【小説】月の糸(第3話)
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「あら、ずいぶんさっぱりしたわね」
病棟に荷物を持って到着すると、出迎えてくれた看護師が開口一番にそう言った。入院前の検査をしたときにも外来で顔を合わせた、ベテランの風格がある女性だった。胸元についたプレートに、近藤と書いてある。
智也は何のことかと逡巡したあとで、ああ、と髪の毛に手をやった。
「抜けるって聞いたから、切ってもらったんです」
近藤さんは「なるほどね」と笑ってから、智也が入る病室のほうを指さして歩いて行く。智也と付き添いの母親も後に続く。歩きながら彼女は続ける。
「丸刈りにして来るひとも多いんだけどね。あんまり短くしちゃうと、抜けたときに枕カバーとかに刺さって逆に取りづらくなっちゃうの。だから、ある程度長さは残しておいたほうがいいのよ」
「この髪型だと、半分セーフだけど半分アウトですかね」
「まあ、だいたいセーフってことでいいんじゃない? よく似合ってるし」
「そういうもんですかね」
「そういうもんよ」近藤さんは笑い、扉の前で立ち止まった。部屋番号のうえに、尾崎智也と書かれた紙が挟まっている。
「ここが尾崎くんのお部屋です。中に入って、着替えておいてくださいね」
近藤さんは智也と母親の顔を順番に見て言い、去って行った。
スウェットに着替え荷物の整理を終えて待っていると、近藤さんがやってきて病棟内の別な部屋に通された。長机にパイプ椅子が並べられた、こぢんまりとした部屋だった。
しばらくすると主治医の柳沼先生がやってきて、治療のスケジュールについて説明を始めた。
柳沼先生によると抗がん剤の投与は最初の約一週間のみ行われ、その後三週間は主に副作用への対応が必要になるとのことだった。副作用が落ち着けば、一週間程度の一時退院が許される。四週間入院、一週間自宅療養の合計五週間で一クール。智也の場合はそれを五クール繰り返すことになるのだそうだ。完全に退院となるまでには最低六か月はかかる計算になる。その後も一か月程度は自宅での療養が必要だという。
「ここにサインを」と柳沼先生が書類をこちらに向けた。治療に関する説明書や同意書だ。もう成年だから、智也の意志だけでサインができる。
もしもここで、俺がサインをしないと言ったらどうなるだろう。治療はしません、と宣言をしたら。一瞬だけ、そんな考えが頭をよぎって消えた。
医師が差し出したペンを受け取って、素直に三か所名前を書く。
「じゃあ、また来るから」
荷物をまとめて帰り支度をする母の頬に、かすかな疲労の色が張り付いていた。
「ありがとう。みんなにもよろしく」
智也が労うと、母は「はいよ」と微笑んで病室を後にした。ドアが閉まり静まり返った病室で智也は、母に直接感謝を伝えたのは初めてだったかもしれないな、と思った。
二十一時の消灯後、眠たくならない智也は、ベッドの上で横になったまま窓の外を眺めていた。月も星も見えない夜だった。
四人部屋の病室だったが、ベッドは二台しか埋まっておらず、もう一人の入院患者は浅い咳を繰り返していた。
母が帰った後で、抗がん剤を投与するための事前処置として、右二の腕の内側からカテーテルを挿入した。処置終了後のレントゲンを見せてもらうと、腕から鎖骨の下の血管を通って心臓のすぐ横まで細い管が入っているのがわかった。この管に点滴を繋ぎ、心臓の近くの静脈へ直接薬を投与するのだそうだ。カテーテルは、点滴を使う必要がなくなるまで身体のなかに留め置かれることになる。
カテーテルを挿入したときの局所麻酔がきれて右腕がじわじわと痛かった。
慣れない環境に疲れていたからか、一度目の眠りはそれほど経たないうちにやってきたが、夢を見る間もなく目が覚めてしまった。それからはなかなか寝付けず、夜明けの遠さを思って余計に目が冴えた。
結局、ルームメイトの咳は一晩中続いていた。
◆
三日前から四〇度近い高熱が出ている。
入院生活は三週目に突入したところだった。嘔吐感はピークを越えておさまり、髪は大半が抜け落ちていた。
熱が出始めたばかりのころは解熱剤を飲めばすぐに楽になっていたが、熱があがったら解熱剤を飲むということを繰り返しているうちに薬の効き目が一時間ともたなくなった。
抗生剤を点滴していたが熱が下がる気配は一向になく、こめかみの辺りの神経を荒いやすりでゴリゴリと削られていくような頭痛が続いた。それも時間を追うごとにだんだんと強くなる。原因は、抗がん剤の副作用で血液細胞が減少し、身体の抵抗力が著しく低下していることだった。副作用が落ち着いて血液細胞が増えて来ればおのずと今の症状もなくなっていくはずだ。医師たちにそう聞かされている間も、智也はノックダウンされたボクサーさながら、ベッドに頭を押し付けたまま身動きができずにいた。
経口の解熱鎮痛剤が効かなくなって丸一日が過ぎた夜、智也は布団の中で頭を抱えてうずくまっていた。そのころには、傷んだこめかみの神経を火で炙られるような鋭い痛みが、数分に一回の頻度で脳みその真ん中に刺し込んでくるようになった。気が付けば、涙が溢れ出して止まらなくなった。もういっそのことこのまま楽にしてほしい、と懇願したくなるくらいの激しい苦痛だった。
次の日から、点滴で解熱鎮痛剤を投与することになった。二十四時間投与し続けることができる薬らしく、その効き目があらわれると頭痛が消えて一気に楽になった。
朝食と昼食をとらずに眠り続け、夕方に目が覚めるとシャワーを浴びたくなった。入浴時間が終わるまではあと一時間ほどだった。
看護師さんを呼び、シャワー室が空いているかどうかと、シャワーを浴びてよいかを確かめる。どちらもオッケーが出たので、ベッドの横に備え付けられたクローゼットから着替えと入浴セットを取り出し、病室を出た。点滴台を引っ張って歩きながら廊下を進む。栄養を補給するための大きな袋が揺れる。
まだ足にうまく力が入らず、ふわふわと浮いているような感覚があった。
智也が入院している病棟は、楕円のドーナツ型をしていた。ドーナツの穴に当たる部分にナースステーションがあり、それを囲むように廊下とそれぞれの病室が並んでいる。
「最近できたばかりの病棟なの。この形だとどの病室も平等にナースステーションから近くなるのよね」と教えてくれたのは近藤さんだ。
シャワー室は、智也の病室からみるとナースステーションを挟んで反対側、歩いて行くといちばん遠いところだ。といっても病棟自体がそれほど大きくないため、健康な人の足であれば一分もかからない。
シャワー室の手前には硬貨を入れて使うタイプの洗濯機置き場があり、さらに手前にラウンジへの入り口がある。ラウンジには自動販売機や公衆電話が設置されていて、土日は患者の面会に来る人がいたりする。その日は平日で、しかも昼間とも夕方ともつかない微妙な時間帯だったからか、病棟全体に患者とスタッフ以外の気配は感じられなかった。
智也がラウンジの前を通りかかると、そこから話し声が聞こえてきた。ラウンジには扉がないため、中にいる人の声は大抵が丸聞こえだ。智也は無意識のうちに、声のするほうへ目をやっていた。
そこには、患者らしき女性がひとりだけ座っていた。手前から奥にテーブルが三つ並んでおり、そのうちの入り口からいちばん遠い席に、彼女はいた。スマートフォンを手に持ち画面に向かって話しかけている。誰かとテレビ通話でもしているのだろうか。
話し方や声のトーンから、とても若い人なのだろうと推測できた。もしかしたらまだ、女性というよりも大人に近い少女といった年齢かもしれない。頭に空色のバンダナを巻いている。きっと、智也と同じく抗がん剤のせいで髪が抜け落ちてしまったのだろう。甚平タイプの病衣を着ていて、そこから覗いている腕や首は透き通るように白く、気の毒になるほど細かった。
しかしそれ以上に、まっすぐに伸びた背筋と凛とした横顔が強く印象に残った。
綺麗な人だな。
智也はぼんやりとした頭でそれだけを思い、ラウンジの前を通り過ぎた。
シャワーを終えて病室に戻るときにはもうそこには誰もおらず、窓から差し込む西日だけが取り残されていた。
次に彼女を見かけたのは、それから二日後のことだった。
智也の入院生活も四週目に突入し、薬の副作用で減少していた血液細胞たちも徐々に増え始めていた。それまで智也を苦しめていた頭痛や発熱などの症状は嘘のように消えてなくなり、食欲も回復し始め、解熱鎮痛剤の点滴も必要なくなった。
「もうすぐで一回目の退院、できそうですね」
朝の回診で医師からその言葉を聞き、身体が一気に軽くなった。
昼食のあと自販機で飲み物を買おうとラウンジへ向かったところ、この前と同じテーブルに彼女が座っていた。今日はなにやら真剣な面持ちでタブレット端末を操作しているようだ。
智也は彼女の存在を横目に、何事もないようなふりをしてラウンジの奥へ歩み入って自販機に相対した。紙パックの飲み物が入っている自販機に硬貨を入れ、オレンジジュースの番号を押す。ジュースが取り出し口へ移動してくるのを待つ間、智也は何げなく彼女のほうへ視線をやった。
すると、彼女のほうもちょうどタブレット端末から顔をあげたところで、ばっちり目が合ってしまった。
互いに一時停止状態になり、相手の出方をうかがうような空気が流れた。智也が咄嗟に会釈をすると、彼女も智也の真似をするように頭を下げた。その口元には柔らかい微笑みが浮かんでいた。
「こんにちは」
オレンジジュースを手にした智也に声をかけてきたのは、彼女のほうだった。
「こんにちは」と智也も頭を下げる。
「急に声かけてごめんなさい。年が近そうな人、珍しくて」
彼女は智也を見上げたまま、人懐っこい笑顔を見せる。パーソナルスペースを一瞬にしてかき消してしまうような笑顔だった。
「いえいえ。確かに、親かじいちゃんくらいの歳のひとがほとんどですもんね」
智也はオレンジジュースにストローを差しながら答えた。
「立ったままお話っていうのもアレなので、よかったら座ってください」
彼女はそう言って、自分の隣の椅子を引いた。大人びた言い方があまり似合っていなくて微笑ましい。「じゃあ、お言葉に甘えて」と智也は腰を下ろした。
「わたし、町田華菜子っていいます」
「俺は尾崎です。尾崎智也」
「大学生さんですか?」
「うん。華菜子さんは?」
「わたしは高校生です。今、二年」
年下だろうとは予想していたが、思っていたよりも若かった。
「入院生活は長いの?」
智也が訊ねると華菜子は「結構長いかも」と指を折った。親指だけを折り曲げた形の手を智也に見せ、「全部合わせると九か月」と言う。
「大先輩じゃん」と智也は驚く。
「病気で先輩になっても嬉しくないですよ」と華菜子は苦笑する。「智也さんは? いつからいるんですか?」
「もうすぐで一か月くらい」
「じゃあ、もしかして、あとちょっとで一回目の退院ですね?」
智也はオレンジ―ジュースをすすりながら、「うん、そう」と頷く。治療のスケジュールを予測できるということは、彼女も同じような病気なのだろうか。智也が自分の病名を告げると、予想通り華菜子は「わたしもです」と言った。
それから華菜子は、一年生の中盤から朝に起きられなくなり学校を休みがちになったこと、それがきっかけで貧血が分かりこの病気が見つかったこと、最初の抗がん剤の治療がうまくいかなかったこと、そのため母親にドナーになってもらって幹細胞移植を受けたことなどを話してくれた。
彼女は終始淡々と話をしていたが、逆にそれが、病気や治療と向き合い葛藤してきた時間の長さと重さを思わせた。華菜子は一通り話終えたところで、「でも」と声を弾ませた。
「移植はうまくいったので、明日の血液検査の結果が大丈夫だったら、明後日退院できるんです」
「へえ、よかったね。おめでとう」
智也は心からそう言った。しかしそれと同時に、この子が退院して行ったらもう二度と会うことはないんだろうなという、まだ寂しさとは呼べないくらいの感慨が、心をかすめて行った。
「退院したら何したい?」
智也が訊ねると華菜子は「うーん」と考え込んだあとで、「きっと、もう何もかもが楽しくて嬉しいですよね」と目を輝かせた。
「九時に寝なくていいし、好きな時間に風呂に入れるし、分厚いマットレスで寝れるし、テレビも音楽も大音量で流せるし」
智也が言うと、華菜子は首を痛めてしまうのではないかと心配になるほど激しく同意した。それから、「でもやっぱり、早く学校に行きたいなあ」と楽しみを噛みしめるように言った。
智也はストローを咥えながら「ほう」と応じる。「学校、好きなんだ?」
「はい。あ、でも勉強は嫌いです」
真剣な顔で主張する華菜子が可笑しくて智也は吹きだす。
「あ、智也さん今、わたしのことアホっぽいって思ったでしょ」
「思ってないよ、少ししか」
「少し思ってるじゃないですか」
「冗談」と智也は華菜子の言葉をいなす。「勉強が嫌いなら、部活?」と訊ねると華菜子は「はい。軽音部に入ってるんです」と少し照れ臭そうにした。「中学生のころからずっと憧れてて、高校生になったらバンドを組むんだって決めてて」
「へえ、かっこいいな」智也は意外に思いつつも本心から言った。
「同学年の女子ふたりと、ロックみたいなことやってるんですけど、なかなかね、かっこいいんですよ、わたしたち」
「自画自賛かよ」と智也は笑う。
「ベースの子がオリジナルの曲を書いてきてくれるんですけど、それがもう最高で。とにかくその子のつくる音楽をみんなに届けるために、わたしたちのバンドは存在しているんです」
熱く語る華菜子の目はきらきらと輝いていた。
「本当にそのバンドが好きなんだね」
智也の言葉に華菜子は、「はい、大好きです」と花が咲いたように笑った。
この時に話していた予定通り、華菜子は無事に退院することになった。
華菜子の退院当日、智也がシャワー室の空きを確認しようと廊下に出ると、ちょうど華菜子が荷物を載せたカートを押しながら病棟を出て行くところだった。
主治医や看護師、同じ部屋に入院していたらしい患者たちなどが、彼女を見送るために病棟の出口へ集まっていた。智也は小さな人だかりの背後から遠巻きにその様子を眺めていた。華菜子の母親だろうか。目元をハンカチで抑えながら、何度も何度もみんなに頭を下げている女性がいた。看護師のひとりがその肩をずっとさすっていた。
声をかける隙がなさそうだと諦め、智也がシャワー室のほうへ向き直りかけたところで華菜子のほうがこちらに気がついた。目が合うと、華菜子は人の輪を抜けてこちらへやってきた。
「智也さん、最後に会えてよかったです」
裾が膨らんだ夏らしい色のロングワンピースに身を包み智也を見あげる華菜子は、あまりにも眩しかった。
「退院おめでとう」
「ありがとうございます」
「まあ、俺も明日退院なんだけどね」
智也が報告すると、華菜子は「おー、よかったですね」と先輩風を吹かせる。
気の利いた別れの言葉が浮かばす、智也が思案していると、
「智也さん、いまスマホ持ってますか?」
と、華菜子が突然訊ねてきた。
智也は両手でズボンのポケットを触ってから、「病室に置いてきた」と手のひらを見せた。すると華菜子は、「んー、じゃあ…」と肩にかけていたカバンのなかを探り始めた。取り出したのは油性のボールペンだった。
「手、貸してください」
何がなんだかわからず、智也は華菜子の言う通りに右手を差し出した。
華菜子はペンを握っていないほうの手で、智也が差し出した手の親指あたりを軽く押さえ、ボールペンを走らせた。右手のひらの真ん中にくすぐったい感覚がある。
一秒とかからずに、華菜子は智也の右手を解放した。
智也が手のひらを見ると、そこには逆さまになった十桁の数字が書かれていた。顔を上げると、ボールペンを握ったままの華菜子と目が合う。
「それ、ブルーアスターに登録してる私のワールドIDです。気が向いたら遊びに来てください」
華菜子はそう言って、気恥ずかしそうに笑った。
智也は戸惑いながら、手のひらと華菜子の顔を交互に見た。
「じゃあ、わたし、そろそろ行きますね」
智也を置き去りにしたまま、華菜子は病棟の出口のほうへ戻って行ってしまう。
何か言わなければと頭をフル回転させたものの、結局何も浮かばず、「元気でね」とだけ背中に投げかけた。
一か月ぶりに病院の外へ出た。最初の一時退院だ。
父親が運転するワゴン車の後部座席で、窓を全開にして風を感じた。自然な空気の肌触りや木々の緑が、こんなにも心を癒してくれるものだとは知らなかった。
「エアコンかけてるのに」
助手席にいる母の小言は聞こえないフリをする。
空に浮かぶ雲は薄くのびて、夏の終わりを匂わせていた。
実家に着くとジロウが真っ先に玄関まで走ってきた。ジロウの顔を両手で撫でまわしてやっていると、「おかえり、兄ちゃん」と声が降ってきた。智也は「おう」と答えながら顔をあげる。ジロウとよく似た愛嬌のある目をした風太郎が立っていた。智也の退院に合わせ、バイトを休んで帰省してきていたのだ。
風太郎の手を借り、二階の子供部屋へ荷物を運ぶ。物心がついたときから二人で布団を並べていた部屋だ。
「なあ、風太郎」
智也のボストンバックを担いで先に階段を上っていく風太郎に声をかける。「ん?」と風太郎が返事をする。
「ブルーアスターって知ってるか?」
「もちろん」
「まじか。それって何なの?」
「待って、兄ちゃんってブルーアスターやってないの?」
風太郎は子供部屋の扉を開けながら、驚いたような顔をして振り返る。
「ブルーアスターっていうのは、割と前から流行ってるSNSのことだよ」と言いながらバックを下ろす。「メタバースで色々できるっていうのが売りなんだ」
メタバースくらいなら智也も知っている。インターネット上につくられた仮想空間のことだ。自分の分身であるアバターを使って、現実の世界と同じように仮想空間のなかで買い物をしたりサービスを受けたりすることができるのだ。
「最近よく、バンドとかアイドルのライブがメタバースでやってるって聞くけど」
智也が脳みその奥から記憶を引っ張り出して言うと、風太郎は「そうそう」と頷く。
「そういうのはだいたい、ブルーアスターのパブリックワールドでやってるんだよ」
「パブリックワールドってなんだよ」
「言葉のまんまだよ。ブルーアスターのアカウントを持ってれば誰でもアクセスできて、現実世界にも反映される行動、主には物の売り買いなんだけど、それができるのがパブリックワールド。ファッションブランドとかがこの仮想世界にけっこうたくさん出店してて、ブルーアスターの店舗でしか買えないアイテムがあったりするから、それを目当てで始める人が多いんだ。もちろん洋服以外にも、本とか雑貨とか家具とかを買える店もあるし、宅配スーパーなんかもあるよ」
ふーん、と智也は相槌を打つ。
「なんか、入院中に知り合ったひとからIDもらったんだけど、これは何なの?」と、スマートフォンのメモ機能にうつした十桁の数字を風太郎に見せた。別れ際に華菜子が右手のひらに残していったものだ。
それを見た風太郎は、「それはたぶん、プライベートワールドのIDだよ」と言う。
「ブルーアスターって、パブリックワールドとは別にプライベートワールドっていうのに入っていける機能があってさ。プライベートワールドは、各アバターにひとつずつ与えられていて個人が自由に扱える仮想空間なんだ。基本の建物とか景色はパブリックとまったく一緒なんだけど、ここで起こした行動は現実とは何も関係がないんだ」
智也が首をひねると、風太郎は「実際に見せたほうが早い」と言ってスマートフォンを取り出した。白い背景に青い花が描かれたアイコンをタップしてアプリを起動する。すると、画面の真ん中に風太郎のアバターが現れた。髪型や目の形や輪郭など、結構リアルに再現されている。風太郎が現実の世界でも好んで着ているスポーツメーカーのパーカーを、そのアバターも身に着けていた。
「すげえ」と智也が呟くと、「ブルアスターで服を買うと、アバターも着られるようになるんだよ」と解説してくれる。
スタート画面をタップすると、地球のような絵がアバターの左右にひとつずつ現れた。一方の地球には〈Public〉、もう一方には〈Private〉と表示されている。
はじめに風太郎は〈Public〉と表示されたほうの地球をタップした。画面が黒くフェードアウトしていき、次の画面で風太郎のアバターはスクランブル交差点の一角に立っていた。交差点の周りにはビルが立ち並んでいて、その中でもひときわ大きなビルの巨大スクリーンには流行りのアーティストのミュージックビデオが映し出されている。洋服メーカーやチェーン店など、見覚えのあるロゴがビルのあちらこちらに表示されていた。風太郎の周囲を、色とりどりのアイテムを身に着けたアバターたちが行き交っている。二人組で歩いているアバターもいて、その頭上には吹き出しが浮かんでいる。アバター同士で会話もできるようだ。
「例えばさ、こうやって店に入るでしょ」
そう言って風太郎はアバターを操作し、近くにあったCDショップに入る。中にはCDが入った棚がずらりと並んでいた。他の客らしきアバターが数人と、制服を着た店員のアバターがいる。棚には音楽のジャンルが表示されていて、そこをタップすると販売中のCDのタイトルやジャケットが出てくるようになっていた。金額や決済方法を選択するボタンも表示されており、通常のネットショッピングと同じ要領で買い物ができるようだ。
「店員さんのアバターに話しかけると、最新のアルバムの発売日とか教えてもらえるんだ。これが服屋さんだったりすると、サイズ感とか教えてくれたりね」
「ほおー」
「これがパブリックワールドで、次はプライベートワールドね」
風太郎はそう言って画面を操作し、パブリックワールドから退出した。ふたつの地球が出てくる画面まで戻り、今度は〈Private〉の地球をタップする。パブリックワールドとは違い、今度はログイン画面が出てきてIDとパスワードを求められる。
風太郎のアカウントでログインすると、パブリックワールドに入るときと同じように画面がフェードアウトし、アバターは同じスクランブル交差点の角に立っていた。見渡す景色もパブリックワールドと何ら変わりはない。ただ、他のアバターがまったく歩いていなかった。さっきと同じCDショップに入っても、形だけ棚が並んではいるものの店員もいなければ買い物をすることもできない。さっきのにぎやかなワールドと比べると、自分だけが世界に取り残されてしまったようだ。
「こんな風に、プライベートワールドは世界の外枠だけがあって、機能がないんだよ」
「物寂しい感じだな」と智也がつぶやくと、「俺のワールドは何も飾ったりしてないからね」と風太郎が言う。
「飾るって?」
「プライベートワールドは、自分で街を好きなようにいじれるんだよ。あ、建物とか道路の位置を捻じ曲げるのは無理だけどね。街灯のデザインを変更したり、街路樹とか花を植えたり、そういうことができる。街を飾るための基本的なアイテムはアカウントを登録した時点でもらえるんだけど、ブルーアスターを使ってる期間の長さとか頻度によってステータスがついてボーナスアイテムがもらえて、どんどん自分のワールドを飾るツールが増えていくっていう仕組みなんだ。それ以外にもパブリックワールドのショップで買い物したときにもらえるポイントを貯めてアイテムと交換したり、ブランドとコラボしたアイテムをゲットしたりして、街をオリジナル仕様にしていくのが流行ってるんだよ」
「飾ったところでどうなるんだ? 誰に見てもらえるわけでもないだろうに」
「それが見てもらえるんだよ。そのために、自分のワールドに他のユーザーを招待する用のIDがあるんだ」
「ああ、それが」と智也は自分のスマートフォンのメモに表示された十桁の数字に目をやり、「これか」とつぶやいた。
「そういうことだね」と風太郎が頷く。
「誰かのワールドに入って行って出来ることは、そのワールドを散策することとワールドの主にチャットでメッセージを送ることくらいかな。主がワールドにいないときはメッセージを残して行って、主がそれを見たらまた俺のワールドに返事をしにくる、みたいな感じでチャットの代わりにも使えるんだ。最近はショートメールなんかよりブルーアスターでやりとりするほうが主流になってきてるよ。あとは、誰かひとりのワールドに知り合い同士のアバターが何人か集まって、鬼ごっことかかくれんぼとか、サバゲーとかするのも流行ってるみたい」
「なんでもありだな」
「仮想空間だからね」
風太郎がそう言ったところで、「あんたたちー、昼ごはんにするよ」と一階から母の声がした。「今行くよ」と返事をし、二人はおもむろに子供部屋を出た。
「なにしてたの?」
ダイニングへ下りていくと、母親が訊ねてくる。
「兄ちゃんにブルーアスターの使い方教えてたんだ」
「あー、あれね。便利よね」と母親が声のトーンを一段上げる。
「え、母ちゃんもやってるの?」
智也が驚くと、「だから、兄ちゃんが相当遅れてるんだって」と風太郎に笑われる。
「兄ちゃんもはじめてみたら?」
風太郎の提案に、すぐさま母が同調する。
「いいじゃない! メタバースで街に出てる感覚を味わえば、入院中でも気分転換になるかもしれないし」
「まあ、気が向いたらやってみるよ」と、智也は二人の言葉をかわしながらダイニングテーブルに腰を下ろした。
母親がつくった焼うどんをすすりながら、「IDくれたひともきっと待ってると思うよ」と風太郎が言う。
智也は何も言わずに、別れ際に手のひらに触れた華菜子の温度を思い返していた。
第4話へ続く
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