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【小説】月の糸(第8話)


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         ◆

 それから数週間後、寝室で布団に入る準備をしていた智也のもとに、一件のメッセージが届いた。ブルーアスターのチャットで、華菜子のアカウントからだった。
 華菜子とは、実家で通話をしたあの日以来、電話はもちろんチャットでの会話もできていなかった。彼女の病状が芳しくないことは、火を見るよりも明らかだった。そのせいか、手元に届いたその通知を見ても、喜びではなく嫌な予感だけが急速に募っていった。
 何度かためらい、ようやくメッセージを開いた。
〈町田華菜子の父です。ご報告が遅くなってしまったことをご容赦ください。〉
 冒頭の一文を目にし、予感は確信に変わった。その瞬間、頭の先からつまさきまで全身が総毛立った。重くなった鼓動の音が脳内にこだまし、息が詰まる。震える指で画面をスクロールしていく。
 メッセージは十数行にわたって綴られていた。
 五日前の明け方、華菜子が亡くなったこと、通夜と告別式はすでに親族のみで執り行われたこと、最期は家族に見守られ眠るように息をひきとったこと、華菜子のスマートフォンの履歴を確認し、関わりのあったであろう人々にメッセージを送っていること。
 空回りする脳みそで、なんとかそこまでを理解した。
〈尾崎さんと鷲田さんのことは、娘から度々伺っていました。娘とともに闘っていただき、本当にありがとうございました。〉
 華菜子の父からのメッセージは、そんな言葉で締めくくられていた。
 智也はどうすることもできずに、ただぼうっとスマートフォンの画面を眺めていた。途中、鷲田から電話があった。応答を試みるも、スマートフォンを床に落としてしまった。電話はそのまま不在着信となる。その後も何度か着信があったものの、応答する気になれず、拾い上げたスマートフォンの電源を切った。
 ベッドの上に横になり、収まらない鼓動の激しさに身をゆだねたまま、眠ったのか眠らないのかもわからないうちに、気が付けばカーテンの隙間から朝日が差し込んでいた。ゆっくりと立ち上がり、カーテンを開ける。あまりの眩しさに目の奥が痛んだ。
 いつか、と智也は呟いた。
 五日間も、華菜子がいなくなったこの世界を何も知らずに生きていた。華菜子がいなくなっても当たり前に太陽は登り、一秒はいつでも等しく一秒だった。それを思うと、強烈な無力感に襲われる。
 窓ガラス越しに見上げた空は、心を吸い上げられそうになるほど高く透き通った青だった。

    ◆

 ここ最近、得体の知れない何かに追い立てられ、不安に駆られる日々が続いている。桜の木はもうずいぶん前に葉桜に変わり、今朝の天気予報では梅雨前線が日本列島の南側を横切っていた。
 二か月に一度に減った通院が、明日に迫っている。智也は正直面倒くさいと感じていた。もう、病院になんて行きたくない。どうせ大丈夫なのだから放っておいてほしい。俺を病気に縛り付けないでくれ。そんな風に思って苛立っているのに、血液検査を受け「異常なし」と告げられるたびに、どういうわけか不安は余計に募った。一体何に対して不満を抱いていて、どうしたらそれが解消されるのか。智也自身にもわからなかった。
「兄ちゃん、どうしたんだよ」
 風太郎に肩をつかまれたのは、薄い雲が空を覆っていたある日の夕方だった。雲が夕日の光を受け、橙色とグレーが斑になって空全体を塗りつぶしていた。空と地面をつなぐ空気も、その珍妙な光の色に包まれ支配されていた。智也はその不気味な景色を、アパートの窓際に立って眺めていた。カーテンを閉め、電気をつけようとしただけだったはずが、現実味のないその景色を見た途端に身体が動かなくなった。
 ちょうど大学から帰ってきた風太郎に肩を揺さぶられ、金縛りがとけるように、ゆっくりと弟のほうを振り返った。リビングが暗いせいで風太郎の顔は真っ暗に塗りつぶされていた。手が細かく震えているのに気が付き、咄嗟に握りこぶしをつくった。
「どうしたんだよ、電気もつけないで」風太郎が肩を掴んでいた手を離す。
「別に、どうもしない。今つけようと思ってたところだ」
 智也は風太郎の視線から逃れるように背を向け、カーテンを引き電気のスイッチを押した。見慣れた風太郎の顔がそこに浮かび上がる。
「なんだよ、何かあるなら言ってくれよ」
 風太郎はリュックをおろすのも忘れて、智也に問いかけてくる。智也のほうは風太郎から顔を背けるようにしてソファーに腰をおろし、テレビをつけた。
「体調悪いのか?」智也の態度に怯まず、風太郎は智也の背中に問いけてくる。
「なんでもないって言ってるだろ」
 智也が不快感をあらわにして言い返すと、重量のある物体が勢いよく床にぶつかる音がした。風太郎が乱暴にリュックを下ろしたのだ。
「なんでもないわけないだろ」
 風太郎の剣幕が部屋の空気を震わせた。それでも智也はテレビのほうを向いたまま、ただ黙って呼吸をしていた。テレビの内容はなにひとつ頭に入っていなかった。風太郎がこちらに歩み寄ってくる気配がする。視界の端にやってきた風太郎は、テーブルの上のリモコンを手に取ってテレビを消した。そこでようやく、智也は弟のほうを向いた。
「兄ちゃん、変だよ。俺には分かる」風太郎がまっすぐ智也の目を見て言う。智也は舌打ちしたくなるのを堪えて、顔を逸らす。風太郎は仁王立ちで続ける。
「俺も父ちゃんも母ちゃんも姉ちゃんも、ジロウもみんな、兄ちゃんが無事に戻ってきてくれて嬉しいのに、肝心な兄ちゃんだけはそうじゃないように見える。むしろ俺たちが喜ぶのを、鬱陶しいと思ってるだろ」
 智也は視線を落としたままでため息をついた。
今は何も話したくない。そう信号を送っているにも関わらず、風太郎はまったく受信しようとしてくれない。信号の意味は分かっているのにわざと拒否している。智也のほうも、話をしよう、という相手の信号を拒否し続けているのだから、お互い様といえばお互い様だ。
「否定しないの?」風太郎の声が苦しそうに歪む。
 智也は自分の足元をじっと見つめ、このまま沈黙を貫くか腹を割って話しをするか、考えた。考えた結果、そのどちらでもない行動を選択した。
「お前に、俺の気持ちが分かるかよ」
 風太郎を拒絶するための言葉をぶつけた。最低の選択であることはわかっていた。
 風太郎は奥歯を噛みしめて一瞬黙り込み、「兄ちゃんだって、わかってないだろ」とすぐに反論してくる。声が微かに揺らいでいた。「兄ちゃんが入院してる間、俺たちがどんな思いでいたか。兄ちゃんがいなくなっちゃったらどうしようって、不安で不安でしかたなかったんだよ。でも、俺たちには、治療が上手く行きますようにって祈るしかない。頼むから兄ちゃんを連れて行かないでくれって願うしかない。それがどれだけ悔しいことかわかる? 兄ちゃんが無事に帰って来たときどれほど安心したかわかる?」
 風太郎の切実な叫びは智也の心にも届いた。それでもなお、智也は何も言わなかった。
「どうして兄ちゃん自身が約束してくれないんだよ、ここからいなくならないって」
「……いなくなるなんてひとことも言っていない」
「言ってなくてもわかるんだよ。ここ最近、ずっとそうだ。何もかも諦めたみたいに、目の前にあるものを何も見てない。兄ちゃんはこの世界に、いたくないんだろ?」
 否定したいのに、反論するための言葉が何も浮かんでこなかった。
「誰だって、そうだろ」智也は吐き捨てるように言う。「いつかはこの世界からいなくなる」
 風太郎が怪訝そうな顔を智也に向けてくる。智也は続ける。
「何一つ、一秒後に自分がこの世界にいるってことを保証されている命はないだろ。それが現実だ。わかってるふりして、みんな本当はわかってないんだ、自分自身の命だって例外じゃない。自分の死を棚にあげてるから、他人の死を頭ごなしに否定できるし、他人が死ぬことを受け入れられないんだよ。死ぬことは悪いことか? 誰にだってやってくるものなのに、ただ何もなかった状態に戻っていくだけなのに」話しているうちに勢い込み、少し頭に血が上っていた。
「そんなに難しく考えることなの? 兄ちゃんは、じいちゃんが死んだとき、苦しくなかったの?」風太郎は智也を諌める。「誰かが死ぬって、それだけでただ悲しいことなんじゃないの? 死ぬほうがどうなるのかなんてわかんないけど、残されたほうは、どう頑張ったって兄ちゃんをいなかったことになんてできないだろ。兄ちゃんの影をずっと思ってるんだよ。いやでも思っちゃうんだよ。それだって現実でしょ? 誰かが生きたって、そういうことだろ?」
 風太郎の言葉を聞いていると、みるみるうちに脳みそが醒めていくのがわかった。智也は俯いて力なく首を振る。もう、これ以上話していても仕方がない。目の前の弟と自分では根本的に立っている場所が違いすぎる。
「俺だって、お前や母ちゃんたちを悲しませたいわけじゃない。ただ……」
 その先を口にしようと何度か息を吸うが、何も出てこない。ただ、なんなのだ。
 結局何も言葉を継げずに、智也は部屋を出た。壁のように立ちはだかっていた風太郎は抵抗せずに道を開けた。表情は見えずとも、弟が悲しんでいることはひしひしと伝わってきた。
 そのままアパートを出た智也は近所のコンビニへ向かった。玄関で咄嗟に掴んできたキャップを目深にかぶる。がんの治療でほとんどが抜け落ちた髪は、少し長めの坊主頭といえるくらまでは伸びていたが、まだ帽子類は手放せない。コンビニでタバコと百円ライターを買い、外の灰皿へ移動する。やけになって一気に肺まで煙を吸い込むと、すぐに喉と目の奥が熱くなり、身体に力が入らなくなった。それからめまいが襲ってきて頭ががんがんと痛む。智也はその場にしゃがみ込み、膝を抱えた腕に顔を埋めるようにして咳き込んだ。
 くそ、と喉の奥で自分自身を罵り、きつく目を閉じる。
 しばらくそうしてうずくまっていると瞼の裏の暗闇に、一筋の白い糸が浮かんできた。それは、入院することになったころからずっと智也の頭のなかにあるイメージだった。
 ―尾崎さんは、血液のがんです。
 あの日スクエア眼鏡の医師が発したセリフがこだまし、その瞬間、白い糸はあっさりと切れる。当たり前に続いていくはずだった未来が、切り落とされて闇に溶けていく。残されたもう一方の糸は、それ自身ではこの状況をどうすることもできない。ただ力なく揺れるだけだ。すると突然、いくつもの手が伸びてきて落ちた糸を拾い、残ったほうの糸と結び直そうとする。その手は、医師の手であり看護師の手であり、母親や父親の手であり、彩音や風太郎やジロウの手である。それらの手によって糸は再びつながる。途絶えるしかなかったはずの時間が先へと続いていく。しかし一度途切れた糸はもう、元の一本のなめらかな糸とは違う。途切れた地点には結び目がある。その結び目の感触に、違和感に、結び目が出来た瞬間から絶えず躓いているような気がする。糸が繋がったことを純粋に喜ぶことができないのは、途切れたことも結び直したことも、自分自身の意志や力が及ぶ余地のない次元で起きたことだからだ。どうしようもなかったからだ。繋がらなかった糸があったのに、自分の糸だけが繋がってしまったからだ。
 どうして?
 どうして俺が生きていて、あの子が死ぬんだろう。
 糸のイメージが消え、そんな思いが頭のなかを駆け巡っていた。
 智也は頭痛がおさまると立ち上がり、タバコを灰皿に投げ入れた。夜の町をあてもなく歩く。すれ違う車のヘッドライトが目障りだった。今日は智也が夕飯を準備する日だったと思い出す。そんなこと、どうでもいい。別に腹も減っていない。あいつだってきっとそうだろう。夕方に広がっていた雲はもう晴れているのに、月が見えない夜だった。


第9話へ続く

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