機が来てほしい。
「そうだよな。全部、ぶっ壊してくれればいいのにな」
「うん」
「生きたくないよな、こんな世界で」
「うん」
僕とシュウヘイは、まるで本当にそこに月があるかのように、同じ空を見上げていた。
「今夜また、ここに来てみない?」
しばらくの沈黙のあと、シュウヘイが僕のほうを見て言った。その言葉の意味を飲み込んで、僕は聞き返した。
「今夜って、忍び込むってこと? ここに?」
シュウヘイは、「当たり前だ」というように頷く。
「なんで?」
僕の疑問に、シュウヘイは何かを企んでいる子どものような表情を見せた。
「今日は満月だから、祈るんだ。あの爆撃機が来るように」
ああ、なるほど。僕は頷いていた。
祈ったところで、もちろんあの爆撃機は来ないし、世界はきっと変わらない。でも、そうすることは意味のあることだ。シュウヘイの言葉には、そう思わせる力があった。
「なんかわかんねえけど、おもしろそう」
それまで黙って僕とシュウヘイのやりとりを聞いていた晴人が、突然起き上がった。
「うん。やろう」
晴人の顔をみるシュウヘイは、心底嬉しそうに目を輝かせていた。
放課後、僕と晴人は駅へ向かういつもの道とは違う道を、だらだらと歩いていた。
「じゃあ、七時集合で」
昼休みが終わり、三人で教室へ戻る途中、シュウヘイは僕たちにそう告げた。あと三時間弱、暇をつぶせる場所といえば、大通り沿いにあるファストフード店しか思い浮かばなかった。あそこなら、腹ごしらえができるうえに、長居しても追い出されない。
前方の青信号が点滅し始め、赤に変わった。僕と晴人は並んで立ち止まる。
「どうして今日だけみんな気が付いたんだろう」
僕は、ずっと謎だと思っていたことをつぶやいた。
「何が」と晴人が僕を横目で見る。
「シュウヘイが毎朝屋上にいて、今まで誰も気が付かなかったのに、なんで今日だけみんなに見られたんだろうってこと」
すると晴人は、ああ、と頷いた。
「俺が思うにあれは、とんぼのせいだな」
今度は僕が「とんぼ?」と聞き返す番だった。
「今朝、死ぬほど飛んでたろ、とんぼ。だからみんな、見上げたんだよ。その先に、とんぼだけじゃなくて、シュウヘイもいたってだけだ」
僕は納得すると同時に、思わず笑った。
朝からあんなに心配したり苛立ったり、心を乱されたのに、その原因がそんなにも長閑な景色に帰着していくのが、なんだかとてもおかしかったのだ。
*
夜の屋上は、昼間とはうって変わって、どこよりも深い暗闇に沈んでいた。冷たい風が少し強めに吹いていた。
約束の時間に十分ほど遅れて現れたシュウヘイは、慣れた様子で裏門を飛び越え、内側からかかっている閂を外した。
部室棟には、まだ灯りがついている部屋もあって、正門も空いているようだったが、シュウヘイ曰く、「生徒指導部の先生が立っているからこの時間に入っていくと怪しまれる」とのことだった。
「お前、前にも忍び込んだことあるだろ、絶対」
暗闇でささやいた晴人の言葉を、シュウヘイは笑って受け流した。「やるなあ」と、他人事みたいに言ったのは僕だ。
僕たちは、校舎の西側の壁を這うようにして屋上まで続いている非常階段を上り、ここまでやってきた。
昼間はあんなに見事に晴れていたのに、夕方から徐々に雲が増え始めた。シュウヘイが、今日の月の出は一七時五七分と言っていたけれど、まだはっきりとした月の姿は見られていなかった。
僕たちは、昼間と同じところに腰を下ろして、空を見上げた。雲はそれほど厚くはなく、月の明かりが微かに漏れていて、そこに月があるということがわかった。
月を背負った部分の雲が、金色とシルバーが混ざったような複雑な光を湛えていた。雲が風に流されて、ピンクっぽい色が差したり青みが差したり、光が次々と表情を変えた。
「もうちょっと風が吹けば、見えるかもしれない」
シュウヘイが、ぐるりと空を見まわして言った。
しばらくの間、僕たちはその場で雲がはれるのを待っていた。すると、シュウヘイの言ったとおり、雲がだんだんと薄く細切れになっていって、風で流れる雲の隙間から、月の輪郭が顔を出すようになった。
「いいぞ」
シュウヘイは、隣にいる僕でもぎりぎり聞き取れるくらいの声でつぶやいて、空をじっと見上げていた。
僕は、そのシュウヘイの目に思わず見入ってしまった。とても、キレイだったからだ。
それと同時に、僕がわけもなくシュウヘイを嫌っていたことを思い出した。心臓が、荒いやすりにこすられたような、感じの悪い痛みに囚われる。
本当は、僕はここにいる資格はないのだ。勝手にシュウヘイを嫌って、勝手に嫌いじゃなくなって。シュウヘイの友達みたいに、ここにいるのは、許されないことなのだ。
いつも、斜め後ろから見ていた、シュウヘイの顔を思い出す。あの、いつも何かを憂いて、すべてを諦めているかのような目。
ちゃんと、シュウヘイと話してみてわかった。本当のシュウヘイは、あんな目をしたことはない。あれは、シュウヘイの目に映った、僕の目だ。僕自身が、この世界を憂いて、すべてを諦めていたのだ。だから、あの目が嫌で仕方なかったのだ。
「ほら、晴れたよ」
シュウヘイの無邪気な声に、僕は我に返った。
「おー、きれいだな」
晴人が空を見上げて、感嘆の声をあげた。
僕も二人につられて、空を見上げた。
いつの間にか、僕らの頭上にあった雲は風に飛ばされ、散り散りになっていた。
その代わりに、ぽっかりと、満月が浮かんでいた。黄金の光をまとって、奥ゆかしくそこにたたずむ月をみて、僕は暗闇のなかにあいた穴を覗き込んでいるかのような感覚になった。
シュウヘイと晴人が、目を合わせて嬉しそうにしている。月明りに照らされた二人の横顔は、なによりも美しかった。
僕は唇をかんで、俯いた。
やっと、わかった気がした。
シュウヘイの沈黙は、世界への抵抗だったのだ。何もかも勝手に決めつけて、人を批評して、自分より劣っている人間がいないと生きていけない、そんな醜い人間がはびこっているこの世界への、抵抗。お前らの評価になんて屈しないという、強い意志だったのだ。
晴人はずっと早くからそれに気づいて、シュウヘイに共感していたのだろう。だから、シュウヘイは、晴人にだけは沈黙を破ったのだ。
二人はちゃんと、本当に大切なものがなんなのか、知っている。この世界で数少ない、美しいものをちゃんと、見ている。だから、醜いこの世界を、肯定して生きている。
あの爆撃機が本当に来ればいい。
シュウヘイがそう言ったのは、決して嘘ではない。この世界のほとんどのものは、汚いから。まっすぐに、きれいなものだけを見つめている人間にとっては、生きづらいから。
だけど、シュウヘイが本当に願っているのは、世界がなくなることなんかじゃなくて、この世界がずっと続いていくことだ。数少ない美しいものが、傷つかないように、醜さに塗りつぶされて失われてしまうことがないように、祈っているのだ。
地上からただ爆撃機を見上げているだけの僕とは違う。あのコックピットのなかに、シュウヘイはいるのだ。自らの手ですべてをぶっ壊して、自らの手ですべてを守りたいと、願っているのだ。
うらやましい、その強さが。
僕は、いつかシュウヘイや晴人が見ているものを、見ることができるようになるだろうか。美しいものだけを、心に刻んで生きていけるようになるだろうか。これから僕は、どう生きていくべきなのだろうか。
もう少し。少しだけでいいから、僕も強くなりたい。
俯いたままの僕の耳に、ふいに、飛行機のエンジン音が響いた。あきらかに旅客機の音とは違う、一定のリズムで、心臓に響くような低い音だ。
驚いて顔を上げた僕は、自分の目を疑った。
爆撃機が一機、頭上を横切ったのだ。
僕は言葉を失った。世界が息を止め、景色がスローモーションになった。
爆撃機は、僕たちの頭上を旋回した。
背筋に恐怖が張り付いていた。身体が強ばる一方で、心は熱い感動で満たされ、いまにも膝から崩れ落ちそうだった。
ずっと憧れていた存在が、目の前にいる。現実か、幻か、そんなことはどうでもよかった。
僕は、爆撃機の姿を見つめながら、そこにいるパイロットに語りかけていた。
―どうしてあなたは、そこまで強くいられるのですか。
当然、パイロットは何も答えてはくれない。
誰かに与えられた答えでは、意味がないからだ。いまの僕が持てるすべてをかけて、悩み考え、自分と向き合って、その答えをつかみとらなければいけない。そうでなければ、本物の強さを手にすることなんてできない。
僕は、もっともっと、必死にならなければならない。
しばらくすると、爆撃機は方向を変え、まっすぐ、月へと向かっていった。その姿はみるみるうちに遠くなり、月を背景にしたただの小さな黒い点となる。
やがて、その黒い点も月の明かりに飲み込まれて、見えなくなってしまった。
「あー。また雲出てきちゃったな」
晴人の声が、興奮した僕の心を落ち着かせた。
シュウヘイのほうを振り向くと、シュウヘイは空を見上げたまま、何かを愛おしむように、目を細めていた。
*
いつもの電車で学校に着いた僕は、机の上にカバンを置いて、屋上へ向かった。
鍵の壊れた扉を押し開ける。
毎朝、ここに来ることが習慣になって、二か月ぐらいが経った。初めて来たときに比べると、風がだいぶ冷たくなった。そろそろ、マフラーが必要かもしれない。
「おはよう、えいちゃん」
フェンスによりかかって景色を眺めていたシュウヘイが、僕の足音に気が付いて振り返る。その呼ばれ方にはまだ慣れなくて、少しむずがゆい。
「おはよう」
僕はシュウヘイの隣に並んで、第一グラウンドのほうを見下ろした。すると、ちょうど校舎のほうへ並んで歩いて行く、二人の生徒の姿が見えた。
「あ、サボテン」
僕は思わず、声に出していた。「サボテン?」とシュウヘイが首を傾げる。
「あのこの、あだ名みたいなもん。いつも、駅にいるんだ」
僕は、下を歩くサボテンを指差して、説明した。
「へえ。なんか、幸せそうだね、彼女」
シュウヘイの声が少し弾んだ。
「幸せだろうなあ」
ここからでも、サボテンが見たこともない素敵な表情で、笑っているのがわかる。
サボテンと一緒に歩いていたのは、サボテンが朝練を見守っていた、あの陸上部の先輩だった。
やっぱり、僕には意気消沈するいわれも筋合いもくそもないけれど、朝からいちゃつくなよと、少しだけがっかりする。
僕は遠くのほうに見える山々に目をやって、深呼吸をする。微かに、冬の匂いがした。
「シュウヘイはさ」
僕が語りかけると、シュウヘイは「ん?」と声だけで返事をする。
「恋って、素晴らしいと思うか?」
シュウヘイは、ふふん、と鼻をならして笑う。
「うん。人がただ人を思うってことは、尊いことだと思うよ」
「なるほど」
純粋に誰かを思うっていうことは、人が強くなれるひとつの方法なのかもしれない。もちろん、恋に限ったことではない、と声を大にして言っておくけれど。
*
屋上の仲間がひとり、増えた。
「おはよう、えいちゃん」
屋上へやってきた彼にそう声をかけると、彼はまだ少し照れ臭そうに、おはよう、と手を挙げる。
「もうそろそろ、雪降るかもな」
「雪が積もったら、さすがにここには来られないね」
「ええっ、どうするんだよ」
「どうしようねえ」
えいちゃんとそんな会話をしながら景色を眺めていると、扉のひらく音がして、晴人くんが入ってきた。
「うんこしてた」とあくびをしながら言う彼に、
「いちいち言わなくていいんだよ、そんなこと」と英ちゃんがつっこみを入れる。
いいコンビだなあ、とボクは笑ってグラウンドのほうに向きなおった。
グラウンドでは野球部がキャッチボールをしていて、ボクはいつも白球の行方を目で追ってしまう。
えいちゃんが毎朝屋上に来るようになって少ししたころ、ボクは彼に訊いたことがある。
「晴人くんが、どうして屋上に来るか知ってる?」
ボクが正解を知っていたわけではない。ただ、晴人くんがえいちゃんに何か話したことがあるのだろうかと気になっただけだった。
えいちゃんは「んー」と考えたあとで、答えた。
「あいつに何か聞いたことはないけど。野球部の練習見てるのかもな、とは思ってた」
えいちゃんは、言っていいことかどうか迷っているように、後頭部を触っていた。
ボクはその様子をみて、どうして晴人くんがえいちゃんと一緒にいると、安心しているように見えるのかが分かった気がした。
えいちゃんの優しさは、晴人くんにしか見えない。そんな二人の関係が、とても羨ましいと思った。
「おはよー」
晴人くんの声で、ボクは我に返った。ボクたちに向けたにしては少し大きめの声だった。
振り向くと、晴人くんの身体は、ボクたちのほうではなく、屋上をうろついていたカラスに向けられていた。
カラスは立ち止まって、不思議そうな目で晴人くんを見ている。
「おはよー」
晴人くんがもう一度言うと、カラスはつやつやした目で、晴人くんをじっと見つめた。そして、
「オアー」
と一声、聞いたことのない声で鳴いた。
ボクたちは一瞬固まって、カラスを見た。
カラスは何事もなかったかのように、むこうへ飛んで行ってしまった。
「おい、聞いただろ、いま」
晴人くんが、鼻の穴を膨らませてボクとえいちゃんのほうを振り返った。
「おはようって言ったよな、あいつ。言ったよ、絶対に!」
言っている間に、晴人くんの声が大きくなっていく。とても嬉しそうで、興奮しているみたいだ。
「うん、言ったかも」
ボクは、晴人くんの様子が面白くて、笑いを堪えられなかった。えいちゃんも、晴人くんの様子を眺めてにやにやしていた。
「みたか英太!」
「見た。っていうか、聞いた」
「だから言っただろ、信じることは大事だって」
晴人くんは見事な得意顔をしてみせる。えいちゃんはそれを笑いながらも、「すごいよ、お前」と真剣に受け止めているようだった。
信じてみることは大事。確かに、そのとおりだと思う。
顔を上げると、高い高い青空に、雲のような月が浮かんでいた。
ボクが信じたいことって、なんだろう。
世界はもう少し、よくなるということだろうか。
誰かの小さな優しさが、ひたむきな努力が、微かな悲しみが、孤独が、いつか報われることをボクは信じたい。いや、信じている。この世界に少なからずある、そういう美しいものが、なんとか、なくならないであり続けてほしい。
だからボクは、今日も祈る。
この世界に、無事に明日が来ますように。
(了)
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