【小説】月の糸(第10話)
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部屋へ続く扉を開けると、正面に壁のほうを向けて並べられた、ふたつの勉強机が目に入る。一つは風太郎のものだ。物心がついたときから二人並んで座っていた。どうやってもあいつの気配を感じてしまうんだなと思い、苦笑する。
智也は右側に置かれた自分の机に腰をおろすと、カバンからノートパソコンを取り出した。パソコンを立ち上げ、ブルーアスターを開いてログインする。ホーム画面に智也のアバターが現れる。上下ともに初期設定のまま、無地の洋服を身に着けている。飾り気がないのは、現実の智也と同じだ。
マウスを動かしホーム画面をクリックすると、スマートフォンのアプリと同じくアバターを囲むように二つの地球が現れる。智也は〈Private〉と表示されたほうの地球をクリックする。画面が二、三秒暗くなり、次の場面で智也のアバターはビル群の真ん中に立っていた。町を飾るアイテムもない、訪れてくるアバターもいない、空っぽの都市だ。
画面の左側には、過去にプライベートワールドのⅠⅮを交換したことがあるアバターの顔が、縦一列に表示されている。アイコンの上にカーソルを合わせると、斜め下にアカウント名が出てくるようになっていた。
一番上は鷲田、二番目が風太郎、そして三番目は華菜子だ。
マウスに乗せた指先が微かに震えるが、気づかないフリをして右手の人差し指を二度、弾ませる。招待ⅠⅮの入力を求められる。彼女がくれた十桁の番号は、頭のなかにまだ残っていた。数字を入力し、エンターキーを押す。再び画面が暗くなり、〈Loading〉の表示とともに光の輪がぐるぐると回る。
夜が明けるように画面が切り替わり、智也のアバターはまた、ビル群に囲まれた大きな道路の真ん中に立っていた。
頭上には抜けるような青空が広がっている。ブルーアスターの仮想空間では、雨は降らないし夜も来ない。どこの誰のワールドにいても、晴れているのは当たり前だ。分かっていてもなぜか、自分のワールドにログインしたときよりも歓迎されているような気分になる。空色が、あの子の色だからだろうか。
智也のワールドとの違いは、空だけではなかった。道路の脇には街路樹や花壇など、華菜子が集めたアイテムがたくさん並べられている。華菜子がこつこつと作り上げてきた世界は、鷲田とともによく訪れていたときと変わらず、鮮やかな色で溢れていた。
ぽわん、と通知音が鳴り、画面の中央に〈ホストはログインしていません。〉というメッセージが表示される。華菜子のアバターが、この世界にはいないということだ。「わかってる」と独り言をつぶやいて、メッセージを消す。
智也は自分のアバターにカーソルを合わせると、左ボタンを長押ししながらマウスを動かした。そうするとアバターの身体の向きが変わり、それに合わせてワールドの見える範囲も変わる。円を描くようにマウスを動かすと、辺りをぐるりと見渡すようにすることができる。智也がゆっくりとアバターを反時計回りに回転させていくと、ログインしたときに向いていた方のちょうど背中側に、あるアイテムが置かれているのを見つけた。
それは、一本のひまわりだった。
道路の真ん中に不自然に置かれたその花は、片づけるのを忘れて取り残されているように見えた。華菜子がどこか別の場所に移動させようとして、そのままになってしまったのだろうか。
「元気ですか? 智也さん」
ふいに、電話越しに聞いた華菜子の声が、鮮明に蘇ってきた。
智也はアバターを操作して、ひまわりに近づいた。思ったよりも背の高いひまわりで、見上げるようにしなければ大輪の花を視界に入れることはできない。そのまま、左手のほうへ視点をやる。そこで思わず、「あ」と声を漏らした。
その場から少し離れたところにもうひとつ、ひまわりが生えていたからだ。その奥にも一本、ひまわりが見えている。智也は吸い寄せられるように、それらのひまわりのほうへ進んだ。奥のひまわりにたどり着くと、今度はそこから右手のほうにひまわりが見える。
これが華菜子の残した仕掛けだったのだと気が付いたのは、点々と咲くひまわりを辿るうちに、白い砂浜の光る海辺に着いたところだった。海はビル群の裏手に、身を隠すようにひっそりと存在していた。こんな場所があるなんて、知らなかった。
突然現れた海と同じくらいに智也を驚かせたのは、目の前の砂浜を覆いつくすように広がる、ひまわり畑だった。
智也を導くように植えられていたあのひまわりたちは、鷲田とともによくこのワールドに訪れていたころには見たことがなかった。華菜子のワールドに来なくなったのは、華菜子が智也たちのいるフロアを離れ、ひとりで強力な治療を受けるようになってからだ。おそらくその期間に、華菜子はここにこんなにもたくさんのひまわりを植えていたのだ。
ひまわり畑を創っているとき、現実世界の華菜子はどうしていたのだろう。強い薬の激しい副作用に襲われて、辛かっただろうか。副作用を和らげる薬の影響と体力の低下で、なんとか意識を保っていたのかもしれない。いずれにせよ、これを完成させるのに智也の想像など到底及ばないほど苦しい思いをしていたことには違いない。
智也はひまわり畑のなかで、いちばん側にある花に歩み寄った。
「いち」と声に出してカウントする。一歩進んで、その隣にあるひまわりの側で「に」、また一歩進み「さん」と声に出す。ここにあるひまわりをすべて数えなければならない。智也はそんな使命感に駆られていた。「四、五、六」と声に出しては一歩進み、を繰り返す。
七、八、九、
十、十一、十二……
いつしか智也は作業に夢中になり、本物のひまわり畑へ迷い込んだような気持ちになっていた。頭のなかに、再び華菜子の声が響く。
「ひまわりの花言葉、調べてくれましたか?」
智也が退院して一か月が過ぎたころ、病室から電話をかけてきた彼女はそう訊ねてきた。智也はどうしてか、正直に返事をすることが気恥ずかしくなってしまいお茶を濁した。当然華菜子は調べていないのだと理解したが、それでも笑って見逃してくれた。
あの日にした会話のすべてが、昨日のことのように思い出される。華菜子は、掠れた吐息混じりの声だった。
「智也さん、もうひとつ、訊いてもいいですか?」
「うん」
「智也さんは、生まれ変わりって、あると思いますか?」
「……うーん、どうだろう。わからない、かな」
「へえ、意外ですね。智也さんは、ないって言うかと思った」
「俺、そんなに冷酷そうかな」
「はい。目に見えないものは、信じないタイプだと思ってました」
「そんなことはないよ。だって、目に見えないからないって否定するのは、あり得ないかもしれないけど信じてみようって決意するよりも、簡単なんじゃないかって思うから」
「ストイックだなあ」
「そんなことはないと思うけど」
「じゃあ、わたしも信じてみようかな。生まれ変わり」
「まあ、信じてみなきゃなにも始まらないし」
「そうかもしれないですね」
「生まれ変わりとはちょっと違うけど、俺も、縁なら信じてる」
「縁、ですか」
「うん。たとえ離れ離れになっても、会うべきひとにはまた自然と会えるだろうって、直感的に思うんだ」
「へえ。なんか、超能力みたいですね」
「縁だってば」
「……智也さん?」
「ん?」
「わたしたちは、また、会えますかね?」
「……また必ず会おうって、あの日に約束した」
「わたし、ずっと考えていることがあって」
「うん?」
「わたしが、死んじゃったとして」
「……うん」
「わたしがいなくなったあとも、わたしなんて元々いなかったみたいに、普通に、みんなの生活が続いて行ってくれたらいいなって思うんです」
「うん」
「わたしが死んだせいで、わたしのことを大切にしてくれた人たちが辛い思いをしたり、後悔したりしてほしくない」
「うん……」
無限に広がっているように思えた海辺のひまわり畑にも、終わりが近づいていた。
九八七、九八八、九八九、九九〇、……、とうとう、最後の一本にたどり着く。
「だって、こんなに幸せに生きて来られたんですよ、わたし」
あの日、華菜子は晴れやかな声色で言い切った。
大丈夫、わかってるよ。
華菜子が口に出した〈幸せ〉は、無邪気に死を他人事と思うことのできる人々からすれば強がりに聞こえてしまうかもしれない。同情を誘うことすらあるかもしれない。でも、決してそうではない。そうではないから、彼女はここにこの花たちを植えていった。自分が置かれた状況のなかで、残される人々のためになにができるだろうと、それだけを懸命に思い続けていた。それが、彼女が自身の〈幸せ〉を証明する術だったからだ。智也はずっと、わかっていたはずだった。
それなのに。
今の俺は、どうなんだ。
智也は自分自身に問いかけた。
今の俺は、失くしたことばかりに気をとられ、絶望に打ちひしがれたまま毎日をやり過ごしている。それこそ、華菜子が最も避けたかったことではないのか。華菜子の願いを、彼女と共に生きたあの日々を、裏切ってしまうことなのではないか。智也はパソコンの前で頭を抱えた。言葉にならない感情が、激しい濁流となって喉元に湧き上がってきていた。気が付けば、次から次へと涙が零れ落ちていた。智也の体温を宿した雫が、頬や机を容赦なく濡らした。
そこにパソコンが再び、ぽわん、と間の抜けた機械音を発した。
顔をあげると、スリープモードになった画面に、ブルーアスターのチャットが届いたことを知らせるバナーが表示されていた。智也は手のひらで涙を拭うと、バナーに目を凝らした。チャットの送り主のアイコンには見覚えがない。ということは、たまたま華菜子のワールドへ同時に訪れていた、智也の知らない誰かだ。直接IDを知らないもの同士でも、こうして共通の知人がいるとワールドの中では会話をすることができる。
〈華菜子の知り合いですか?〉
初対面にしてはぶっきらぼうなメッセージだなと思う。バナーをクリックすると、スリープモードが解除され、智也のアバターの姿が映し出される。背後にはひまわり畑が広がっており、隣にはやはり見たことのないアバターが立っている。金髪のショートヘアに大きめのパーカー、タイトなジーンズと派手なスニーカーを身に着けていた。
智也は昂った感情のまま、まだぼんやりとした頭で〈知り合いというか、華菜子ちゃんと同じ病院に入院していた者なんだ〉と返信をした。
〈へえ、そうなんだ〉とすぐに返ってくる。
〈君は、華菜子さんの友達?〉
今度は智也が質問をする。
相手が文章を入力している間、微笑みを浮かべたままのアバターが動かずにこちらを見つめてくる。少しシュールだ。興奮が少しずつおさまってくる。
〈華菜子と一緒に音楽をやってたの〉と答えが返ってくる。
そこで智也は、華菜子と初めて会ったときに交わした会話を思い出した。彼女は高校で軽音部に所属し、バンドを組んでいた。そのバンドでベースを担当しているメンバーがとてもいい曲をつくること、その曲を届けるためにこのバンドが存在しているということ、だから早く元気になって学校に行きたいのだということを、彼女はきらきらした瞳で語っていた。
いまここにいるこの子が、そのベーシストなのだと智也は直感的に理解した。
〈華菜子さん、本当にバンドが大好きだったよ〉
〈そんなこと、知ってる〉
〈ああ、そうだよな〉
智也は不用意な発言を恥じた。この子が華菜子と過ごした時間は、智也とは比べ物にならないほど長くて、濃いに決まっている。
〈華菜子がいなければ、わたしはとっくに学校をやめてたと思う〉
〈そうなんだ?〉
〈うん。わたしは言葉で気持ちを伝えるのがすごく下手で。でも、華菜子だけはいつもわかってくれた。それだけじゃない。音楽で伝えれば、華菜子以外のみんなとも繋がれるんだって、あの子が教えてくれた〉
〈君が一生懸命に伝えようとしたから、華菜子ちゃんも一緒にやりたいって思ったんじゃないかな〉
〈そう、なのかな〉
〈たぶんね〉
〈もしも華菜子がいなくなったら、どんな感じだろうってずっと想像してた。すごく悲しいかなとか、また学校に行きたくなくなっちゃうのかな、とか〉
〈うん?〉
〈でも実際は、どっちでもなかった。もちろん、寂しくなることはあるし、それはしょうがないことだなって思うんだけど、それよりも、ただありがとうって、それ以外の言葉で表しようがない気持ちでいっぱいになったの〉
このベーシストの思いを目にした瞬間、智也の中ですべてが腑に落ちていくような感じがした。ああ。そうだったのか。
華菜子や智也、鷲田の身体に突然巣くったあの病気は、苦しみや痛みをたくさんもたらした。どうして自分がこんな目に遭うのだろうと考えても答えは出ず、最終的にはこれが運命なのだと納得するしかなかった。生きたければ、この運命を乗り越える他に道はない。そうでなければ、運命の前で絶望することになる。闘うか、跪くか。運命という得体の知れない強大な流れと対峙して、人間にとれる選択肢はその二つしかない。智也はそう思いこんでいた。だからずっと、苦しくて不安でどうしようもなかったのだ。
しかし、華菜子は違っていた。彼女は、運命とどう向き合うかと問い続けるなかで、もうひとつの選択肢を見つけ出した。
それは、己の運命を心から愛するという選択だ。運命とは立ち向かうべき相手ではなく、一生を一緒に歩んで行く相棒なのだ。はじめから、華菜子や智也が背負ったこの運命の中に、悪者は誰一人としていなかったのだから。いずれにしろ逃れられないのなら、直面した瞬間は辛くても、決して恨むことなく、徐々に受け入れることができればそれでいい。
ベーシストの彼女に宿っている「ありがとう」が、華菜子がそうやって運命を生き抜いたことを証明してくれたような気がした。華菜子の幸せな人生を理解している人が、ここにもいる。その事実が、この上もない安らぎを智也に与えてくれた。
〈ここにはよく来るの?〉智也が訊ねる。
〈うん。華菜子がいなくなっちゃってから、毎日〉
〈そっか〉
〈華菜子、ひまわりが好きだったのかな。知らなかったな〉
〈それもあると思うけど、たぶん、ここに来るひとたちに、花言葉を贈りたかったんじゃないかな〉
〈花言葉?〉
〈うん。ひまわりを誰かに贈るときは、贈る本数によって伝えたいメッセージが変わるって、前に彼女が言ってたから〉
〈そうなんだ。これ、何本あるんだろう〉
〈数えてみるといいよ〉
そこで、華菜子の親友からの返信は来なくなった。
智也はアバターを海辺から少し離れたところに移動させ、あらためて砂浜に広がる壮大なひまわり畑を見渡した。ここに咲いていたひまわりは、九九三本。加えてビル群から海辺へ導くためのひまわりが六本あった。全部で九九九本のひまわりを、華菜子はこの世界に残して行ったことになる。
ひまわり九九九本、その花言葉は。
何度生まれ変わってもあなたたちを愛す―。
第11話へ続く
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