【小説】始まりの兆し、終わりのキッカケ
(約9,800字) 2023/12/26追記
「月が出てる」
半歩先を歩くダイスケさんが白い息を吐きながらそう言った。12月26日の月曜日だった。
道路に積もって凍った雪を踏む、わたしたちふたりの足音が、静かな住宅街に響いていた。綿をちぎってばらまいたような雪がふわふわと舞っている。
ダイスケさんの視線を追いかけて東の空を見上げると、山吹色のほそい月が浮かんでいた。下弦の月だ。
夜空が瞬きをする途中で止まってしまったみたいだ、とかじかんだ頭で考えていると、ツルツルの圧雪に足をとられて転びそうになった。
「大丈夫?」とダイスケさんが笑う。
わたしは体勢を立て直し、「どうして、」と話題を変えた。恥ずかしいところを見られて、誤魔化したかったから。
「どうして月が出てるのに、雪が降ってるんですかね」
わたしの疑問に、ダイスケさんは静かな声で答える。
「降ってるんじゃなくて、屋根とか塀の上に積もった雪が風で飛ばされてるんじゃないかな」
ああ、そういうことなんですね。
わたしがつぶやいたきり、また二人の間に静寂がやってくる。
アルバイト先の先輩であるダイスケさんの部屋に遊びに行くのは、この日が初めてだった。
ダイスケさんは、ここから少し先の木造アパートで一人暮らしをしているらしいフリーターだ。正確な年齢はわからないけれど、21歳のわたしからみて6個くらいは上に感じる。
わたしが半年前に入った、全国チェーンのスポーツ用品店で7年間働いているベテランだった。
「ここ」
立派な門構えの一軒家が立ち並ぶ道沿いに現れた、クリーム色の小さなアパートを指差してダイスケさんが言う。
わたしは何となく辺りを見渡した。青白い街灯がぼんやりと今来た道を浮かび上がらせているけれど、たぶんひとりではもう辿り着けないだろうなと思う。
「おじゃましまーす」
玄関の扉を腕で抑えながら間伸びした声を出すと、すぐ横にいるダイスケさんから「はーい」と返事があった。
中に入って扉から手を離すと、ゆっくりと外の光が閉ざされていく。「あ、真っ暗になる」と思ったところで、ぱちり、と蛍光灯のスイッチを押す音がして、視界が明るくなった。
先に靴を脱いでいたダイスケさんは「さむいー」と言いながら、右手にユニットバスの入り口人思われる扉、左手にキッチンのある廊下を進んでいく。
わたしがショートブーツのファスナーを下ろすのに手こずっている間に、突き当たりの部屋から暖房をつける音がした。その後でリュックや上着をおろす音が続く。
脱いだブーツを揃えて、ダイスケさんのいる部屋を目指す。
白い壁紙と白い電化製品に囲まれた空間で、ユニットバスのドアにかけられたフェイスタオルの青だけが鮮やかに映る。キッチンの水切りカゴには箸とマグカップだけが置かれていた。
奥の扉を開けながらもういちど、「おじゃまします」と小声で言う。
部屋の空気が肌に触れ、初めて感じたダイスケさんの匂いが、わたしの意志とは関係なく記憶に刻まれる。
「まだ部屋、あったまんないから。上着着てて」
そう言いながら青いカーテンを引くダイスケさんは、自分はいつの間にか上半身だけ部屋着になっている。灰色のクルーネックのトレーナーだ。
急いで着替えたのか、普段はワックスで立ち上げている前髪が下りていて幼くみえる。新鮮だ。「はーい」
と返事をして、リュックをどこに下ろそう、と室内を見渡す。
6畳ほどのスペースの真ん中には、少し大きめのローテーブルがあって、それを挟むようにシングルベッドとテレビが置かれていた。テレビ台の棚には、映画のDVDやCDがぎっしり詰まっている。
それ以外には本棚くらいしか物がなく、部屋全体がきちんと整頓されているからか、窮屈には感じない。
リュックを手に持ったまま迷っていると、
「ベットの上に置いていいよ」と先に言ってくれた。
廊下の冷蔵庫のほうに移動したダイスケさんから、「なんか飲む?」と声が飛んでくる。
「大丈夫ですよ」
そう言ったわたしの声は届かなかったらしく、「お茶かコーラしかないや。寒いか?」と話をすすめている。
結局、お茶をいただくことにした。
バムン、と冷蔵庫の扉が閉まる音がして、グラスを2つと、緑色と赤色の缶をひとつずつ手にしたダイスケさんが戻ってきた。
バイト先で見ているときよりも、2回りくらい大きくみえる。特に肩周りの意外なたくましさに目を奪われていると、「座ったら?」と首を傾げられた。
ダイスケさんが手に持っていた物たちをテーブルに置いて、おそらくいつもの定位置からちょっとずれたところに腰を下ろす。わたしはその隣に、適度な距離を置いて落ち着いた。
ダイスケさんはコーラを、わたしは緑茶をグラスに注いで、「じゃあ、おつかれ」と乾杯をする。
緑茶がいつもより美味しく感じて、喉が乾いていたんだなと気づかされた。
「お腹すいてる?」
「大丈夫です。ダイスケさんは?」
「うん、俺も大丈夫」
今日ここに来ることが決まったのは、ついさっきのことだった。
平日の閉店間際、店内にいたのは、午後シフトのマネージャーひとりとダイスケさん、それにわたしの3人だけだった。
普段レジ担当のわたしは、最後のお客さんが帰ったあとで、野球のスパイクの在庫確認を頼まれた。
野球コーナーへ足を運ぶと、棚と棚の間に設置された小さなカウンターで、ダイスケさんがお客さんから預かった内野用グローブの紐を交換していいるところだった。
「ダイスケさん、ハロー」
わたしが声をかけると、目線だけを一瞬こちらによこして「売り場にいるの珍しいじゃん」と言った。
「出世しました」と答えると鼻で笑われた。
あと数分であがりという解放感に包まれていたわたしは、マネージャーに渡された商品リストと棚に陳列された箱の品番を照らし合わせながら、無意識のうちに鼻歌を歌っていた。
曲は、浜田省吾の『MONEY』。
父親が彼の大ファンで、小さいころから毎日聞かされていたので、自然とわたしもファンになったのだ。
「マネー、マネー」
と歌っていると、黙々と作業をしていたダイスケさんが、突然ふふっと笑い声をたてた。
どうしたんだろう、とそちらのほうに顔をむけると、ばっちり目が合った。
「あ、聴かれてしまいましたか」
わたしが動きを止めると、ダイスケさんは
「バイト中にその曲は、なかなかロックだな」
と目を細めた。
「え、浜田省吾聴くんですか?」
ダイスケさんとの共通の好みがあるという意外な展開に、わたしは思わず前のめりになった。
「うん」と頷いて、ダイスケさんは作業をしていた手元に視線を戻す。
「『ON THE ROAD "FILMS"』のDVD、持ってるよ」
ダイスケさんの言葉に、わたしは更にテンションが上がる。
「ほんとですか!あのライブ、少しだけYouTubeに公開されてて。めちゃめちゃかっこいいですよね!」
わたしの熱量をさらりと受け止めて、「うん、かっこいい」とダイスケさんは微笑む。
わたしが「いいなー、いいなー」と連呼して身体を揺らしていると、「DVD貸そうか?」とダイスケさんが提案してくれた。
「え、いいんですか?」
すかさずわたしは聞き返す。
「言わなきゃいけない雰囲気出したでしょ」
とダイスケさんは笑ってくれた。
いつも以上に砕けた雰囲気が漂い、それに気をよくしたわたしは、もう一段上のお願いを思いついてしまった。
一瞬口に出すか迷って、結局、両手で抱えていたスパイクの箱に向かって言った。
「どうせなら一緒に観たいです、けど」
現実には1、2秒だったのだろうけれど、わたしには5分くらいに感じる沈黙があり、やっぱ言わなきゃよかったな、と後悔し始めたところで、
「いいよ」と、ダイスケさんはあっさり言った。
「この後、うち来る?」とも。
想定外の答えに、わたしは言葉を失った。
冗談です、そんなつもりじゃなかったんです、と訂正するタイミングも逃して、気がつけば、
「ありがとうございます」
と気をつけ、礼をしていた。
何かよくないことが起きたらどうしよう、と一瞬不安がよぎったけれど、紐交換を終えたグローブを、頼まれたわけでもないのに丁寧に磨き上げているダイスケさんを見ていたら、彼を疑うわたしの心の方がよっぽど良くないもののように思えてきて、「神様そこにいるならばどうかわたしを見守っていてください」と天を仰いだ。
「あー、うまっ」
あっという間にグラスを空っぽにして、ダイスケさんが太い声を出す。
「いい飲みっぷりですね」と言おうとして、ふと思い出す。
以前、別の先輩が
「ダイスケさんって飲み会とか誘っても滅多に来てくれないんだよね」
と不満半分、諦め半分に言っていたのだ。
確かに、ダイスケさんは人当たりがいいのにも関わらず、もう一歩踏み込ませてくれないところがある。
踏み込まれたくない、と相手を拒絶するのではなく、こっちに来ても何もないよ、と諭すような感じ。だから余計に周りにいる人間は踏み込めなくなる。
ダイスケさんがわざとそうしているのか、天然でやっているのかは定かではない。
でも、それはかなり徹底的で、ダイスケさんのバックグラウンドについては「いい大学出てるっぽいよ」という噂しか耳にしたことがなかった。
そう考えるとわたしは今、とても貴重な、ダイスケさんの"隙"を訪れているのかもしれない。「ダイスケさんて、お酒飲まないんですか?」
わたしが単純に気になって訊ねると、
「いや?飲むよ」と逆に不思議そうな顔をされた。
「いつも、一人で飲んでるんですか?」
「まあ、大体そうだね」
「今日は、飲まないんですか?」
「紬さんが帰ったら飲むよ」
ツムギサン、と自分の名前が突然耳に入ってきてはっとする。初めてダイスケさんの声に呼ばれた。
苗字じゃなくて下の名前なんだ、でも"さん"付けなんだ、と思う。
それからその後に続いた言葉の意味を理解して、やっぱりわたしが想像したようなよくないことは起こりそうもないな、と信頼感を覚える。
「バイト先の飲み会、参加しないって聞きましたけど」
わたしが重ねて訊くと、ダイスケさんは、
「うーん、それは、」と珍しく言い淀んだ。
会話の空白を誤魔化すように、コーラの残りをグラスに注ぐ。炭酸の勢いが衰えたコーラは、申し訳程度にサワサワと音を立てる。
空になった缶のふちをグラスにぶつけて変なリズムを取りながら、「それは、あれだよ」と続ける。
「みんなと仲良くなったら、バイト、やめづらくなっちゃうだろ」
そう言い切った横顔からは何の感情も読み取れない。冗談なのか本気なのか、判断がつかなくて反応が鈍る。
「俺、意外と情に流されやすいからさ」
と、今度は軽口をたたくときの声色で言う。
「あんまり意外じゃないですよ」
わたしがそう言うと、ダイスケさんは大袈裟に肩をすくめてみせた。
「ていうか、やめちゃうんですか、バイト」
わたしが話を戻すと、ダイスケさんはテレビのリモコンに手を伸ばしながら、「まあ、いつかはね」と言う。
なんだ、すぐにいなくなっちゃう訳じゃないんだ、と安心する。
でもきっとそれは、ダイスケさんにしかわからないタイミングで、ダイスケさんにしかわからない条件が揃ったら、何も言わずにいなくなってしまうということなのだろうな、とも思う。
ダイスケさんは、心のなかに宿ったもの、例えば喜怒哀楽や愛着や親しみといったものを、躊躇せずに捨てていけるひとなんだ。
こっちに来ても何もないよ、と独りで涼しい顔をしているのは、そういうところに原因があるのかもしれない。
「わたしがやめるまではいてくださいね」
と冗談めかして本心を伝えると、
「気が向いたらな」といなされた。
ダイスケさんがテレビの電源を入れると、ちょうど、わたしの好きなバラエティ番組をやっていた。
スタッフが、夜の東京のまちで道行く人に声をかけ、承諾してくれた人の自宅について行き、彼らの人生について取材するというようなやつだ。
「今日水曜か」とダイスケさんが呟く。
「おもしろいですよね、この番組」
わたしが言うと、ダイスケさんはリモコンをテーブルの上に置いた。
その日取材を受けていたのは、「死にたいですよ」が口癖のおじさんだった。痩身で、上下灰色の作業着に身を包み、濁ったレンズのメガネをかけた彼は、この世の疲労をすべて染み込ませたような浅黒い肌をしていた。
おじさんは、帰宅途中にコンビニで買ったらしいビールを、散らかったダイニングテーブルで、ひとり飲んでいる。
「美味しいですか?」と訊ねられて、
「うまいね。でも、死にたいよ」と答える。
しばらく、黙ってビールをすする画が続く。
カットが入って、「昨日、宝くじ当たったんだ」とおじさんがぽつりと呟いた。
「え、いくら当たったんですか?」とスタッフ。
おじさんは右手の人差し指を立てて見せる。爪が割れている。
「千円?」と訊かれて首を横に振る。「え、一万円ですか?すごいじゃないですか」と驚くスタッフに、おじさんは歯を見せて笑う。
「嬉しかったですか?」
スタッフが再び訊ねると、おじさんはうんうんと首を揺らしたあとで、「あー、死にたい」と穏やかな目をした。
わたしはその場面に、思わず笑みがこぼれた。
ワイプで抜かれていた芸能人も笑っていた。
おじさんは、決して笑われているのではない。みんな彼のことがたまらなく好きだ、という気持ちなのだ。
緑茶を飲むフリをして隣を盗み見ると、ダイスケさんの瞳がただテレビの光を反射して、ゆらゆらと揺れていた。
「なんで人間って、死んじゃいけないんですかね」
愛すべきわたしたちのおじさんを見ていたらそんな思いが浮かんできて、それがそのまま口からこぼれ落ちた。
ダイスケさんは横目でこちらをみて、すぐにテレビのほうに視線を戻す。
独り言になって終わるかと思ったら、答えが返ってきた。
「生きてればいつでも死ねるけど、死んだら生き返れないから」
ダイスケさんの平坦な声が、解釈の余地のない文章を世界に放り投げる。
「それは、いわゆる正論ってやつですね」
ダイスケさんの声のトーンに合わせると、やんわりと批判するような雰囲気になってしまった。そんなつもりはなかったけれど、取り繕うのもなんか違うなと、ダイスケさんの反応を窺う。
「確かに、正論は大概通用しないな。特にクレーマーには」とダイスケさんは笑った。
それから、微笑みの余韻を残したままで言う。
「でも、あれは嘘だと思うな。"あなたが死んだら悲しむ人がいるんだから、死んじゃだめだよ"ってやつ」
「どうしてですか?」とわたしは訊ねる。
「もしそうだとしたら、さ。ひとりぼっちの人間は掬われないだろ」
ダイスケさんは丁寧に言葉を選び、重ねた。
「まあ、でもいちばんは、誰かを悲しませたくて死ぬやつなんていないから、だけど」
「なるほど」とわたしは頷く。
ダイスケさんの言う通り、どうして死んじゃいけないのか、という問いへの答えが全員を"掬う"ためには、ただ剥き出しの存在でしかなくなった自分が、自分に対して「死ぬな」といえる理由がなくちゃいけないのかもしれない。
会話がどちらのターンでもなくなって、沈黙が落ちてくる。
ダイスケさんがグラスを持ち上げて、コーラを喉へ流し込む。わたしも釣られて緑茶を口に含んだ。
「ダイスケさんって、結婚とか就職とか、考えたことないんですか?」
緑茶を飲み下しながら訊いてみる。
不躾な質問かもしれないけれど、ごくふつうの世間話という体で。
「んーー、なくはないね、」
ダイスケさんはテーブルに置いたグラスを掴んだまま、傾けたり覗き込んだりしながら答える。
「でも今は、そういうのはいいかなって思ってる。全部、いらないなって」
ふうん、とわたしは相槌を打つ。
相変わらずダイスケさんの横顔は、心の中の動きを何も伝えてはくれない。
「どうしてそう思うんです?」
そう訊ねると、ダイスケさんは唇を引き結んで、じっとわたしの目を見た。
答えたくない、という意思表示だというのは分かったけれど、あえて分かっていないフリをした。
この一瞬の根比べに勝ったのはわたしだった。
「バイトと同じだよ」と、ダイスケさんは小さく息を吐く。
「大切なものとか、やりがいとか背負っちゃったら、辞められなくなるだろ」
「人生を、ですか?」
「そう」とダイスケさんは潔く認める。
「俺が明日も生きようって思う秘訣は、いつでも死ねるしって思うことなの」
ダイスケさんは軽い調子で言いながら、立ち上がる。
わたしの後ろを通って、キッチンの方へ行ってしまう。
冷蔵庫を開いて閉じる音がして、何かしらの戸棚を開いて閉じる音もした。
戻ってきたダイスケさんは、緑茶の缶をふたつと、ポテトチップスの袋を手に持っていた。
「これ、開けて。食べていいよ」
と先にポテチだけをわたしに手渡す。
言われるがままに袋を開封し、背中の部分を開いてテーブルの真ん中に置く。
ダイスケさんはキッチンの電気を消したあとで、またわたしの後ろを通ってもとの場所に戻り、テーブルの上に緑茶の缶を置く。
ダイスケさんが腰を下ろそうと前屈みになると、着ていたトレーナーの襟がたわんで、胸元が見えた。
顔を逸らす間もなく、喉元から鎖骨の下あたりまでが視界に入ってしまう。
そのとき初めて、わたしはダイスケさんのそれを目にした。
鎖骨と鎖骨の隙間の、少し上辺りにある赤い傷。
横に一筋、5cmくらいのものだ。
わたしは咄嗟に視線を逸らした。
一昨年亡くなった祖父も、同じ傷を持っていたから知っている。あれは、気管を切り開いて閉じた痕だ。
そういえばバイト中、ダイスケさんは必ずハイネックのアンダーウェアを着て、その上に制服のポロシャツを重ねていた。だから今まで、気が付かなかったのだ。いや、わざと隠していたのか。
ダイスケさんは腰を下ろして片手で緑茶の缶をあけ、中身をグラスに注いでいる。トレーナーの襟も元の位置に戻って、傷痕は見えなくなる。
このまま、何も見なかったことにしてやり過ごすことも出来なくはなかったけれど、わたしはそうしなかった。理由はよく分からない。強いて言うなら、相手がダイスケさんだったからだ。
「ダイスケさん。見ちゃいました」
わたしが言うと、ポテチを2枚咥えていたダイスケさんは「ん?」とこちらを向く。
わたしが喉元に手をやると、「ああ」と困ったように笑った。
しかしすぐにその複雑な表情は消え去って、「そうか、見られちゃったか」と、頬に余裕を浮かべている。
サクサクといい音をたてて、ポテチがダイスケさんの体内に消える。
「すみません」と口にすると、ダイスケさんはしっかりわたしの目を見て、瞼で頷いた。
「大変、だったんですね」
どんな反応をすればよいか分からず、何も知らないくせに、そんなことを言ってしまう。
「まあね、現実は容赦ない」
とダイスケさんは優しいトーンで受け止めてくれる。
そして、
「死ぬときは、死ぬ。」
そう付け足した。
不思議なことに、このときわたしは、初めてダイスケさんの本音を聞いた、という感覚になった。
もちろん、今までの言葉が嘘だったとは思っていない。でも、この言葉は特別に、ダイスケさんの心の最も深い場所と繋がっているような感じがした。
そうか。ダイスケさんにとって、死は、ただの現実なんだ。美談の材料でも、神秘体験の源でも、愛を語る道具でもない。
わたしが軽い気持ちで口にした将来の生活なんかよりもずっと、死のほうが、ダイスケさんにとってはリアルなのかもしれない。
でも、そうだとしても、だ。
わたしはダイスケさんに言う。
「ひとりで勝手に割り切らないでください」
幼稚かもしれないけれど、わたしはまだ、生きている側からしか語ることができない。
「ダイスケさんがいなくなって悲しむ人は、ダイスケさんがいなくなった世界を、そういうものだって納得できるとは限らないと思います」
その傷痕だってきっと、ダイスケさんがいなくなった世界を恐れている誰かが、ダイスケさんに「死ぬな」と言った証拠だ。「生きろ」といった現実だ。
わたしの言葉を聴いて、ダイスケさんはゆるりと笑った。
それから、駄々をこねる子どもを説得するかのように、わたしに言い聞かせる。
「もし俺が、明日死んだとして。俺なんて初めから存在してなかったみたいに、その人たちの人生が続いていくことが、俺の理想なの」
その声や表情に、見栄や強がりは少しも含まれていなかった。
"誰かを悲しませたくて死ぬやつなんていない"
さっきダイスケさんが言った言葉が頭に浮かんでくる。
その本当の意味を、今ようやく理解できた気がした。
ダイスケさんは、死にたいと言っているわけではない。
人一倍、誰かに大切にされるということも、誰かを大切にするということも知っている。
知ったうえで、ただ真っすぐに見つめているのだ。
一切の事情を無慈悲にはね返してやってくる、〈現実〉としかいいようのない”死”を。
わたしは一瞬、無力感に襲われて絶望する。
そうならば、この世界にいる誰一人として、ダイスケさんを否定することはできないのだろう。「じゃあ、」とわたしは口を開く。
否定できないのなら、肯定するしかないじゃないか。
「ダイスケさんが死ぬときは、わたしが『死んでいいよ』って言ってあげます。わたしが全てを懸けて、受け容れてみせます」
この世界に残される人たちが抱える寂しさも、ダイスケさんの孤独な優しさも、全て。
ダイスケさんみたいに淡々として聞こえるように精一杯努力したけれど、実際には強がりも見栄もパンパンに詰まった言葉たち。
それを聞いたダイスケさんは、ポテチを口に放り込み、咀嚼して飲み込んだあとで、
「それは、俺の"死に場所"になるっていうこと?」
と、相変わらず幼い子どもを宥めるような言い方で訊いてくる。
わたしは構わず、「はい」と頷く。
だって、その場所でいつでも死ねるダイスケさんは、ここじゃないどこかに行っても、明日を生きてみようと思うはずだから。ダイスケさんが、そう言ったから。
「ダメですかね」
わたしは平静を装って訊ねる。本当は、今度こそダイスケさんを心底呆れさせてしまうのではないかと、気が気ではなかった。
ダイスケさんは「んーーーーー」と空中を見つめる。
わたしを傷つけないように突き放す方法を、考えているのかもしれない。
やがて、その視線はテーブルの上に着地する。
数回の瞬きのあとで、すうっと、息を吸い込む気配。
形のいい唇がふわりと開く。
「ダメ、じゃないのかも」
ダイスケさんは、自分にいい聞かせるみたいに言った。
そんな答えが返ってくるとは露ほども思っていなかったわたしは、困惑して「へえ」とも「ええ」ともつかない感嘆の声を出した。笑ってみるけれど頬が引き攣る。
おそらくわたしは今、日本で一番情けない表情をしている。
そんなわたしを他所に、ダイスケさんは「そういえば」と別の話題に移ろうとしている。
情けない顔のまま、わたしは首を傾げる。
「バイト先で初めて紬さんを見たとき、風みたいな子が入ってきたなって思ったんだ」
「風、ですか?」とわたしは訊き返す。
「うん。風というか、流れというか。とにかくここにある空気をいい方向に変えてくれそうなもの」
褒められているんだと気がつくと途端に照れ臭くなって、「急にどうしたんですか?」とぞんざいに言ってしまう。
「いや、別に。そうだったなあって、今思い出しただけだよ」
ダイスケさんはさらさらと笑う。
それを見ていたら、何だかわたしもほっとして、顔が綻ぶのが自分でわかった。
「じゃあ、まあ、そういうことで」
和やかな雰囲気を断ち切るように、突然ダイスケさんが立ち上がる。
何事かとわたしが見上げると、「いい加減、DVD見始めようぜ」と苦笑いを浮かべた。
「あ、忘れかけてました!見ましょう!」
わたしが威勢よく応じると、ダイスケさんは「よっしゃ」とDVDを再生する準備を始めた。
その背中をみながら、わたしは予感する。
この、ロックスターのDVDを見終わったら。
ライブの熱と余韻のせいにして、わたしたちは今日話したことを全部、忘れたことにするんだろう。
次もその次も、何もなかったかのようにバイト先で顔を合わせて、時々軽口をたたく。
そうやって、始まりの兆しも終わりのキッカケも通らないところで、ふたりの間柄をやり過ごしていくのだ。
少し切ないけれど、同時にそれを幸せなことだと思っているわたしは、ちょっとだけダイスケさんの価値観に近づけたのかもしれない。
「さ、心の準備はいいですか?」
ダイスケさんが振り返って言う。
わたしは「オッケーです」と大きく頷いた。
(了)
最後まで読んでくださりありがとうございました!
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