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【小説】月の糸(第2話)


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 翌朝、智也が目を覚まして洗面台に立つと、鏡に映った額に特大のニキビができているのに気が付いた。指先で触れると、痛みと痒みを熱で包んだような感覚がある。
 顔を洗って髭を剃り、洗面所を出ると、ちょうど身支度を終えた風太郎が廊下を横切っていくところだった。
「あ、おはよ」
 そう言って智也のほうを向いた風太郎は、めざとくニキビを指さしてくる。
「珍しいね」
「ああ。なんかできちまった」と智也はまた無意識に額に手をやる。
「やっぱ、昨日のすきっ腹にラーメンがよくなかったか」
 風太郎は可笑しなくらい真面目な顔をしてそんなことを言う。
「健康診断に行って不健康になってたらどうしようもないな」と智也は笑った。
「健康診断のせいじゃなくて、ラーメンのせいだって」
「いや、ラーメンは悪くないだろ。うまかったし」
「じゃあたぶん、大学生の生活習慣のせいだね」
「うん、それだ。絶対」と智也は額から手を離す。
 風太郎は相好を崩しながら背負っていたリュックを肩にかけ直し、「いってきまーす」と玄関に向かう。智也は「おう」と返事をし、玄関の扉が閉まるまで彼の背中を見届けた。

 それからまた一週間が過ぎたころ、智也は講義室の後方であくびを嚙み殺していた。隣の席では、同じ経済学部でよく行動を共にしている玉木が、大胆に机に突っ伏している。
 黒縁メガネをかけた非常勤講師は、終始パソコンに目を落としたまま、抑揚のない声を延々と垂れ流している。昼休み直後の学生たちが退屈に耐えかねて放出した気怠さが催眠ガスになり、この講義室を満たしているような感じがする。
 意識を窓の外に移すと、盛んに鳴いている蝉の声が聞こえてくる。夏が終わるころにはこの声の主のほとんどが命を終えているということを、智也は毎年忘れている。
 智也は鼻からため息を吐き、頬杖をついた。中指の先端が肌に触れ、そこにデコボコした感覚がある。ここ一週間で新たに発生したニキビだ。割と大きめのものが二つ、右ほお骨の下に並んでいる。よくないと分かっていながら、ついついその部分をしつこく指の腹で撫でてしまう。それまであまりニキビができない体質だったため、少し気にかかってはいたが、風太郎の言う通り、不規則な生活リズムのせいだろうと、それ以上深くは考えなかった。
 退屈な講義もあと数分というところで、突然ズボンのポケットに入れていたスマートフォンが震え出した。バイブの音が響いたのか、玉木がむくりと身体を起こしたが、またすぐに元の体勢に戻る。
 スマートフォンの画面には、見覚えのない番号が表示されていた。携帯電話ではなく、固定電話からだ。
 智也は逡巡した後で席を立ち、講義室を出た。
 電話口の相手は大人の女性で、西部病院の検査部門の者だと名乗った。西部病院は、風太郎と一緒に健康診断を受けに行った総合病院だ。
「尾崎智也さんでお間違いないでしょうか」
 智也が戸惑いつつ「はい」と答えると、相手の女性は機械的な声色で用件を告げてきた。
「先日受けていた血液検査の結果に、一部異常がありました」
 智也は咄嗟に「ああ、はい」と相槌を打ったあとで、女性の言葉の意味を理解した。
 その瞬間、腹の底で不穏な波が勃発し、それが一気に頭のてっぺんからつま先まで広がっていくような感覚に包まれた。
 女性は平坦な音声で続ける。
「検査結果の詳細を本日速達でお送りしますので、それを持って、なるべく早く血液内科を受診してください」
 智也は再び反射的に「あ、はい」と口にした後で、「血液内科?」と聞き馴染みのない単語を繰り返した。
「はい。当院にも血液内科はありますので、外来にお越しいただけば、」
「僕、なんか、病気なんですかね」
 智也は思わず女性の声を遮り、そんな言葉を漏らしていた。自身の声を聞いて、「俺、不安なんだ」と冷静に考えている自分もいた。
 智也の質問に、相手は「うーん」と言葉を選ぶための間をとり「再検査をしてみたらなんともなかったという場合も多いですから。安心するためにも、もう一度いらしてください」と、今度は温度のある声で言った。突発的な緊張と焦りに縛られた智也の心は、その暖かさに幾分か救われていた。
 電話を切ると同時に、講義の終了を告げるチャイムが鳴った。
 智也はまだかすかに粟立っている肌を落ち着かせようと、スマートフォンを握っていた腕を反対の手のひらでさすった。

    ◆

〈今日は一日、不安定な空模様となるでしょう。お出かけの際は、折り畳み傘があると安心です。〉
 智也は、起き抜けに見た天気予報のセリフを思い出していた。アパートの最寄り駅にやってきて、なんとなく空を見上げたところだった。
 薄暗い雲が太陽の上を横切っていき、駅舎が丸ごと日陰に飲み込まれる。と思った数分後にはまた太陽が顔を出して智也の背中を暖める。確かに、曇りなのか晴れなのか判然としない天気だ。湿った風が吹いていた。傘は持っていない。
「台風来てるらしいよー」
「ふーん。夏休み中に来られてもな。休校になんないじゃん」
 二人組の女子高生が、呑気な会話をしながら通り過ぎて行った。
 駅舎に入り、改札の前で立ち止まる。次の電車が到着するまであと数分。そこに、智也の母親が乗っているはずだった。今朝早く実家を出発し、新幹線を乗り継いでこちらに向かっている。
 来てほしいと頼んだのは、智也だった。

「もう少し、詳しい検査をしたほうがいいと思います」
 再検査を受けるために訪れた病院で医師にそう告げられたのが、ちょうど二週間前のことだ。
 健康診断の結果、異常があったのは血液検査の項目のうち、白血球の数値だった。再度受けた血液検査の結果でも改善は見られず、原因を突き止めるためにさらなる検査が必要だと、医師は言った。三十代と思しき、ふちが細いスクエア型の眼鏡をかけた男性医師だった。
「次は、いつ来院できます?」
 壁にかかったカレンダーを見つめながら医師が問いかけてきたので、智也はつられて真っ白なカレンダーを、ただ、見た。
「えーと、」と口に出してから何も考えることができていないことに気づき、慌ててスマートフォンを取り出した。手帳のアプリを開く。翌々日から期末考査の期間だった。忘れるはずはないのに、「ああ、そうだったな」と思った。八科目の筆記試験と三つのレポート提出期限が、一週間にわたって予定されていた。
「大学の考査があって一週間は忙しいんですけど」
 智也が正直に言うと、医師は「うーん…」と考え込んでから「じゃあ、考査が全て終わったら、その翌日に来てください。朝イチで予約入れますから」とキーボードを叩いた。朝イチという言葉に、智也は少しだけ憂鬱になった。
 考査期間中は、試験勉強やレポートの作成に忙しく、それ以外のことを考える余裕はあまりなかった。しかしそのおかげで、自分の身体に起こっていることについて、必要以上に不安になったり悲観的になったりせずに済んでいたともいえる。
 その時点では、風太郎には何も伝えていなかった。検査をして何も異常がないという結果になる可能性もある。わざわざ話すことでもないだろうという思いがあった。実際に何もなければ、何もなかったことと一緒なのだ。
 無事、と言ってよいのかわからない手応えを得て期末考査を終え、翌日、智也は予約時間どおりに病院を訪れた。受付が終わるとすぐに、診察室とは別の、検査を行うための部屋に通された。
「すぐに先生が来ますから、少し待っててくださいね」
 看護師にうながされ、智也は荷物を下ろして寝台に腰かけた。
 その日の検査の内容は事前に医師から説明を受けていた。腰の骨に注射針を刺して、骨の中にある骨髄を採取するということだった。白血球や赤血球、血小板といった血液中を流れている細胞は骨髄で造られるため、骨髄の様子を調べることで白血球の数値に異常が出ている原因や、血液検査だけではわからない異常が見つかるかもしれないのだそうだ。
「痛いやつですか?」
 智也が医師に訊ねると、「全然痛くないですよ。とは言い難いですね」と生真面目な顔で返された。
 その言葉どおり、局所麻酔を打つときと骨髄を吸引するときにそれなりの痛みがあったものの、検査自体は智也が思っていたよりもあっけなく終了した。
「結果が出たらご説明しますから、二週間後にまた来てください。ついでに経過観察のための血液検査もしましょう」
 帰りがけに医師にそう言われ、智也は軽い気持ちで頷いた。心配よりも、夏季休講に入った解放感のほうが勝っていた。
 しかしその三日後、また病院から電話がかかってきた。
 アパートで風太郎とテレビを眺めていた智也は、スマートフォンに表示された電話番号を見て息が詰まった。事が望まない方向に転がっていく予感が、全身を駆け巡っていた。
 自分の寝室に入って通話ボタンを操作すると、聞こえてきたのはスクエア眼鏡の医師の声だった。
「この前受けていただいた骨髄検査の結果について、取り急ぎお伝えしたいことがあります」
 その言葉を聞いた瞬間、予感は確信へと変わった。
「お父さんかお母さんも一緒に来院してほしいのですが、今週中に来られそうでしょうか」
「わかりました」と智也は電話を切った。
 母親に連絡をして事情を説明すると、「すぐに仕事の調整をしてそっちへ行くから」と返答があった。母親が来るということを風太郎に伝えないわけにはいかず、訳を説明するために、これまでの経緯をすべて話すことになった。
「まあ、うん、わかった。いや、わかんないけど、わかったよ。とりあえず、その骨髄検査ってやつの結果を聞くしかないんだね」
 風太郎は自分自身に言い聞かせるように言っていた。

「あんた、シャツにしわ寄りすぎよ」
 改札の前で待っていた智也に、母親が最初に放った一言はそれだった。
「俺が干したからだ。風太郎じゃなくて」
 智也がそう言って着ていたTシャツの腹のあたりを撫でると、母は「やっぱり」と笑った。それから「久しぶりだね」と暖かい声と眼差しをくれる。
 智也はそれを真っすぐに受け取って、「うん」と頷いた。
 駅前のロータリーからバスに乗り込み、智也のアパートへ着いたときには時刻は正午を回っていた。医師から病院へ来るようにと指定された時間までは、あと一時間ほどだった。
 冷蔵庫に残っていたうどんとキャベツの欠片とソーセージを使って、母が焼うどんをこしらえた。リビングのソファーに並び、手を合わせる。
「二人だけでご飯食べるなんて、久しぶりね」
「そうかもね」
「あんたたち、ちゃんと食べてるの?」
「食べてるよ」
「野菜も?」
「まあまあ」
「風太郎はアルバイト?」
「あいつのバイト先、今日定休日じゃないかな。大学に行ってるはず。あっちはまだテスト期間だと思う」
「テストねえ。まあ、あの子ことだから、心配はいらないね」
「まあね」
「バイトも、大変じゃないのかね」
「一緒に働いてるひとたちとは仲良くやってるみたいだよ。特に店長のことは慕ってるっぽい」
「へえ、よかったわ。今度、ご挨拶に行ったほうがいいかしら」
「いや、そういうのはいいんじゃないかな」
 ごちそうさま、と智也は空になった焼うどんの皿を持って立ち上がった。流しに皿を置いて戻ると、母はまだ半分も食べ進んでいない。先ほどから、あまり箸が進んでいないように見えて気になっていた。
「なんか、あんまりお腹減ってないわ」
 結局母は、焼うどんを三分の一ほど残した。皿を片付けるために台所へ向かう母の後ろ姿が、やけに小さく見えた。
 病院の待合室はいつも通り混雑していたが、智也の名前はすぐに呼ばれた。ずっと前から待っていたであろう患者たちの訝しがる視線を一身に受けて、智也と母は診察室へ入った。
「今日は急にお呼び立てして申し訳ありませんでした」
 智也と母が椅子に腰かけると、スクエア眼鏡の医師は慇懃に頭を下げた。智也と母もつられてお辞儀をする。静かな緊張感が漂っていた。
 スクエア眼鏡の医師はこれまでの経過を母に話したあとで、「これが、先日受けていただいた骨髄検査の結果です」と、一枚の紙を智也に差し出した。そこには、テレビの砂嵐のような模様が映ったグラフがいくつか表示されていた。よくみると、模様が密集している部分とそうでない部分が分かる。医師は模様の密集している一部分に赤ペンで丸をつけて言った。
「ここに映っているのは、異常な細胞です」
 医師は続けて、異常な細胞が全体の何パーセント以上であるとどんな病気の可能性があるとか、それはどのような病気であるとか、智也の場合はそれが何パーセントであったとか、我々も血液検査の経過からは想定していなかった結果であったとか、色々と説明をしたが、智也はよく理解していなかった。
 ただひとつ、はっきりと頭に刻まれたのは、
「尾崎さんは、血液のがんです」
 という言葉だった。
 そのとき智也の脳裏に浮かんだのは、病院のベッドに横になっている祖父とそれを囲んでいる家族の姿だった。智也はベッドの外側から世界を眺めていたはずだったのに、次の瞬間、世界が逆転し、こちらを覗き込む両親や姉や風太郎の顔を、智也自身がベッドの中から見上げるような視点になっていた。祖父も見ていたであろうこの景色を、智也は今まで想像してみたことがなかった。想像可能であるということ自体が、思いもよらないことだった。この景色の先に待っているのは、終わりなのだろうか。終わりとは、何を意味するのだろうか。脳裏に浮かんできた世界には何も映らなくなり、やがて深い深い黒になる。何もかもすべての可能性を吞み込んでいく暗闇が、ゆっくりと智也の心に宿りかけていた。
「智也さん」
 医師に呼び掛けられ、智也はいつの間にか下向きになっていた視線を上げた。医師と目が合う。
「病名がわかったということは、治療ができるということです。ここからがスタートですから」
 医師の言葉に、智也は「はい」と頷いた。頷きながら、頷いている自分をどこか別の場所から無感情に眺めているような、おかしな気分になった。その無感情さが、目の前に突き付けられた現実を丸ごと全部引き受け、心に兆した暗闇を消していく。
「今後の予定としては……」
 医師が母親のほうを見てそう説明を始めたが、すぐに中断し、「大丈夫ですか?」と眉をひそめた。智也がつられて母のほうに顔を向けると、母は、ハンカチで目元を抑えていた。
「えっ」と智也は思わず声に出していた。健診結果を聞いてからここまでの一連の出来事のなかで、母の涙が最も智也を動揺させた。電話越しの声や今朝の様子からは、母親がそれほどまでに思い詰めているとは考えもしなかった。
 智也は母の肩にそっと手を置いた。かけるべき言葉は、何も浮かばなかった。
 入院中はなにかと家族のサポートが必要になるからと、医師の勧めにより、なるべく実家の近くの病院で治療をすることにした。三日後に、地元にある唯一の大学病院を受診することになった。
「しっかり治療を受ければ治る病気ですから、頑張ってください」
 診察室をあとにする際、スクエア眼鏡の医師が、生真面目さを強い光に変えた瞳で言ってくれた。
「ありがとうございます。お世話になりました」智也は母とともに頭を下げた。
 感情を失くしたもうひとりの智也は、そのときも斜め上から診察室を見下ろしていた。
 病院を出るときには、母親はすっかりいつものさばさばとした様子に戻っていた。
「とりあえず今日は田舎に帰る準備だね。明日の新幹線、二人分とっておくから。大学の事務室は、土日は休みだろ? 今日のうちに休学の手続きとか、連絡しておいたほうがいいんじゃないかい? 体調は大丈夫? 今は大丈夫でも、ダメになったらすぐに言うんだよ」
 これからの予定をしゃきしゃきと組み立てて、智也に関係のある部分だけを伝えてくる。先を歩く母の背中は大きかった。
 ふたりがアパートに着いた数十分後に、風太郎が大学から帰ってきた。奥の部屋の扉を開け、母の姿を見つけると「久しぶり」と手をあげる。
 そのあとでソファーにいる智也の顔をちらりと見やった。風太郎のほうからは何も言ってこない。荷物を下ろし、智也たちに背を向けクローゼットを覗き込んでいる。
 母親が智也に目配せをする。わかってる、ちゃんと俺から話すよ、と心の中で言って、智也はソファーの上で姿勢を整える。
「風太郎、ちょっと」
 智也が背中に声をかけると、風太郎はバスタオルを肩にかけたままで振り向く。その頬は明らかに引きつっていた。
「期末考査、いつまでだっけ?」
「一応、今日で終わりだけど」
「そうか、よかった。前にも話したけど、今日、母ちゃんと病院に行ってきてさ」
 智也はその先を言いあぐね、右の眉を指でこすった。一瞬の沈黙のなかで、風太郎が息をのむのがわかった。
 智也は顔を上げ、医師に告げられた病名をそのまま風太郎に伝えた。続けて、しばらく地元に帰って治療を受けること、その間は大学を休学すること、いつごろこっちに戻ってこられるかわからないことなどを説明する。
 風太郎は、唇を噛んで智也の言葉を聞いていた。大きな瞳が、ぐらぐらと揺れている。
「……いつ、田舎に帰るの?」
 風太郎は掠れた声で智也に訊ねる。
「明日かな」と答えると、「じゃあ、今日、母ちゃんは泊まっていくんだね」と頷いた。それから、「シャワー浴びてくるわ」と無理やりに口角を引き上げて、リビングを出て行った。
 その夜、智也は電気を消して真っ暗になった部屋のなかで、天井を見つめていた。
「兄ちゃん、まだ起きてる?」
 ふいに、床のほうから風太郎の声があがってきた。智也のベッドのわきに敷いた来客用の布団に寝ているのだ。いつも風太郎が寝ているリビングのソファーベッドには、母親がいる。
「うん?」と返事をすると、風太郎が布団の中で身体の向きを変える気配がした。
「兄ちゃんはいま、どういう気持ち?」
 どうやら、風太郎はこちらに背中を向けて話しているらしい。
「どうって……」と智也はつぶやく。
「怖いとか、不安だとかさ。そういうのはちゃんと、話してよ。聴いたところでどうしようもないかもしれないけど、聴くぐらいはできるからさ。別に、俺にじゃなくてもいいし」
 風太郎は淡々とした口調で言った。
 しかしその言葉ひとつひとつが、智也の目の前に暖かい光を灯してくれるように聞こえた。風太郎なりに、兄のことについて真剣に考えてくれたのだという事実が、智也を和ませた。こういう時に、自分の思いを素直に伝えられる強さを、風太郎は持っている。
 そんな弟の思いに応えるように、智也も心の内を話した。
「まあ、一瞬想像はしたよ。死んだらどうなるのかなって」
 風太郎は何も言わなかった。代わりにまた身じろぎをする音がする。智也は続けた。
「でもさ、大丈夫なんだよ、俺。たぶん死なないから」
「どっから出てくるんだよ、その自信は」風太郎が呆れたように言う。
「勘だよ、そんなの」
「……勘かよ」
「俺のことを、『目に見えないものについては鋭い』って言ったのはお前だろ。根拠はそれだ。俺の勘は当たる」
 智也がなおも言い張ると、風太郎がふっと息をつく気配がした。
「なんか、ちょっとだけ安心したかも」
 そう言った彼の顔がほころんでいるのが、暗がりの中でもわかった。

 翌朝、風太郎をアパートに残し、智也と母親は新幹線に乗り込んだ。時速三○○キロで北へ北へと進んでいく。ビルが乱立した雑多な景色は、すぐに畑と田んぼばかりの風景へと変わった。山の緑も空の青も入道雲の白さも、目が痛くなるほど眩しかった。
 実家では父親と愛犬のジロウが待っていた。
 柴犬のジロウは、智也の姿を認めるとちぎれんばかりにしっぽを振って飛びついてきた。何も知らずに、いつもと変わらずに迎え入れてくれるジロウの存在が、この上もない救いのように感じた。
 地元の大学病院は、実家から北東へ車で約一時間半のところにある。受診日の当日は、父親が運転する車に、智也と母親が同乗した。
 智也の主治医として紹介されたのは、細長い顔にあごひげを生やした中年の医師だった。目尻が緩やかに下がった目は左右に離れていて、口と鼻の距離も長い。ヤギみたいな顔だな、と智也が思っていると、「はじめまして。柳沼といいます」と自己紹介をされた。
「覚えやすい名前ですね」と言いそうになってすんでのところで飲み込んだ。
 柳沼先生から、あらためて病気についての説明があった。
 智也の病気は、骨髄という血液を創る組織でがん化した細胞が無秩序に増えてしまい、その結果、血小板や赤血球、白血球といった正常な血液細胞がつくられなくなってしまう病気だという。血小板が減ると出血しやすくなる、赤血球が減ると貧血になる、白血球が減ると感染症にかかりやすくなるなどの症状が現れる。
 智也の場合、病気が比較的ゆっくり進行していたことと、運よく早期に異常が発見されたことが相まって、それらの症状は自覚していなかった。
 その日は尿検査や大量の採血、心電図にレントゲンなど、入院前の様々な検査をすませたあとで、いったん帰宅することとなった。入院生活は明後日からスタートだ。
 家に着くとジロウと姉の彩音が待っていた。彩音は実家から車で数十分のところにある町で美容師をしていて、普段は勤務先の近くに住んでいる。今日は定休日だったため帰ってきていたらしい。
「おかえり。意外と元気そうじゃん」
 彩音は智也の顔を見るとそう言った。
 どれだけ久しぶりに再会しても、すぐに昨日まで一緒に暮らしていたような空気感が戻ってくる。盆と正月に会う以外はほとんど連絡も取らないが、こういうときに姉弟なんだなと実感する。その感覚が、ジロウに飛びつかれたときと同じような安らぎを与えてくれた。
「姉ちゃん、明日もいる?」
「明日は午後から出勤」
「じゃあちょっと。出勤前に頼みたいことがあるんだけど」
 要件を伝え、「いい?」と智也が訊ねる。すると彩音はわざとらしく眉を上げて見せ、「まかせな」と答えた。
 次の日、朝食をすませたあとで彩音と智也は洗面所へ向かった。
 七〇リットルのごみ袋に穴をあけ、それを頭からかぶった智也は子供部屋から持ち出した椅子を洗面台の前に置いて腰かけた。「新聞敷きなさいよ」と母の声が飛んでくる。
 智也の背後に立った彩音は、バリカンを手にしていた。鏡越しに目が合うと、「行くよ」とスイッチを入れる。「やってくれ」と智也は頷く。
 智也が姉に依頼したのは、散髪だった。
 これから入院して治療が始まれば、体内に大量の抗がん剤が投与されることになる。その副作用で、必ずといっていいほど脱毛は起こる。医師にそう説明されていた。病名を告げられたときから、なんとなく想像はしていたことだった。
 智也の軽くくせのある髪は、耳の半分くらいまで伸ばしっぱなしになっていた。前髪は指で引っ張ると鼻先に届くくらいだ。
「そろそろ切りたいと思ってたところだし。どうせ無くなるんなら、めちゃめちゃ短くしておきたいなと思って」
 智也のリクエストを受けて、彩音は手際よく作業を進めていく。
 ネクタイを締めながら通りがかった父親が「丸刈りだったら俺にもできるのに」と横やりを入れてくるが、「いいの。丸刈りよりカッコよくしてやるんだから」と彩音に一蹴されていた。
 彩音は、智也の頭の側面と後頭部をバリカンで刈り上げたあとで、てっぺんの部分に少し長めに髪が残るようハサミを入れた。カットが終わると、そこにあったワックスを手に取ってスタイリングまで始める。
「はい、完成!」
 彩音の声を聞きつけた母がやってきて、「あら、いいねえ」と歓声を上げる。彩音は腕を組んで満足げだ。
「やっぱりね。智也は絶対短髪が似合うって、ずっと思ってたんだから。わたし」
「なんだよ姉ちゃん、もっと早く教えてくれよ。二十年間もあの髪型で生きてたっていうのに」新しい髪型を鏡で確認しながら智也はぼやいた。
「なんか俺、風太郎に似てない?」と思わず口にすると、「そりゃあ、兄弟だからね」と母に笑われた。
 その日の夜、智也は両親を起こさないよう、そっと庭に出た。ジロウはリビングにある寝床で腹を出して眠っている。玄関の置時計は十二時を指していた。
 昼間に比べれば幾分気温は下がっているものの、じめじめとした温度が肌にまとわりついてくる。それでも風が吹くと心地よく、空気には草の匂いと虫の声が立ち込めていた。
 智也はハーフパンツのポケットからタバコを取り出してくわえた。最後の一本だ。家族のなかで智也がタバコを吸っていることを知っているのは、風太郎だけだった。百円ライターを手で覆って火を点け、息を吸い込む。タバコの先端がじりりと燃える音がして、煙の重さが喉を通っていく。
 夜が明けて朝が来れば、治療が始まる。あまり実感がないせいか、不安や恐怖はさほど感じていなかった。ただ、誰にも邪魔をされないひたすらに穏やかなこの時間が、ずっと続いてくれればよかったのに。そう思わざるを得なかった。
 吐き出した煙を目で追っていくと、北斗七星がくっきりと見えた。


第3話へ続く

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