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【小説】月の糸(第6話)

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 いつの間にか、病院のエントランスに巨大なクリスマスツリーが飾られていた。まだ外来の患者がやってくるには早い時間で、待合スペースは閑散としていた。誰に見られるわけでもなく点滅を繰り返す電飾の健気さが、その場の静けさを際立たせる。
 智也は院内のコンビニを目指して歩いていた。治療は、四クール目の終盤に差し掛かっている。体調は優れていた。点滴台を持たなくていいからとても身軽だ。
 コンビニでペットボトルのお茶と漫画雑誌を買って出ると、廊下の一角に設置された飲食スペースに鷲田がいた。鷲田とは相変わらず同じ部屋だった。そういえば今朝は病棟で彼の姿を見かけていなかった。ここにいたのか。
「おはようございます」
 智也が声をかけると、壁にかけてあるテレビを見上げていた鷲田は「おお、尾崎か」とこちらを横目で一瞥した。テレビ番組がコマーシャルに入ると、「あれ、見たか?」とエントランスのほうを指さす。クリスマスツリーのことを言っているらしい。
「見ました。あんなに大きいの、普段はどこにしまってあるんですかね」
「お前、その感想は変だぞ。変人だ」
「鷲田さんに変人呼ばわりされる日がくるなんて」
「普通はさ、『もうそんな時期か』とか言うもんなんだよ。そしたら『本当だね』って話が膨らむだろ。誰がツリーが収納できる倉庫の話なんかしたいんだよ。どうでもいいだろ」
「もうそんな時期なんですね」
 鷲田が呆れたような視線を寄越す。軽口を言い合う時間が終わって、少しの間沈黙が流れる。お互いが次に切り出すべき話題を譲り合っている気配がする。
 結局、先に口を開いたのは鷲田だった。
「どうしてるだろうな、華菜子ちゃん」
 鷲田の声が、ぽとりと足元に落っこちる。智也はそれを目で追いかけるように下を向いた。
 華菜子が一時退院を終えて「あっち側」へ入院してから、すでに一か月と一週間が過ぎていた。彼女の治療が始まるまでは、ほぼ毎日、ブルーアスターの誰かのワールドに集まって三人で連絡をとっていた。しかし、華菜子の治療が本格化し、副作用が強く表れはじめた時期から、彼女がチャットに入ってくる頻度が大きく減った。鷲田と智也の二人ならば、病室やラウンジで直接話ができるし、華菜子が通知や返信を負担に感じては気の毒だろうという思いから、あまりチャットを開かなくなった。ここ最近は一週間に一度程度、華菜子から一方的に、毎日輸血をしているとか薬が増えたとか、最低限の近況報告が届くだけだ。それだって、時間をかけてやっとの思いで打っているのかもしれない。それくらい体調が悪化していても何ら不思議ではない。彼女がいま受けているのは、それほどつらい治療だ。外にいる人間はただ、治療がうまくいくことを祈る他にない。
 コマーシャルが明け、鷲田が再びテレビを見上げる。智也もつられて液晶画面を見上げた。放送されているのは朝の情報番組だった。いきなり【訃報】というテロップが流れてきて、反射的に身構える。テロップと同時に、険しい表情をしたアナウンサーの姿が映し出される。
「昨日午後三時ごろ、俳優の万条目しずるさんが、東京都の自宅で首を吊った状態で発見されていたことが分かりました。万条目さんはその後病院に搬送されましたが、間もなく死亡が確認されたということです。現場からは遺書のようなものが見つかっており、警察は、万条目さんが自殺を図った可能性もあるとみて、捜査を進めています」
 智也は思わず「えっ」と声を漏らしていた。
報道されていたのは、智也と同年代で、近頃映画など多くの作品に出演していた、二枚目の俳優だった。テレビドラマが好きな風太郎に付き合って智也もテレビを眺めていたため、勝手に身近な存在に感じていた。番組の宣伝でバラエティーに出た時にも、寡黙で冷徹な役の多いイメージとは対照的に、謙虚で気取らない、柔らかな人柄がとても好印象だった。
「なんだ尾崎、知らなかったのか。昨日の夜からネットニュースとかで相当話題になってたぞ」
「そうだったんですか。全然、知りませんでした」
 情報番組は続けて、このニュースに関する「まちの声」を流す。彼の訃報を知らされた人々が一様に驚き、無念さや悲しみを吐露する。熱心なファンだったのか、その場で泣き出す女性もいた。智也は、それを何とも言えない気持ちで眺めていた。
「俺、この人のこと結構好きだったんだけどな」   鷲田が言う。
「俺もです」
 智也が同意すると、鷲田は感情を押し殺した静かな声で言った。
「どうせ死ぬんだったら、あの子と代わってやってくれればよかったのに。病気なんて全部、持って行ってやって欲しかった」
 智也は苦い思いで鷲田の横顔を見た。瞳のなかに閉じ込められた怒りや落胆が、今にも溢れそうになって揺れていた。鷲田の言いたいことは、よくわかる。痛いほどわかる。でも、だからと言って、軽々しくその言葉を認めることはできなかった。やるせなさが重くのしかかってくる。
「彼は、そういうつもりで死んだわけじゃないと思います」鷲田のことを否定していると思われないよう、細心の注意を払って気持ちを吐きだす。「華菜子さんもきっと、そういうことは、望まない気がしませんか」
「確かに、それはそうかもしれねーけど」と鷲田は腕を組む。「こうやって生きようとして闘っている人間がいるのと地続きのところで、しかも同じ時間に、自分から命を捨てなきゃならない人間がいるなんて、納得できねーよ」
 智也は否定も肯定もできずに固まった。
「鷲田さんは、考えませんでした?」
「何を?」
「病気を宣告されたとき、自分が死んだらどうなるんだろうって」
「そりゃあ、考えたよ」
「だったら、自分の死を人よりも少し身近に感じたことがある俺たちだからこそ、わかってあげなきゃいけないと思うんですよ」
「何をだよ」
「誰かを悲しませたくて死ぬ人間なんて、一人もいないってことを、です」
 知らず知らずのうちに、智也の声には力がこもっていた。「俺たちの場合と、自殺してしまう場合とは、また違った問題かもしれないですけど」と前置きをして続ける。
「それでも、人はみんな、頭ごなしに死を拒否しすぎているんじゃないかと思うんです。死を受け入れることで、なにかそれに救われて、生きることが少し楽になるような瞬間って、あるような気がするんですよ。それに、たとえ生きる気力を失くしてしまったとしても、あとに残される大切な人を大切に思う気持ちまで失くしてしまうわけではないですよね」
 鷲田は腕を組んだまま、頭をひねる。
「偉そうなこと言ってすみません」智也は小さく頭を下げる。
 鷲田は「謝るなよ」と腕を解いた。そのまま両肩をぐるぐる回しながら、「まあ確かに、人間は誰かを悲しませるために死ぬわけじゃないってのは、そうだよな」と息を吐き出す。
「俺だって、病気の宣告を受けたときはけっこう落ち込んだし、生きる理由を持ってるおっさんたちのことが羨ましく感じたりもしたよ。でもさ、今は生きられる可能性があるなら、その限り生き抜きたいと思ってるよ。たぶん、お前や華菜子ちゃんと出会ったおかげなんだろうな。俺は俺自身に、死にたくなかったら踏んばれって、いつも叫んでるよ」
 鷲田らしいな、と智也は思う。鷲田らしくて、とても眩しい。思わず彼の横顔から目を逸らしてしまう。
「俺もひとつ、偉そうなことを言わせてもらうとすれば」鷲田が続ける。「死にたいって気持ちだってふとしたきっかけで変わっちまうかもしれないじゃねえか。生きていれば可能性はゼロじゃない。ゼロじゃない限り、捨てちゃダメだろ。生きることから逃げるのと、死ぬしかないからどう死んでいくのかを真剣に考えるのは、似てるようで正反対だ。せめてあの俳優が、後者であったことを祈るよ」
 死ぬしかない、と言った鷲田の声が耳に残る。人間は誰でも最後には死ぬしかない。いや、人間だけではない。命を持って今この瞬間に生きているものはすべて、そうだ。
 病気を発症した時点で、もしかしたら俺は、死ぬしかなかったのかもしれない。病気の発見が遅れていたら、治療費が払えない状況だったら、医療が発達していない時代に生まれていたら。ただ死を待つしかなかった可能性は、いくらでもある。それでもこうやって、生き延びている。善の反対が悪であるように、死の反対は存在なのだろうか。自分の世界から、いま生きている誰かがいなくなってしまった世界を想像し、反対に、誰かの世界から自分だけがいなくなった未来を思い浮かべる。いくつもの可能性が浮かんでは消え、そのすべてが、今ここにいる自分の存在を迷わせた。
「そろそろ、病棟戻るか」
 鷲田の声で、智也の思考はぷつりと途切れた。二人並んでエレベーターホールへ向かう。
「華菜子さん、早くこっち側に戻ってこられるといいな」
 智也はただひとつ、頭のなかに残された純粋な気持ちを声に出す。
「まあ、あの子なら大丈夫だろ」
 軽快な鷲田の言葉が、その時はとても心強く響いた。

 それから一か月半が過ぎ、智也は最終退院を許可された。
 お世話になった看護師や医師に頭を下げて病棟を後にする。華菜子の姿はそこにはなかった。退院を知らせるメッセージを前日に送信したが、それも読んでくれているかどうかわからない。
「俺もすぐ出てってやるから待ってろ。また必ず会おうぜ」
 コンビニへ出るふりをしてエレベーターの前まで見送りに来てくれた鷲田に手を振る。
 外の空気はひんやりとしていたが、よく晴れていて風がないおかげか清々しく感じた。駐車場までの道を歩きながら先ほどまでいた病棟を見上げる。四階のラウンジの窓が空の色に染まっていた。人影はない。
 もう、いいんだ。と智也は思う。
 もう、痛い検査を受けなくてもいいし、薬の副作用に耐えなくてもいい。好きな時間に好きなものを食べることができるし、ゆっくり湯舟に浸かることもできる。音楽を大音量で流しても誰の迷惑にもならない。それに。
 もう、あの子の気配を探して一喜一憂することもなくなる。
 病棟の背後に広がる空に目を向けると、雲のような白い月が高く高く昇っていた。
 さようなら。
 智也は心のなかで呟いて、病棟に背中を向けた。

    ◆

 その日は、よくスマートフォンが鳴る日だった。
 最初は、朝の散歩から帰ってきた愛犬ジロウを捕まえて、バスタオルで足を拭いてやっている途中だった。スウェットのポケットに小さな振動を感じ、スマートフォンを取り出した。風太郎からの電話だった。通話ボタンをスライドさせたところで、父が餌皿を出す音に反応したジロウが駆け出そうとする。「こら、後足がまだ終わってない」と、スマートフォンを持っていないほうの腕でジロウの胴体を抱え込む。
「足って? ああ、ジロウか」
 電話の向こうから風太郎の声が聞こえた。久しぶりに聞いたその声が嬉しかったのか、ジロウが大きくひとつ吠える。
「相変わらず元気そうだね、ジロウは」と風太郎が笑う。「ああ、めちゃめちゃに元気だよ。食欲旺盛で太り気味だ」肩と顎でスマートフォンを挟んで返事をしながら、ジロウの後足をごしごしと擦る。右が終わったら左。「よし、終わり」と腕を離してやると、ジロウは一目散にキッチンのほうへと走り去っていった。「お疲れ」と風太郎が労ってくれる。智也はバスタオルをたたんで、スマートフォンをしっかり持ち直す。
「どうした、こんな朝早くに」
「いや、別に。兄ちゃんもそろそろこっちに戻ってくるのかなって思ってさ」
「ああ、そのつもりだよ。母ちゃんたちとも話はしてる」
 そう答えながら、智也は壁にかけられたカレンダーを横目で見る。今日から三月だ。すでに退院してから一か月が過ぎている。これまではずっと実家で療養を続けていた。はじめは二週間に一度だった通院も、経過が良好であるからと、今度からは一か月後の予約になっている。病院に通う頻度が減れば、アパートに戻っても特に支障はないだろう。もっとも、大学へ復学するのは次年度の後期からであるため急いで実家を出て行かなければならないわけでもない。要するに智也の気分次第、どっちでもいいのだ。
「具体的にいつごろ戻るとかは、考えてる?」
「今月の終わりにもう一回病院にいくから、とりあえずそれが終わってからだな」
「そっか。俺もそのころ帰省しようと思ってたから、ふたりで一緒にアパートまで戻って来られればいいね」
「ああ、ちょうどいいな。母ちゃんには俺から話しとくよ」
「うん、頼む」
 じゃあな、と通話を終えようとすると、あっちも息を吸う気配がした。いったん言葉を引っ込めると、案の定風太郎は「昨日さ、バイトの帰りに」と別の話を始めた。「月が出てたんだ」
「月?」
「そう、月。ここ何日かずーっと曇り続きで星も月も見えなくてさ。空をみること自体、忘れかけてたんだよ、俺」
「うん?」
「でも昨日は、バイト先から出たら、俺の目線の先で待ってたみたいに月が浮かんでたんだ。全然満月とかじゃなかったんだけどすごく綺麗でさ。俺、何か妙に感動しちゃって」
 智也は風太郎の話す意図を掴めないまま、黙って聞いていた。
「やっぱり、月はそこにあるべきだな、って思ったんだ。月は夜空に絶対にあるべき。この世界に月の光は必要なんだ」
 そう言い切って、風太郎は満足そうに息をつく。話の着地点を迎えてもなお、彼の意図するところはよくわからなかった。とりあえず「そうかもな」と同意しておく。「じゃあ、新月は最悪だな」とも。
「ほんと、新月なんてくそくらえだね」と風太郎が乗っかってくる。
「でもな、風太郎。新月の日があるからこそ満月が美しい、とも言えるんじゃないか?」
「それは、」風太郎がなにか考えている間がある。「深いようでよくわからない言葉だね。適当にしゃべってるでしょ、兄ちゃん」
「バレたか」
 智也が言うと風太郎は笑って、「じゃあ、また連絡するよ」と電話を切った。
 手を洗い、ダイニングテーブルについて食パンをかじる。足元ではジロウが皿に顔をつっこんで騒々しくドッグフードを食べている。「ゆっくり噛めよ」と言ってみるがもちろん彼の耳には届いていない。
 コートを羽織った父がソファーの上に置いてあったビジネスバッグを颯爽と取り上げ、「行ってくるよ」と玄関へ歩いて行く。それに気が付いたジロウが父の後を追いかけていくが、脱走防止のフェンスに行く手を阻まれる。その少しあとに身支度を終え、出ていこうとする母親にも同じようについていき、同じようにフェンスに足止めをくらう。智也は健気な小麦色の背中をさすってやりながら、父と母を見送る。朝の恒例行事だ。
「今日の夕方からジロウの散歩は俺が行こうかな」
 玄関でスノーブーツのファスナーと格闘している母へ、何の気なしに言ってみる。
今はジロウの世話を父と母が分担しているが、智也たちがまだ実家で暮らしていたころは朝の散歩を風太郎、夕方の散歩を智也、ジロウのご飯の準備を姉、というように姉弟で分担をしていた。どうしてもジロウを飼いたいとねだった智也たちに、父と母が与えた役割だった。
「どうして?」と母が振り返る。その瞳には明らかに心配の色が浮かんでいる。病院から出てきた智也に対して、両親、特に母は少し過保護気味だ。
「どうしてって、元々は俺たちの仕事だったから。それに、いい加減家のなかに閉じこもってるのも飽きたよ」
 散歩、というワードに反応してしっぽを振るジロウの顔を両手で包むように撫でてやる。母はまだ迷っているようだ。
「俺だっていつまでも病人でいるわけにいかないし、ちょっとは運動して体力つけないと。大丈夫、いざとなったら名犬ジロウが助けてくれる、ひとりじゃない」
 智也の言葉を理解しているのかいないのか、ジロウが無邪気に吠えた。それを見た母の頬がほころぶ。
「絶対に無理しないで、あったかい格好で行くんだよ。スマホは絶対持って。雪は大方溶けたけど、まだまだ寒いからね。あと、転ばないように」
 まくしたてるように言う母に、「わかったよ」と智也は頷いた。
 日が沈みかけたころになってジロウの散歩にでかけた智也は、想像以上に体力が衰えているのを思い知らされた。少し歩いただけで鼓動が早くなり、いけないいけないと、時折深呼吸をしながらジロウのあとをついていった。ジロウもこちらを気遣うように何度か後ろを振り向いてくれた。こんなに長い時間、と言ってもまだ十分程度だが、外の空気に触れたのは入院して以来半年ぶりだ。近所のスーパーを出入りする主婦や学校帰りの学生たちとすれ違うたびになんとなく落ち着かない気分になる。遠くまで広がる空の下で、どこまでも延びるアスファルトの上に立っていると、自分がとても無防備なままにそこにいるようで心もとない。何の変哲もない、今までは当たり前のこととして受け入れていた日常に、自分が上手く馴染めていないことに戸惑う。智也にとっての日常は、あの病棟のなかでの日々に置き換えられてしまったのかもしれない。そう思うと、なんともいえない虚しさに襲われた。もう、あそこには戻らないのだから。
 折り返し地点の公園で、休憩がてらベンチに腰をおろす。そばで寝そべっているジロウの腹が、智也の靴にのっかっている。つま先でジロウの呼吸を感じながら、夕方から夜へ移り変わっていく空気を眺める。
 そうしていると、スマートフォンにその日二回目の着信があった。鷲田からだった。
「よお、元気だったか」
 鷲田の声を聞いた瞬間に、存在を見失っていた日常が一気に智也の身に舞い戻った。
「いま、ジロウの散歩してました」返事をする声色も自然と明るくなる。
「ジロウっていうのは、弟だったか?」
「うちの名犬です」
「こりゃ失礼」
 相変わらずの鷲田の軽さに、不本意ながら心が安らぐ。智也が最終退院をした二週間後、鷲田もすべての治療を終えて退院を迎えていた。ブルーアスターでのやり取りは続いていたが、こうして声を聞くのは最後に病棟で別れて以来だった。
「鷲田さんは、その後どうですか?」
「控えめに言って絶好調だな。四月からは仕事にも復帰するんだ」
「本当ですか、すごいっすね」
「まあな」
「仕事、嫌じゃないんですか」
「そりゃあ、すすんで行きたいとは思わねえし不安なこともいっぱいある」口にする言葉とは裏腹に、鷲田の声は普段より暖かい色を帯び、喜びに満ちているような感じがした。「やるしかねえんだよ。生きていくためには」
「そうですよね」と智也は同意する。鷲田は着実に前を向いて歩いている。
「で、どうしました? 電話なんて珍しいじゃないですか」
 智也が訊ねると、「ああ、まあ」と鷲田はこれまた珍しく歯切れの悪い返事をする。
「え、何ですか。気になりますって」智也は思わず続きを催促する。
すると鷲田は、照れくささを噛み殺すような様子で言った。
「実は昨日、プロポーズしたんだ」
「え、本当ですか」智也は目を丸くした。
「本当だよ、こんな嘘ついてなんになるんだよ」鷲田は照れ隠しのためか強い口調で言い返してくる。
「記念日か何かだったんですか?」
「いや、ただの水曜日」
「じゃあ、一体どういう風の吹き回しで」
 智也が食い気味に訊ねると、「昨日、仕事帰りに彼女が俺のアパートに来てさ」と昨夜の出来事について語り始めた。
「俺が入院してから、二人きりで落ち着いて話す機会なんてほとんどなかったから」
 彼女が作った夕飯を食べながら、鷲田は入院中、ひとり悶々としていたことを彼女に打ち明けた。抗がん剤の副作用で子どもが出来にくくなる可能性があると告げられていたこと、結婚をして子育てをするという当たり前にあると思っていた未来がなくなるかもしれないこと、それに彼女を巻き込んでしまう不安、自分が病気であるということが彼女の気持ちを縛ってしまうのではないかという負い目、二人で一緒になるという未来を選ばないのであれば年齢的にも早く決断すべきだろうという意見、大事な決断を急がせてしまうことの後ろめたさ。それまで口に出すのを避けてきた話題のすべてを、そこにぶつけた。
 彼女は最後まで鷲田の思いを聞き、しばらく考えこんだ。
 その様子を見た鷲田が「今すぐに答えを出せるような話じゃないから、今日はとりあえず、」と言いかけたところを、彼女の声が遮った。
「あなたはさ、」と鷲田のほうをみて小さく首を傾げる。
「あなたは、ヒップホップとロックとスパイ映画と少年漫画が好きで、堅苦しいことと理不尽なルールと寝不足が嫌い。そうだよね?」
 意表を突かれた鷲田は頷くことしかできない。実際に彼女の言うことはぴったり当てはまっていた。彼女は続ける。
「わたしはさ、信太のいいところもダメなところも誰よりもたっくさん知ってる。長い間誰よりも近くで、信太を見てきたつもりだからね。だから、病気自体も薬の副作用で起こることも、いっぱいある信太の特徴のうちの、ほんの一欠片に過ぎないと思うんだよね。少なくとも、わたしにはそう見えてる」
 信太、と名前を呼ばれ、鷲田は自分が俯いていたことに気が付いた。顔を上げると彼女の真っすぐな瞳が鷲田を見ていた。
「何が言いたいかっていうとね。先のことがどうなるかは分かんないけど、将来わたしが信太と一緒にいることを選んだとしても、別れることを選んだとしても、それは病気のせいじゃないってこと。子どもがいてもいなくても、わたしたちはわたしたちのために結婚して、家族になるんだし。だから、これからもお互いに愛想尽かされないように気をつけないとね」
 彼女はそう言って、テーブルの上の鷲田の手を優しく包み込んだ。鷲田は何も言えないまま、ただ彼女の手のぬくもりを感じていた。何か言葉を発すれば、喉を締め付ける熱い感情が一気に溢れ出して止まらなくなってしまいそうだった。
「夕飯を食べ終わるころにはもう、俺の心は決まってた」
 昨夜の感情が蘇ってきたのか、電話越しの鷲田の声は微かに揺れていた。
「彼女が泊まっていくっていうから、寝る前に『結婚しよう』って伝えたんだ。もうここしかないだろうって必死だったよ、俺」
今思い出しても手汗が出るぜ、と鷲田が笑う。
「どうだったんですか。結果は」
 鷲田のプロポーズを聞いた彼女は、一瞬驚いた表情になり、それから腹の底から泉が湧き出したかのように笑いだした。
「ついさっき、『先のことはどうなるかわからない』って、わたし言ったばっかりだよ。度胸あるね、信太は」
 笑っている彼女に向かって、鷲田は真剣な表情でさらに言った。
「先のことなんて関係ない。今俺は、お前と結婚したいんだ」
 鷲田の言葉に、笑いの余韻を残したままの彼女は「そうだよね、大事なのは今だよね」とつぶやく。そして、「うん。わたしも今、信太と結婚したいかも」と凛とした声で応えた。
 電話越しに話を聞いていた智也は、二人のエピソードを微笑ましく思うと同時に、心がひりひりと痛むような感覚になった。
「いい彼女さんですね、本当に」
「ああ。俺にはもったいないくらいだ」鷲田はしみじみとした口調で言う。
「彼女さんの言う通り、愛想尽かされないように頑張んないとですね」智也が茶化すと、鷲田は「わかってるよ」と照れ臭そうに笑った。
 電話を切る直前、鷲田が唐突に「ありがとうな」と口にした。
「何がですか?」と智也は聞き返す。
「病棟で初めて話した日に尾崎が言ってくれただろ。逃げ道なんて用意しなくていいって。あれがあったから、俺はちゃんと腹を割って彼女と話せた」
「そんなこと、」と智也は鼻の頭を掻く。「とっくに忘れてましたよ」
「俺は、憶えてた」と鷲田が言う。とても優しい声だった。
 電話の向こうの鷲田に別れを告げ、ベンチから立ち上がって歩き出す。顔をあげると夜の色にとっぷり染まった空に、銀色の星が一つ瞬いていた。

第7話に続く

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