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【小説】僕と絵描きとゴールデンレトリバー


第二回あたらよ文学賞応募しましたが、ダメだったやつです。
他の方の講評を読んで、お題に対する発想力や設定の時点で全然及ばなかったんだなと思いました。
少し恥ずかしいけど、やっぱり自分が嫌いな物語ではないので。ここに置いておきます。

懲りずにまた書きます!

(約5,000字)

「もしも孤独に色があるなら、俺は、青だと思うんだよ」
 パレットの上で絵の具を捏ねながら、ゴウさんが言った。
「孤独……」と僕はその単語を口にする。
 僕たちが腰を掛けるベンチの足元では、ゴールデンレトリバーのルリが寝そべっていた。ゴウさんの相棒だ。
 ミンミンゼミの鳴く声が、背後を囲む林の奥から聞こえている。ゴウさんが向き合うキャンバスの向こうには、雲ひとつない晴天と藍色の海原が、わずかに弧を描く水平線を引いていた。
 自分の声が思ったよりもか細く響いた気がして、僕はそれを誤魔化すように、前足に顎をのせて目を瞑っているルリの頭を撫でた。
 そんな僕の様子を、ゴウさんが横目で見る。ビー玉みたいな眼球がぎょろりと動いて、一瞬だけ琥珀色に光った。鷲鼻が目立つ横顔だった。
「何だ、思い当たる節でもあるのか。この前は全くそんな風には見えなかったけどな」
「いや、まあ」
 僕はゴウさんの視線から逃れるように首を縮め、海の方を見た。
 ゴウさんと初めて会った日、僕は今年大学に入学して知り合った仲間たち数人で、海水浴をしに来ていた。大学生活は人生の夏休みなんていうけれど、まさにその夏休み中の夏休み、僕たちは世界中の誰よりも自由になった気がして、いつも以上に大袈裟に、無邪気に振る舞った。
 その海水浴場のすぐ側には灯台の立つ岬があって、早々に砂浜で遊ぶのに飽きた僕たちは、濡れた髪にビーチサンダルのままで遊歩道を登り、灯台を目指した。夕方と呼ぶにはまだ早い時間帯だったが、遊歩道の周りには背の高い草や木が生い茂り、容赦ない陽射しにさらされていた砂浜よりは幾分か涼しく感じられた。僕たち以外に灯台を目指す人はおらず、ペタペタと地面を鳴らすサンダルの足音と、仲間の息遣いだけが際立って聞こえた。
「まだ着かねえのかよー」
 一番後ろを歩いていたアイツが声を上げたそのとき、先頭を歩いていた僕は、ちょうど開けた場所にでた。丸太を半分にしただけのベンチがいくつか並んだ、ちょっとした休憩スペースのようなところだった。
 そこでゴウさんは、今日と同じように、イーゼルに立てたキャンバスと睨み合っていた。
 もちろんその瞬間にはその人がゴウという名前であることも知らなかったが、紙のタバコをふかしながら絵筆を動かすその初老の男の、静かながらも鬼気迫る様子に、僕はしばらく見入ってしまっていた。
「あ、ワンコがいるよ」
「ほんとだ、かわいいねー」
 すぐあとに追いついてきた女子学生二人の声で我に帰り、僕はそこで初めて、ゴウさんの足元にルリがいることに気がついた。
 ゴウさんは、騒々しい気配をまとって現れた僕たちに気がつき一瞥をくれたものの、すぐに興味を失って、また彼とキャンバスとの間にある世界に戻っていった様子だった。ルリにいたっては、右の耳を微かに動かしただけだった。
 その後、特に変わったこともなく順路通りに灯台まで辿り着いた僕たちは、そこから見える景色に少しはしゃいで、儀礼的にスマートフォンで写真を撮り、来たときとは別の道を下って帰った。
 あの時灯台を目指した仲間たちのうち、どれくらいの者がゴウさんとルリのことを覚えているだろうか。きっと大半のメンバーの脳内では、取るに足らない出来事のひとつとして、とっくに思い出の枠外に切り捨てられてしまっていることだろう。
 しかし僕は、あの日にみたゴウさんの姿を忘れなかった。忘れなかっただけではなく、もう一度会いに行ったほうがいいのではないかと思っていた。理由はよくわからなかった。心なのか頭なのか、確かに自分の内側なのだけれど、とても遠いところからやってくるような、直感としか言いようのない衝動だった。
「おう。今日はひとりで来たのか」
 再びひとりでゴウさんとルリのもとを訪れたとき、つまりそれが今日なのだが、ゴウさんは僕の顔を見るなりそう言った。
「覚えててくれたんですか」
 僕が驚いて訊ねると、ゴウさんは興味がなさそうに散らかったパレットに新しい色を絞り出した。イーゼルの脚のところに、Gohと彫られていたので、僕はそれをゴウさんの名前だろうと思った。ルリは、首輪にRuriと書かれていた。
「隣、座ってもいいですか」
 重ねて訊ねると、今度は「好きにしろ」と答えてくれた。ルリが顔を上げて鼻をひくひくさせたので、怪しい者ではないです、と手の甲を嗅がせ、適度な距離をあけてゴウさんの隣に腰掛けた。
「何を描いているんですか?」
 僕の愚問にゴウさんはまた沈黙した。そしてしばらく経った後で、言った。
「もしも孤独に色があるなら、俺は、青だと思うんだよ」
「孤独……」
「何だ、思い当たる節でもあるのか。この前は全くそんな風には見えなかったけどな」
「いや、まあ」
 僕は、自分の中に巣食う大きな矛盾を指摘されたような気持ちになって勝手にバツが悪くなり、伸ばした足に視線を落とした。
「あいつらと一緒にいるのは楽しいし、むしろこんなに気の合う仲間と出会えたのはラッキーだなって思うくらいですよ」
 僕が勝手に言い訳をすると、ゴウさんは絵筆を置き、胸ポケットからタバコを出すと火をつけて、肺を大きく膨らませた。
「じゃあ、どうしてまたこんなところに来たんだ。しかも独りで」
 ゴウさんは不機嫌そうに煙を吐き出すと、唇の端でタバコを咥えて言った。
「意地が悪いことを言わないでください」
 僕が抗議すると、はっは、とそっぽを向いて笑う。ゴウさんの笑い声に反応し、ルリの耳が少し動く。
 ゴウさんにはお見通しだったみたいだ。いつも、みんなと一緒にいればいるほど、楽しい時間を過ごせば過ごすほど、僕はどうしようもなく、虚しくなることがある。この世界に自分の居場所なんてないんじゃないかと、投げやりな気分になることがある。みんなのことが好きだというのは、嘘じゃない。嘘じゃないからこそ、そういう問題じゃないんだ、とも思う。本当に、自分でも訳がわからないし、面倒だと思う。なんなのだろう。僕のこの、醒めた感じは。
「人の心にはな、」と、ゴウさんは目の前の景色に視線をやったままで言う。「海の底に沈んだ洞窟みてえに、どうしたって、誰の言葉も光も届かない、そういう場所があんだよ」
 ゴウさんは左の太腿の上に載せた右の足首を、ブラブラと動かした。ふらりと気まぐれに吹いた風にルリが顔を上げたので、手を伸ばして軽く頬を撫でる。
 ルリの温度に触れながら、「そこが孤独ですか」と僕は問う。
 ゴウさんは、水平線を見やって目を細める。
「お前の中にもそういう場所があるんじゃないのか?」
 僕は少しの間考えてから、「わからないです」と首を振った。本心だった。ルリが僕の手から逃れて頭を伏せる。
 ゴウさんはまたひとつ、大きく煙を吐き出した。
「孤独だからって、必ずしも悲しかったり寂しかったりするわけでもない。このめちゃくちゃな世界でたったひとりになれるっていう現実が、人を安心させることもある。だからお前は、今日独りでここに来たんだ」
 ゴウさんの断定的な口調に、僕は思わず自分の胸の辺りを見つめた。僕の中にも洞窟があるのだろうか。僕は、その洞窟を欲していたのだろうか。
「あってもいいんですかね、洞窟」
 独り言のように声をこぼした僕を、ゴウさんはまた横目でみる。
「いいもんだとかダメなもんだとか、そういう話じゃねえだろ」
 そう言いながら、サンダルのつま先でタバコの火を揉み消すと、吸い殻を摘み上げて、ベンチの下に置いてあった空き缶に入れる。
 ルリがおもむろに身体を起こし、ゴウさんの方を向いておすわりの姿勢になる。しっぽがひらひらと揺れている。ゴウさんがルリの頭をぽんぽんと撫でると、ルリは幸せそうに目を細めた。
 ルリの頭に手を置いたままで、ゴウさんは言う。
「心の洞窟は、安息の地になることもあれば、お前の死場所になることもある」
 死場所という単語を聞いて僕は、無性に怖くなった。そんな誰の手も及ばないような奥底の、根源的な部分から自分の存在が壊れていってしまったら。想像すると不安で背筋がざわざわと粟立った。
「壊れたくない」と僕は思わず口にした。情けない声だった。
 僕の様子をみたゴウさんは、少し驚いたように眉を上げた。それから、「大丈夫だよ」と僕の背中をさするように言う。「お前が自由である限り、そんなことにはならない」
「自由?」と僕は顔を上げた。
「人間を縛り付けるのはいつだって、人間にしか通用しない価値だ」
 僕は空中をみつめて、ゴウさんの発した言葉の意味を考えた。
「それってたとえば、金とかですか」
「世間体とか、普通って言葉とか」
「権力、学歴」
「あとは、要領の良さとかな」
「いいねの数もですかね」
 僕がそう言うとゴウさんは、ふはは、と笑った。
「とにかく、今よりもっと広い目で世界を見ろ。ここにある、海と空を見ろ」
 ゴウさんの優しくも力強く背中を押すような口調に、僕は改めて、目の前に広がる景色を見つめた。
「今俺らの目に映っている青は、地球の色だ。だだっ広い宇宙に偶然産み落とされた、たったひとつの寂しい星の色だ。たとえ、誰のどんな言葉も届かない場所があったとしても、この青は、ちゃんとそこに届く。だから俺は、偽物にすぎないとしても、絶対に本物を生み出すことはできないとしても、今この目に見えてる瞬間を、ここに写し取りたくて必死こいてるんだよ」
 穏やかながらも情熱のこもったゴウさんの声は、そっくりそのまま、最初に目にしたゴウさんの、絵に向き合う姿と重なった。
 僕はそこで初めて、ゴウさんの絵を、キャンバスに広がるもうひとつの海を、真正面から見た。
 ゴウさんが何を描こうとしているのか、僕はやっと分かった気がした。それは、誰かの死場所になるかもしれない洞窟に射す、一筋の光だった。
「ゴウさん、あの」僕は少しためらいながら、でもどうしても伝えたくなって声に出した。「その絵が完成したら、僕に譲ってくれませんか」
 僕の突然のお願いに、ゴウさんは一瞬黙り込み、その後でくすぐったそうに微笑んだ。そして、「俺の絵が欲しいのか」と、寂し気な瞳を隠すように瞼を細めた。
「はい」と僕は迷わず頷く。
「それならまた来年も、ここに来い。その時まで、お前がお前のままだったら、俺の絵ぐらいいくらでもくれてやる」
僕が、僕のままで。
 どうしたらそういられるのかは分からなかったけれど、たぶんそれは、来年のゴウさんの目で判断してもらうしかないのだろう。それまで僕は僕を生きるしかない。
「約束ですよ」と僕は念を押す。
「ああ。約束だ」
 ゴウさんはそう言って、愉快気に肩を揺らした。
 ゴウさんとルリと別れたあと、僕は岬を降りて海に行った。海水浴場とは反対側の、人気のない入り江だった。海水浴客もあそこまでは来ないからと、ゴウさんが教えてくれた穴場だった。
 元々泳ぐつもりなんてこれっぽっちもなかった僕は、Tシャツと短パンを脱ぎ捨て、パンツ一丁になった。浅い波が足首を撫でて去っていく。それを追いかけるように僕は、沖のほうへと歩みを進めた。足がつかなくなって泳ぐのにも疲れてきたところで、仰向けになって穏やかな波に身体を預けた。耳元で波の塊どうしがぶつかる音が、とぷん、とぷんと心地よく響く。空は相変わらず、雲ひとつなく晴れ渡っていた。
 このまま流されていったら、死んじゃうんだろうな。
 そんなことを妙に冷静な頭で考えながら、ゴウさんが描こうとしていた景色を思い浮かべていた。あんなに綺麗に見えていた宇宙も海も、彼らのテリトリーでは無防備な人間を決して生かしておくことはない。僕たちが、この世のすべてだと思って生きている世界なんて、広い目で見れば、あの馬鹿みたいに綺麗な水平線一本分くらいの世界でしかないのかもしれない。
 それに気がつくと、僕の洞窟に柔らかな光が射し込んで青が溶けてくるような、とても贅沢なものに触れているような感覚になった。
 ーー帰ろう。
 気まぐれに思い立ち、僕はまた腹を下にして海岸を目指した。再び入り江に辿り着き、海を背にして砂浜に立つ。灯台が立つ丘の、ゴウさんとルリがいた辺りを見上げる。丘の向こうに沈んでいく昼の残光が、夜の気配が迫り来る空に、深くて透明な青を放っていた。
 独りぼっちでいることの安らぎを知った僕は、今よりもっと、ちゃんと、人を好きになれるのかもしれない。
 息がとまりそうなほどの美しい青を眺めながら、そう思った。


最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

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