【小説】月の糸(第5話)
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三度目の入院は、雨模様の朝から始まった。
今回も鷲田とは同じ病室で、彼は智也の姿を見つけると「また無事に会えたな」と口角を持ち上げた。少し怠そうだった。抗がん剤を投与してすぐに表れる吐き気などの副作用を引きずっているのかもしれない。智也は鬱々とした気分になった。気乗りしないまま、治療に備えた検査や処置を次々と受ける。検査部の待合室は、相変わらずごちゃごちゃと患者やスタッフが行き交っていた。
正午ごろになってようやく落ち着つき、病棟へ戻る。ラウンジの窓から外を見ると本格的に雨が降り出していた。窓のサッシの下で蜘蛛の巣にかかった雫がゆらゆらと輝いている。しばらく見惚れていると、
「智也さん」
ふいに、雨粒のように透き通った声に呼び掛けられた。
智也は条件反射で背筋を伸ばし、その後で恐る恐る振り返った。するとそこには、見覚えのある空色のバンダナを身に着けた少女が、点滴台を従えて立っていた。
「華菜子、さん?」
智也が驚いて訊ねると、彼女は頷いたあとで「またここで、会っちゃいましたね」と睫毛を揺らした。
―再発。
その二文字が智也の脳裏に浮かんでくる。彼女が歩む運命の、あまりの過酷さに胸が痛む。しかし、慰めや励ましの言葉、彼女の気持ちを推し量って共感を示す言葉はかけられず、「ひさしぶり」とだけ喉の奥から絞り出す。智也も当事者であるからこそ分かっている。目の前に突き付けられた現実がどんなに無慈悲なものであっても、受け止めて耐えるしか道はない。頑張れとは言いたくないが、無理をするなとも言えない。文字通り命がかかっているのだから。
華菜子は窓際に立って、ガラスを伝う雨粒を指でなぞっていた。音も匂いもない雨は、窓の向こうの景色を淡々と灰色に染め上げていく。
何か。何か言わなければ。
華菜子の背中から目を逸らし、自分の足元へ視線を泳がせる。そんなところを探しても彼女へかけるべき言葉はみつからない。わかっている。気の利いたセリフの代わりに、視界の隅に鮮やかな黄色が映った。気になってそこに焦点を合わせた智也は、「あ」と思わずつぶやいた。智也の声に華菜子が振り返る。
「ひまわり」
智也は、ラウンジの片隅に落ちていた一輪の切り花を拾い上げ、華菜子にも見えるように掲げた。
「ほんとだ、気がつきませんでした」華菜子が嬉しそうに笑う。
智也は少し前にもこの場所でひまわりを拾ったことを思い出す。テーブルの上に置き去りにされたあの花は、次の日にはどこかへ片づけられていた。あのときと同じで、このひまわりも造り物だ。
「前にもここに、同じようなのが落ちてた」
「この花が大好きな患者さんが、きっといるんですね」
華菜子は智也のほうへ手を伸ばし、花を手に取った。
「たしか、ひまわりの花言葉は、」
華菜子は花とじっと向き合うようにする。
「あなただけを見つめる」
華菜子のしんとした声に、智也は不覚にもどきっとしてしまう。「へえ、そうなんだ」と平静を装ってみせ、華菜子の横顔から花のほうに目を向ける。
「智也さんは、花、好きですか?」
「うん」華菜子の質問に、智也は頷く。「こんなに綺麗なのに、誰かのために綺麗でいようとしてるわけじゃないのが、すごくいいなって思う」
華菜子は一瞬だけ目を瞠って、そのあとで口に手をあてて笑った。
「智也さんて、なかなか素敵なこと考えるんですね」
智也は否定とも肯定ともつかない反応をして頭をかいた。
そのとき、廊下のほうから点滴台の車輪が転がる音と鼻歌を歌う声が近づいてきた。華菜子が先に音のするほうを振り返り、半テンポ遅れて智也も続く。
「あ、鷲田さん」
智也が声をかけると、今まさにラウンジに足を踏み入れようとしていた鷲田は、誰かがいることを予想していなかったようで「おっ」と小さく声をあげた。そこにいるのが智也だと分かると、「俺インザビルディング」と言ってにやりと笑う。
「どういう意味ですか、それ」と眉をしかめる智也を意に介さず、鷲田は鼻歌を再開してラウンジの中へやってくる。
「はじめまして」と華菜子が鷲田に声をかける。智也ははっとして、「俺と同じ部屋に入院中の、鷲田さん」と紹介した。「そしてこちらが、華菜子さんです。鷲田さんが入院してくる前にここで知り合いました」
鷲田は華菜子の顔をみると、わずかに首をかしげ、一瞬何かを思案するような表情を見せた。それからすぐ何事もなかったように「どうも」と軽い口調で挨拶をする。
ふたりは年齢や職業などの簡単な自己紹介を始める。華菜子の人懐っこさと鷲田の軽快さがうまく噛み合い、ものの数分で初対面同士に特有の上滑り感が消えていく。それから病棟で出会った人々の大半がそうであるように、話題は自然とお互いの病気のことへ移っていった。
華菜子の境遇を聞いた鷲田は、「なんでだろうなあ」とやりきれなさを吐き出した。
「なんで、華菜子ちゃんなんだろうな」
「別に、わたしだけじゃないじゃないですよ。鷲田さんも智也さんも、病気じゃなくたってみんな大変です」
「そうかもしれないけど、自分の大変さをあんまり過小評価するもんじゃない。まあ、過大評価してるやつのほうが何倍もうざったいけどな」
智也はじっと俯いて二人の会話を聞いていた。
「尾崎は考えたことないか? なんで俺が、って」鷲田が訊ねてくる。
「うーん……そう言われてみれば、なかったかもしれないです」智也は視線を下げたまま答えた。考えたところで何も解決しないだろうから。なんて身も蓋もないこと言わない。そういう問題ではないことは重々承知しているつもりだ。しかし、
「智也さんは、そんなこと考えたって意味ないし、って思ってそう」
と、華菜子にあっさり図星をつかれる。「いや、そんなことは…」と咄嗟に否定する。
「でも確かに、苦しさの根源はいつだって、自分が自分だっていうことかもしれないですね。他人の苦しみを苦しんであげることはできないし」
智也がこぼした言葉は、三人の間をふらふらと漂った。
「どういうことだよ、それ?」と首を傾げる鷲田を無視して、「きっと、あれですね」と智也は話題を変える。
「連日猛暑の夏休みに、暑い暑いって口に出し続けるのと一緒ですよね。暑いって言ったところで気温が下がるわけじゃないけど、言ったらちょっとだけ気が楽になる、みたいな」
今度は「ああ」と鷲田が同意してくれる。「いったん文句言ったり落ち込んだりして、そこから立ち上がるためにとりあえず吐き出す感じだよな」
「あんまり暑い暑いって言い過ぎると大抵、うるさい! ってお母さんに怒られますけどね。夏休みあるあるです」と華菜子が笑う。
「だからさ、病気に対しても誰かが言ってやらないといけないんだよ」鷲田が語気を強める。「死にたくなかったら黙って戦うしかないだろって。誰も言ってくれなかったら、自分が言えばいいんだよ」
「じゃあ、不毛な〈なんで?〉も無駄なんかじゃないですね」と言う華菜子に、「そうだね」と智也も頷いた。
その時、智也の胸には、入院生活を送るようになってから感じたことのなかった暖かさがこみあげていた。慣れない生活のなかで、知らず知らずのうちに張り詰めていた気持ちが少しだけ解けていく。鷲田と華菜子、二人のおかげで、ここが自分の居るべき場所なのだと、いまこの瞬間は受け容れることができた。
「あ、そういえば」
華菜子が突然智也のほうを向いたので、智也は姿勢を正した。
「智也さん、わたしのワールドに来てくれないんですか?」
ブルーアスターのことだとすぐにわかった。あの時華菜子が残したメモはとっくに消えているのに、智也は思わず右手のひらを見た。
「こいつ、最近ブルーアスター始めたばっかりなんだよ。信じられる?」
鷲田が横槍を入れてくる。しかし華菜子への言い訳を必死に考えていた今は助け船になる。
「スマホ病室に置いてきたから、あとで、必ず」
鷲田とIDの交換を始めた華菜子に、智也は約束する。
「おう、絶対だぞ」
「なんで鷲田さんが返事するんですか」
鷲田がおどけて肩をすくめてみせたところで、廊下がにわかに騒がしくなりラウンジの前を大きなワゴンが横切っていった。昼食の配膳が始まったらしい。
「そろそろ部屋に戻りますか」
華菜子の声を合図に、三人はラウンジの出入り口へ向かって歩き出す。華菜子はさきほど拾った造花を手に持ったままだ。
「ワールドでライブやったりはしないのか?」
先頭を行く鷲田が唐突に、半分だけ振り返って華菜子に問いかけた。智也はその質問の意味がわからずに華菜子の様子をうかがう。当の華菜子は「えっ」と声をあげ頬を紅くする。
「なんだ、知ってたんですか」
「俺、ファンだよ。まさか同じ病院にいるとは思わなかった」
「からかわないでくださいよ」
「いや、本気だって」
智也だけが二人の会話から置いてきぼりになっていた。華菜子が鷲田の質問に答える。
「歌のアカウントは別にあるので、ここではやりません。わたし個人のプライベートワールドは、家族とか友達とか、親しい人たちにしか教えないことにしてるんです」
ライブ、歌、というキーワードでようやく智也はピンときた。華菜子は以前、高校の軽音部に所属していると言っていた。それに関連することに違いない。
「ふうん、そういうもんか」
鷲田が納得したところで智也たちの病室の前に着いた。
立ち止まった智也たちに軽く手を振って、華菜子は自分の病室のほうへ歩いて行く。智也も病室へ入ろうとドアに手をかけたところで、華菜子が「そうだ」と立ち止まった。こちらを振り返り、「智也さん」と呼びかけてくる。
どうしたのだろうと、智也と、ついでに鷲田も動きをとめる。
「ひまわりの花を誰かに贈るときは、贈る本数によって、花言葉の意味が変わるんです」
華菜子の発言の意図をはかりかねて、智也は首を傾げる。「そうなんだ?」
「はい。詳しい内容は、体調がいいときにでも調べておいてくださいね」華菜子は肝心な部分をはぐらかす。
「なんかわかんねえけど、宿題か?」鷲田がのんきに言う。
「そうです、宿題です」
華菜子はなぜか満足そうにうなずくと、再び手を振って行ってしまった。
鷲田と智也は顔を見合わせて、病室へと入った。
互いのベッドを目指しながら、智也は鷲田に訊ねる。
「さっき華菜子さんと鷲田さんが話してたのって、あの子が組んでるバンドのことですか」
「なんだ、尾崎も知ってたのか。早く言えよ」
「いや、俺は彼女が高校で軽音部に入っているって聞いただけで、それ以上のことは……」
智也が言うと、鷲田はズボンのポケットからスマートフォンを取り出して動画投稿サイトを開いた。あるアカウントのページにとび、智也に見せる。
「これだろ? 華菜子ちゃんが組んでるバンド」
「へえ、そうなんですか?」
「なんだよ、知ってるのか知らないのかどっちだよ」
「どっちだよ、と言われても」
「一時期けっこう話題になったんだぞ。俺も、その頃からよくこのバンドの動画再生してるんだ。どっかで見たことのある顔だなって思ったら、ボーカルの子だったんだな、華菜子ちゃん」
「華菜子さんって、有名人なんですか?」
「気になるなら歌、聴いてみろよ。尾崎はどうせ暇なんだから」
「暇なのはお互いさまですよ、入院中なんだから」
さあ飯だ飯だ、と言い放って鷲田は自分のベッドへ戻ってしまう。智也も大人しく自分のスペースへ引っ込んだ。
味のしない昼食を機械的に口に運びながら、早速動画投稿サイトを開いて鷲田に教えられたアカウントを検索してみる。アカウントの概要欄には、〈現役女子高生スリーピースバンド〉とだけ書いてあった。アップロードされている動画は全部で五本あり、そのうちの四本が一年前の秋にあげられていた。サムネイルを見る限り学園祭での映像のようだ。どれも万単位の再生回数を記録している。
有名なバンドのカバーで、智也も知っている曲があったため再生ボタンを押す。前奏が勢いよくイヤホンから耳になだれ込んでくる。華菜子が弾くギターの音が風のように走り、ベースとドラムの刻むリズムが心地よく胸を震わせる。華菜子の歌声は想像の何倍も力強く、何もかも全てを弾き返して突き進んでいく透明な剣だった。演奏の巧拙や歌唱のテクニックのことなどはまったく知らないが、直感的に「いい」と思う。会場のどよめきと歓声が、智也の感覚が間違いではないことを教えてくれる。
カバー曲は二曲で、それ以外はオリジナルの曲だった。三人が奏でる音を全身に浴び、曲のサビをのびのびと歌いあげる華菜子はとても幸せそうに見えた。コメント欄にも称賛の言葉があふれかえっている。
〈これ、オリジナルなんだ。普通にいい曲〉
〈ボーカルの子、いい声だね〉
〈これ生で聴けたやつラッキーすぎるだろ〉
〈リズム隊の演奏も安定感抜群でうまい〉
〈青春って感じで胸が締め付けられた〉
そんな学園祭の動画たちをおさえて、もっとも再生回数が伸びていたのは約五か月前にアップロードされた動画だった。この投稿を最後に、アカウントの更新は止まっている。サムネイルに映っているのは華菜子一人だ。智也が初めて出会ったときと同じ、空色のバンダナを頭に巻いている。会場も、観客がひしめきあう体育館ではなく、水色のカーテンと勉強机がある、おそらく彼女の自宅であろう部屋だ。アコースティックギターを抱えた華菜子が、オリジナル曲のひとつを弾き語る。
〈ボーカルかなこは病気で高校を休学中です。またいつか、みんなの前で、三人で演奏できる日がくることを楽しみにしています。〉
華菜子自身が打ったコメントだろうか。それに対して、病気の治癒を願う声や励ましの返信が数百件寄せられていた。
智也はそれらひとつひとつに目を通していった。
そして、気持ちが空っぽになったところでやめた。
華菜子は特別な子なだったんだなと、白米を噛みながら思った。
翌日から始まった抗がん剤のせいで、例にもれず智也は完全ノックアウト状態になり、一週間はベッドの外に出て行くことができなかった。それでも、鷲田と華菜子とはブルーアスター上のワールドで集まったりチャットをしたりして、三人での交流は続いていた。
〈明日から、一時退院行ってきます!〉
智也と鷲田のもとに華菜子のチャットが飛んできたのは、智也がようやく吐き気や怠さから解放されたころだった。
その日の夜、消灯の三十分前にトイレで用を足すために病室を出た智也は、なんとなく気にかかってラウンジまで足を延ばした。ラウンジの前を通りかかると、案の定そこは灯りがついていて人影があった。
「やっぱり。なんか、いるかもなって思ったんだ」
智也がそう声をかけると、窓の外を見上げていた華菜子が「なんだ、智也さんか」と振り返る。「なんだとは、なんだ」と智也が言うと、「会いに来てくれたんですよね、嬉しいです」と冗談めかして笑う。
「鷲田さん、昨日から熱が出てるみたいで。今も寝てるっぽい」
「そうでしたか。こればっかりはしょうがないですね」
華菜子は窓のほうに向きなおり、また空を見上げる。智也がつられて彼女の視線を辿ると、群青色の空にまん丸の月が浮かんでいた。
「綺麗だな」智也は思わず口に出していた。
「花と同じですね。誰かのために輝いているわけじゃないから、こんなにも魅力的で」華菜子がしみじみと言う。「月を見てると、ああ、わたしいま、生きてるなあって思います。月のない世界なんて、まったくつまらないですよ」
智也は華菜子の横で黙って月を眺めながら、昔の曖昧な記憶を思い起こしていた。人間は歳を重ねると、花、鳥、風、月の順に好ましく思うようになる、という話だ。実家のテレビで昼の帯番組を見ていたときに、サングラスをかけた司会者が彼自身の経験を踏まえて語っていたものだ。当時中学校にあがったばかりの智也にとって、品のあるユーモアを交えながら世界の隅々までを俯瞰するように語る彼の言葉は妙に説得力があって、数年たった今でも憶えていた。
あの司会者の言うことになぞらえるならば。いま隣で月を愛でる華菜子は、もしかしたら鳥や風をすっ飛ばして月にたどり着いてしまったのかもしれない。そう思うと、月の美しさが無性に切なく感じられた。
「明日からの一時退院が終わったら、わたしはもうあっち側です」
いい加減に部屋に戻らなければという雰囲気が漂い始めたころ、華菜子が静かな声で言った。
「あっち側」とは、この病棟に入院している患者のなかでも、最も強力な治療を受ける患者たちだけが入院する、特別な病室があるエリアのことだ。智也や鷲田が入院している方とはすりガラスの自動ドアで区切られており、看護師や医師を除き、自由に人が行き来することはできない。したがって、彼女の治療が成功し、体調が整うまでの数か月間、同じ病棟にいても直接会うことはできなくなる。
「智也さんは、治療、あとどれくらいで終わりますか?」
「あと二、三か月かな。鷲田さんもたぶん同じくらいのはず」
「そっか。智也さんたちが最終退院になるころには、あっち側から出てこられるかなあ」
華菜子が願望をこめて言う。
「そうだといいね」智也も同じように願うことしかできない。
「絶対に、智也さんの退院を見送ってやりますから」
華菜子の頼もしい言葉に、智也のほうが励まされたような気になる。
「うん、待ってるよ。必ず、また会おう」
「はい」と力強く頷いた華菜子の姿が、智也の脳裏に深く刻まれる。
この日の彼女を、智也は一生忘れることができなかった。
第6話へ続く
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