【小説】月の糸(第11話)
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翌朝、智也は風太郎の待つアパートへ向け、実家を発った。
「なんだ、もう帰るのか?」
ジロウの散歩が終わるとすぐに荷物をまとめ始めた智也に、父が訊ねる。
「風太郎と喧嘩したまま出てきたから気持ち悪いんだって」と代わりに応えたのは母だ。
「お前たちが喧嘩なんて珍しいな」「ほんとよね」仕事へ出かける準備をしながら、父と母は暢気に言い合っていた。
「まあ、うまくやりなさいよ」
玄関先まで見送りに来た母に、智也は無言で頷いた。
最寄り駅についたのは正午を少し過ぎたころだった。改札を出るとすっきりと晴れた空が広がっていた。天気予報によれば、梅雨前線はまだ南に停滞したままらしい。
アパートを目指し、高架下を線路沿いに歩いて行く。ファストフード店にコンビニ、シャッターが下りた居酒屋、定食屋の行列、全国チェーンの喫茶店など、見慣れた景色が目の端を通り過ぎる。と、数メートル先の駐輪場から、自転車を押して出てくる人影がある。あれは、と智也が気づいたのと同時に、その人物と目が合う。相手もすぐに智也の存在を認め、自転車に跨る動作の途中で少し驚いたような表情になる。
「兄ちゃん」
右足を上げた格好のままで、風太郎が智也に声を掛けてくる。正確には、目に入ったものの名称が口から零れ落ちたという様子だったが、智也は「おう」と返事をせざるをえない。風太郎は自転車に乗るのをやめ、智也が歩いてくるのを待つ。智也が追いつくと、「おかえり」と自転車を押して智也の横を歩く。智也はまた、「おう」とだけ答えた。
しばらくの間、自転車の車輪の音だけがふたりの間を回っていた。大通りへ出てからも特に会話らしい会話はないまま、風太郎のアルバイト先を通り過ぎる。
「あのさ」と先に口を開いたのは風太郎だった。前方の信号が赤に変わり、半歩先を歩いていた智也が立ち止まったときだった。
「一昨日のことは……」
悪かった、と言いかけた弟を振り返り、智也はそれを遮った。
「風太郎は、何も悪くない」
「いや、でも」と風太郎が不満げに眉をひそめる。
智也は前に向き直り、風太郎をなだめるように言った。
「たぶん、俺も悪くないし」
信号が青になり、二人はまた歩き始める。わずかに残ったわだかまりが解けていくのを、背中越しの風太郎の気配から感じる。
「兄ちゃん、昼飯食べた?」
「まだ」
「俺もまだなんだよね」
「なんか食って帰るか」
「何がいい?」
「……ラーメン」
アパートの近くにあるラーメン屋は、昼のピークがすでに過ぎていたのか、すぐに奥のテーブルへ座ることができた。二人でここへ来るのは健康診断の帰り以来、およそ一年ぶりだ。
智也が塩ラーメンを、風太郎が醬油ラーメンとチャーハンを注文する。
「もうちょっと、田舎にいるのかと思ってた」
料理が出てくるのを待つ間、風太郎がおしぼりの外袋を几帳面に丸めながら言った。
「まあな」
智也は壁のメニューに目をやったまま、曖昧に返事をする。風太郎の言うとおり、智也もアパートをでたときは最低でも三日ほど実家に滞在するつもりでいた。が、昨日になって急にアパートへ戻る気分になった。その理由を打ち明けるタイミングを、智也は見計らっていた。
「母ちゃんたち、寂しがらなかった?」
「別に、普通だったよ」
「そうか」
ラーメンがテーブルに運ばれてくる。スープをひとくちすすった風太郎が、「優勝!」とガッツポーズを決める。それからふたりとも黙々とラーメンを食べ進めた。湯気が顔面を覆い、麺に息を吹きかける音と麺をすする音が繰り返される。風太郎がときおり洟をかみ、「うま」と声を漏らした。
そう時間をかけずに、二人ともラーメンを完食する。空になったどんぶりを前に、ふうと息を吐く。空腹が満たされた安堵感が漂ったところで、智也は口を開いた。
「実はさ」
空のコップに水を注いでいた風太郎が、手を止め智也のほうへ顔を向ける。
「今日はちゃんと話そうと思って、帰って来たんだよ」
風太郎が首をかしげる。「何を?」
「入院中に出会った人たちのこととか、病気になって考えたこととか」
智也の頭のなかには、一昨日の言い争いのなかで風太郎にぶつけた自分自身のセリフが浮かんでいた。
―お前に、俺の気持ちが分かるかよ。
一方的に風太郎を拒絶し、否定するためにぶつけた言葉だ。何ひとつとして智也のほうから伝えようとはしていなかったのに、あの時弟を責めてしまった。結局智也は、何も知られたくなかったのだ。分かられてたまるかという歪んだプライドもあった。根底にあったのは弱い自分を風太郎に見せたくないという思いで、それも智也自身が自分の弱さを認めたくなかったからだ。でも今は違う。運命とともに歩んでいく方法を、華菜子が教えてくれた。まだ明瞭な言葉で言い表せるほど距離をおいて考えることはできていないし、華菜子がいなくなってしまった辛さも、病気と自分の命に対する複雑な思いも、じくじくと痛む生傷のままだ。だからこそこの苦しさを、風太郎と腹を割って話しをすることが、自分の運命を愛するための第一歩になると信じてみるのだ。華菜子と同じで、智也もこの人生を不幸だと感じたことはなかったのだから。
「俺も聞いてみたいと思ってたんだ」両手で抱きとめるように、風太郎が智也の言葉を受け取る。「歳の近い人たちも、入院してたの?」
「鷲田さんっていう五個上の人と、華菜子さんっていう三つ下の子がいた」
「ブルーアスターのIDくれたひと?」
「ああ、そう、それが華菜子さん。大変な治療を何回も受けて……」
智也が言い淀むと、察しのいい風太郎は心配そうに兄をうかがった。智也は軽く息を整えてから、「この間、亡くなったんだ」と告げた。
「そうか。それは、残念だったね」
風太郎は、自分の身体が痛めつけられているかのように苦し気な表情をする。智也はただ、「本当に」と頷いた。
「鷲田さんのほうは、俺のちょっとあとに退院したよ。彼女へのプロポーズが成功したって連絡くれたりしてさ。大胆で強引でデリカシーがないけど、面倒見がいい人なんだ」
智也の言いぐさに、風太郎が吹き出す。
「それ、褒めてるのかけなしてるのか分かんないって」
「いや、褒めてるだろ」智也は即答する。「あ、でも、一時退院してた鷲田さんが、病室にいる俺にラーメンの写真を送りつけてきたときの恨みは、一生忘れない」
「なんだよそれ」と風太郎が愉快そうに笑う。智也も自然と顔がほころぶ。
「病院食しか口にできない患者に外界の食べ物を自慢することがどれだけ罪深いことか」
「華菜子さんと鷲田さんは、友達なの?」
「もちろん。よく三人でブルーアスターに集まってた」
ふうん、と風太郎は相槌を打ったあとで、ためらいがちに訊ねる。
「華菜子さんって、どんな子だったの?」
智也はゆっくりとまばたきをして、自分自身の目で見てきた彼女の姿に思いを馳せた。
「目の前の今を、精一杯に生きている子だった」
風太郎が「そっか」と優しく頷く。
「これ、見てくれよ」
智也はズボンのポケットからスマートフォンを取り出し、動画投稿サイトを開いた。風太郎が身を乗り出してくるので、みえやすいように画面を向けてやる。再生したのは、華菜子たちが高校の文化祭でオリジナル曲を演奏している動画だ。
智也が知っている華菜子は、画面のなかの華菜子よりも痩せていたし、顔色もあまりよくはなかった。それでも、目の輝きだけは一ミリも変わっていなかった。
演奏が終わり、画面がフェードアウトして暗くなる。智也はスマートフォンをしまいながら、「すげえだろ、華菜子さん」と風太郎のほうを見た。
すると風太郎は、あふれんばかりの涙を目に溜めていた。唇を噛みしめ、必死に泣くのを堪えている。そんな弟の姿を見て、智也は思わず笑ってしまう。
「なんで、お前が泣くんだよ」
「ごめん。本当に感動したんだよ、彼女たちの演奏に。だけどもう三人で揃うことはないんだなって思って」風太郎はついに溢れ出した涙を、ティーシャツの袖で拭っていた。
「ラーメン屋のテーブルで、しかも男二人でこんなことになってんの、おかしいだろ」
そういう智也の頬にも、大粒の涙が伝っていた。
その夜、智也はブルーアスターを開き、華菜子のアカウントへメッセージを送信した。
〈連絡が遅くなってしまい、すみません。華菜子さんと同じ病棟に入院していた尾崎といいます。いつか鷲田さんも一緒に、華菜子さんと華菜子さんのご両親に会いに行ってもいいですか〉
返事は、翌朝になって届いた。
〈華菜子の父です。連絡をくれてありがとう。とても嬉しいです。ぜひ、遊びに来てください。いつでも待っています〉
第12話へ続く
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