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【小説】月の糸(第12話:完結)

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     ◆

 大学構内にあるコンビニエンスストアは、朝の時間帯で混雑していた。会計の列はなかなか進まない。一限目の講義が始まるまではあと十分ほどあるが、少し心配になってきた。
 智也が大学に復学して一か月が経過していた。ちょうど今日から十月が始まる。本来であれば三年次にあたる年度だが、智也は二年次の前期まで単位をとり終え一年間休学に入っていたため、二年次の後期から再スタートということになった。
「来月からまた大学に行くよ」
 八月の終わりごろ、智也が開講科目表一覧とにらめっこしながら電話をかけた相手は、入学当初からよく行動を共にしていた玉木だ。彼には「入院するからしばらく休学する」としか伝えていなかったが、無駄な詮索をしてくるわけでもなくずっと適度な距離感を保ってくれていた。
 電話に出た玉木は寝起きだったのか不愛想な声で、「おお」と言った。
「俺は二年のままだからもうあんまり授業も被らないかもだけど、たまに会ったら昼飯ぐらい一緒に食おうぜ」
 智也が伝えると、玉木は「あ? そうか」と面倒くさそうに欠伸をする。「俺、お前に言ってなかったっけ?」
「なんだよ」
「俺、留年したんだ。だから、今年も尾崎とおなじ二年だ」
「は? まじかよ」智也は吹きだした。
「同じ講義とろうぜ、お前がいれば安心だ」
「俺にレジュメとらせる気満々だろ」
「ばれたか」
「飯おごってくれるならやるよ」
「無慈悲なやつだな。俺は今回留年したら学費も仕送りもやらないからなって、親に釘さされてるんだぜ」
「知るかよ、そんなこと」
「まあ、何はともあれ、よかったな」
「ああ。ありがとな」
 玉木との電話を終えると、智也は一気に気が楽になった。同じ部屋で通話の一部始終を聞いていた風太郎にそのことを話すと、「そんな風に誰かを救う人もいるんだね」と笑っていた。
「お次お待ちのお客様どうぞー」
 レジカウンターの向こう側にいる店員の声が聞こえ、列がだらだらと一歩ずつ進む。智也の順番まではまだ少しかかりそうだ。
「すげえ混んでるな。バス、間に合うかな」
 前に並んでいたリクルートスーツの男子学生が、その前に並んでいる同じくリクルートスーツに身を包んだ学生に話しかける。言葉の割にはあまり焦りを感じさせない口調だ。前に並んでいた水色のネクタイの学生が振り返り、「まあ、大丈夫だろ。最悪もういっぽん後のバスでも間に合う」と腕時計を見ながら答える。
「この間就活終わったと思ったらもう入社式だもんなー。社会人まで待ったなしだな」
 後ろ側の短髪の学生がなおものんびりと言う。
「まあ、とりあえずお互いに進路が決まってよかったじゃねえか」と水色ネクタイが答える。
「いろいろあったなー、就活」短髪の学生がしみじみと言う。
「まあ、そうだな」
「革靴バラバラ事件とかな」
「なんだよそれ」
「最終面接の帰りに、俺の革靴のソールが見事に全部剝がれたんだよ。両足同時に、しかも雨の日にだ」
「なにそれ、そんなことあんの」水色ネクタイが愉快そうに笑う。「で、それからどうしたんだよ」
「仕方ないから近くの靴屋に行って新しい靴を買ったさ。直すにしてもとりあえず家まで履いていく靴がなかったからな」
「まあ、普通ならそうするか」
「それが、新品の靴をいざおろそうってときに大問題に気が付いたんだ」
「まさか、お前」
「そのまさかだ。すでに、日が暮れてたんだよ」
 短髪の発言に、水色ネクタイが呆れたように肩をすくめる。前にもどこかで見たようなやりとりだな、と智也は思う。
「それで、どうしたんだよ。頼むから裸足で帰ったとか言わないでくれよ」
 水色ネクタイはあからさまに嫌悪感を顔に浮かべる。もしもこれで短髪が裸足で帰っていたら、その瞬間に友情関係が破綻しそうな勢いだ。
「新しい靴を履いて帰ることにしたよ」
 短髪の返答に、智也はほっと胸をなでおろす。
「俺はな、賭けたんだ」と短髪が続ける。「突然革靴が使い物にならなくなったのも運命、ここで悪い縁起を背負って最終面接の結果に影響したらそれまでのこと。そう覚悟を決めたんだ。ちなみにその日の面接が、第一志望だった」
 必要以上に熱量を込めて話す短髪の様子を、水色ネクタイが「大袈裟なやつだな」と一笑に付す。「で、結果はどうだったんだよ」
「合格だ。俺は縁起を超越してやった」短髪は鼻息荒く言い切った。「これから行くのは、その第一志望の入社式だぜ」
 水色ネクタイは短髪の熱量をさらりとかわして、「俺は単にお前の頑張りの成果だと思うけどね」と笑う。
 どちらの考え方も嫌いではないな。
 智也はそう思いながら、心の中でふたりの就活成功に拍手を送った。

    ◆

 鷲田と遭遇したのは、またしても経過観察のために地元の大学病院を訪れていたときだった。検査と診察を終えて会計窓口へ行ったところ、帰りがけの鷲田とちょうどすれ違い、先に気が付いた智也のほうから声をかけた。
「おお。また会ったな」鷲田はいつもの軽い調子だ。
 ふたりともまだかなり短めの髪型ではあるものの、帽子類は身に着けなくなっていた。鷲田が腕時計に視線をやりながら、「ちょうど昼だし、一緒に飯でも行こうぜ」と智也を誘う。
「会計これからなんで、ちょっと待たせるかもしれないです」
 智也が受付番号の書かれた紙を見せながら言うと、「いいさ、待つよ」と側のベンチにどかっと腰をおろす。「今日はもう暇なんだ」
 足を組んで欠伸をする鷲田の隣に、智也も腰をかける。何気なく視界に入った鷲田の左手薬指には、銀色の指輪が光っていた。
「仕事、休みなんですか」
「一日有給とった」
「へえ。なんか有給ってワード、社会人ぽいですね」
「まあ、曲がりなりにも社会人だからな」
「むかつく上司とか、やっぱいるもんですか」
「いるいる、腐るほどいる」
「大変そうっすね」
「まあな。でも俺は割と大丈夫なんだよ。なんでだと思う?」
 智也は「さあ?」と首を傾げる。
「腹の中に、小さなラッパーがいてくれるからだよ」
 唐突に登場したラッパーに、智也は更に首を傾げた。確かに以前、鷲田はヒップホップが好きだと言っていたような気もする。
「なんですか、それ」
 智也が訊ねると、鷲田は意気揚々と語る。
「例えば、むかつく上司が理不尽なこと押し付けてくるとするだろ。会社に勤めてたらそんなこと日常茶飯事だし、いちいち歯向かってたらクビがいくつあっても足りないわけよ。だから俺は、何一つ納得なんてできなくても、素直にすんませんって頭を下げるんだよ。そんなときに、だ。小さなラッパーが登場して、代わりにやつらをディスりまくって煽り倒してくれるわけ。そしたら俺は、顔を真っ赤にしてる上司たちを想像して気持ちを落ち着けられるんだよ」
「面従腹背ってやつですか」
「わかりやすく言うとそういうことだな。尾崎も働くようになったらわかるよ。社会に出たら真っ先に身に着けるべきなのは、小さなラッパーを召喚するスキルだ」
「なんですか、それ」
 得心のいかない智也をよそに、鷲田はひとり満足そうにしている。かと思えば、急にどこか遠くを見つめるような眼差しになり、
「でもなんかよ、こうやって毎日普通に過ごしてると、どうしても薄れてきちまうよな」
 と感慨深げにつぶやく。
「入院してたころは、常に死が背中に張り付いてた感じがしてたのに」
 鷲田の言葉に、今度は智也もしみじみと首を縦に振った。確かに、目に見えない何者かにぴたりと銃口を充てられているような緊張感が、あの日々にはあった。その中で華菜子や鷲田に出会い、三人は必然的に身を寄せ合って安らぎを求め合っていたのかもしれない。
 そう遠くない過去の出来事であるはずなのに、あの頃がひどく懐かしく感じる。
「薄れていっても、なくなりさえしなければいいんじゃないですかね」
 智也が言うと、鷲田は「ああ。そうだな」と優しく目を細めた。
 鷲田とふたりきりでいるときはいつも、華菜子の不在ばかりを意識し、どうしようもない切なさに身を浸してきた。でも今は、あの頃のことを思い出して鷲田と同じ気持ちになれるということが、とても暖かいことに思えた。
 そのおかげか、ようやく智也は、素直な気持ちで鷲田に話を聞いてほしいと思うことができた。
「鷲田さん俺、退院してから最近までずっと、なんとなく前向きになれない日が続いてて」
 鷲田は眉をあげ、横目で智也の様子をうかがう。
「検査も治療も、何もしなければなくなってたはずの命なのに、俺は偶然生かされてしまった。そういう、悲劇の主人公気取りみたいな感情がどこかにあって」
 智也は下唇を噛んで言い淀んだ。改めて口にするとなんて情けない感情なのだろう。
「華菜子ちゃんがいなくなっちまったのも、でかかったんだろ」
 鷲田が出してくれた助け船を、正直に認めて頷く。
「前に病院で会ったときに鷲田さんに指摘されたとおりで、そういう自分がいるっていうことが、いちばん苦しかったんです。俺は、ずっと死にたかった」
 鷲田は黙ったまま腕を組んで、智也の話に耳を傾けている。
「でも今は、そういう必要以上に複雑でいびつな思いは全部、実は反対で、死ぬことの恐怖を誤魔化すためのものだったんだろうなって思うんです」
 鷲田は智也の言葉を噛み砕くようにゆっくりと瞬きをしたあとで、
「死ぬことが怖くないっていうやつのことを、俺は絶対に信用しない。生きるとか死ぬとかって、そんな風に頭ん中だけで考えることじゃねえだろ、って思うから」
 と前を向いたままで言った。それから「でも」と前置きをして続ける。
「尾崎が前に言ってた、死ぬことが救いになるっていうやつ。あれも少しは理解できるようになったよ。人は永遠には生きられない。だから、苦しいことも永遠には続かない。いつか終わりが来ることをわかっている俺たちは、どう終わらせるかを考えることができるってことだ。それが、救いってやつなのかもしれないな」
 鷲田の確信に満ちた声音に、智也はハッとした。死ぬことも生きることも、ひとつの命がもっている一面に過ぎない。それを改めて思い知らされる。
「どう終わらせるかって、結局は、終わるまでをどう生きるかって、自分自身に問い続けることなんですね」
 生きていかなければいけない不安も、死に向かっていく恐怖も、智也にとってはどちらもこの上なく苦しい。この世界に生まれ落ちたからには、この苦しみは避けて通れないものなのだろう。それでもあの子のように、最後の最後に幸せだったと、一片の迷いもなく言えるように。すべての苦しみと真剣に向き合って受け入れ、そこまでたどり着いたときに初めて、きっと死は本当の意味での救いになるのだろう。
「やっぱ俺、生きなきゃいけないっすね」
 自然と、しかし鮮烈に湧き上がってきた覚悟を、智也はしっかりと胸の真ん中に焼き付けた。
「当たり前だろ、そんなの」
 鷲田がやれやれ、というように鼻からため息をついた。

 智也が会計を終えてもといた場所へ戻ると、鷲田の姿がなくなっていた。近くの自動販売機コーナーやATMのほうを覗いてみても見つからない。
 仕方なくフロントを抜けて外へ出ると、自動ドアを出てすぐのところで、スマートフォンを耳にあて話しこんでいる鷲田を発見した。声をかけるわけにもいかず少し離れた場所で待っていると、こちらに気が付いた鷲田が「すまん」というポーズをして見せたので、智也も「いいっすよ」という意味をこめて手を振った。
「わりい、急に嫁から電話来ちゃってさ」
 電話を終えた鷲田は、スマートフォンをズボンのポケットにしまいながら、再び肩をすくめた。
「なにかあったんですか」
 智也が訊ねると、鷲田は「詳しいことはよくわかんねーんだけど」と首をひねる。「話したいことがあるから早く帰ってこいってだけ言うんだよ。なんなんだって聞いても、全然教えてくれなくてよ」
 鷲田はいつになく深刻そうな表情をしている。
「なんか、怒られるようなことしたんですか」
「いや、それが心当たりはないんだよな。不機嫌そうな感じでもなかったし」
「じゃあ、いつの間にか愛想つかされちゃったパターンですかね」
「おい、変なこと言うなよ」
 鷲田がこれでもかと困ったような顔をするので、「冗談ですよ」と智也は笑った。
「とりあえず、今日はまっすぐ帰ったほうがいいんじゃないですか」
 智也の提案に、鷲田は「そうするか」と素直に頷く。「俺から誘っといてなんだけど、飯はまた今度でいいか」
「もちろんです。俺からもまた連絡しますから」
 智也が何の気なしに言うと、「お前言ったな。聞いたからな。絶対だからな」と子どもみたいに念を押しながら、鷲田は駐車場のほうへ去って行った。智也は鷲田の背中に手を振って、バス乗り場へと向かった。
 それから数時間後、最寄り駅からアパートまでの帰り道を歩いていた智也のもとに、鷲田から電話があった。道の端に立ち止まり、スマートフォンを取り出す。
「結局また俺からかけちまったよ」
 通話ボタンを操作した瞬間、鷲田の声が飛んでくる。
「どうしたんですか。やっぱり奥さんに怒られたんですか」
 鷲田のテンションから察するに病院で話していたことは杞憂だったのだろうが、あえて訊ねてみる。案の定、「俺たちが喧嘩なんかするわけねーだろ」と一笑に付される。相当機嫌がいいようだ。
「じゃあ、なんなんですか」
「ふふん、よくぞ聞いてくれたな、尾崎」
 鷲田はもったいぶる。智也は黙って続きを待った。
「鷲田信太二十六歳、この度なんと」
 電話の向こうで胸いっぱいに空気を吸い込む気配がする。
「パパになります!」
 想像の遥か上を行く良い報告に、智也は思わず「おおっ」と感嘆の声を上げていた。
「まだまだ安心はできないけどな、嫁が尾崎には話していいって言うから」
 鷲田の心底嬉しそうな声を聴いているうちに智也の胸にも熱いものがこみあげてきて、言葉に詰まってしまう。
「……俺も、嬉しいです。よかった」
 智也はやっとのことでそれだけを伝えた。
「無事に生まれたら、会いにきてくれよ」
「はい、絶対に行かせてください」
「華菜子ちゃんにも報告しなきゃな」
「きっと、すごく喜びますよ」
「うん。そうだろうな」
 電話が切れると、智也はホッと息を吐き出して、再び歩みを進めた。
 心なしか目に映る世界が、いちだん明るさを増したような気がする。
 遠くに見えるマンションや民家の屋根の向こう側で、一日の終わりが、晴れ渡った空の裾を白く染めていた。
 目に映る景色の安らぎに身をゆだねたままで、智也は思う。
 当たり前にやってくる明日なんて、きっと、生きることに慣れてしまった人間が見る幻想にすぎない。それでも智也の胸に宿ったこの気持ちを希望と呼ぶのなら、これこそが、運命を愛し、不確実な未来を今へと進める原動力になるはずだ。そんな小さな光を握りしめ、一歩ずつこの瞬間の奇跡を生き抜いていく。
 そうすればいつか必ず、過去も未来も死も生も飛び越えた場所で、また君と会えるはずだ。
 その時まではただひたむきに、終わりに向かって真っすぐに。それでいい。
 智也は、深呼吸をするついでに空を仰いだ。
 濃紺の宇宙に浮かんだ一粒の星と、目が合ったような気がした。


(了)

最後まで読んでくださり、ありがとうございました🌻

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