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##08 二拠点生活はじめました

ゲコゲコ響き渡るあの大合唱が懐かしく思うくらいには新居に慣れてきた。ゴールデンウィークの幕開けとともに夜逃げのように引っ越したあの日からもうすぐ3ヶ月。実は先月、2週間ほど実家に戻った。帰ってすぐは田植えされたばかりに見えた苗たちも、再び出発するときにはフサフサになっていた。夏の成長スピードが早いのは人間に限ったものじゃない。


二拠点生活は昔からの夢だった。最も落ち着ける場所を1つ持ったら、あとは自由気ままに動きたかった。ただ「最も落ち着ける場所」が実家になるとは夢にも思わなかった。家が安心できる場所と知ったのは一人暮らしを始めてからだ。自分だけの城を作りたくて上京した私の最も落ち着ける場所が田舎の実家になるとは皮肉なものだ。詳しく言えば田舎の実家の自分の部屋だが。

2022年の暮れから、あまり良くないニュースが家族の間で流れ、あれよあれよと事が動き、今に至る。実を言うと今回の上京はあまり賛成していなかった。個人的には、一度行った場所に戻る感じがあまり好きではなかったから。どうせなら全く住んだことのない場所が良かった。とはいえ、ここ数年そんなことを言い続けて動かなかった私も悪い。もう少しお金を貯めたかったというのも一つあるが、今後の拠点を決め切れなかった私がいる。もっと言えば新しいスタートを切る心の準備ができていなかった。

なるようになる。流れに身を任せて。そんな言葉を耳にすることが多く、無理矢理に決めるようなことはしないようにしていた、なんて言ったらただの言い訳だろうか。でもまぁ結局こうなった。流れに身を任せて何も決めずにいたらとんでもない変化が起きてしまった。あまりにひどすぎると最初は動揺したが、よくよく考えると順調なようにも思えてきた。

2023年の新年早々、いや本当は2021年のあたりから、やりたいことリストに『二拠点生活』が入っていた。夢をそろそろ現実のものにしたいと思っていたところではあった。今回の騒動があまりに良い印象を持たなかったので最初は気づけなかったけれど。もしかしたらあまりに落ち込む私を元気づけようと、神様かお釈迦様か誰かさんが信号を送ったのかもしれない。もう少し田舎に居たかった私と、新しい何かに心踊る私が、「そうだ二拠点生活しよう!」と言った。毎日神棚と仏壇に手を合わせていた自分を褒めてあげたい。


最初に新居に足を踏み入れたのは夜中の12時を過ぎていた。東京とはいえ、さすがに暗くて怖すぎた。こんなおどろおどろしいところにこれから住むのかと心底嫌だった。あの日、出したばかりの布団に横たわって見上げた天井と、まだカーテンのつけられていない窓から差し込む電灯の光と、変えたばかりであろう新品の畳の匂いを、私は多分忘れられないと思う。

そんなこんなでスタートした新居での生活。意外にも賑やかな場所ですぐに気に入った。何より田舎と違って車じゃなくても外出できる。これは本当に大きなことで、最初の一歩が出やすくなるというだけではない。車生活をしている人なら分かると思うが、外出先の駐車場問題が本当にめんどくさい。駐車場を止められる場所しか行けないうえに、なんとなく気になった脇道に入るみたいな寄り道がやりづらい。最初から最後までゴールに向かって走ることしかできないのだ。それを都会では心ゆくまで楽しめる。自分の足で。

他にも色々あるだろうが、これだとただの「引越し」に過ぎない。私がやりたかったのは『二拠点生活』だ。ということでひと月と少しを過ぎた頃、早速田舎に戻ってみることにした。


いざ実家に足を踏み入れると、なんだか妙にフワフワした気持ちになった。夢と現実の境にいる感じ。東京の家と、今立っている田舎の家と、一体どちらが私の「生活」なのか、よくわからなくなった。もしくは大好きな場所に帰って来れて夢心地だったのかもしれない。たったひと月と少し前までいた家。なのに誰の仕業か見たこともないフンが壁や床に落ちていた。人間が居なくなったと分かった瞬間、この家の主人にでもなったつもりか。その反面、新しく買い替えたばかりのもので溢れかえる部屋に、つい半年前までは当たり前のようにここで生活し続けることを考えていた自分たちを思い出す。

あの時、いろんな物が壊れていった。割ってしまったお皿に、急につかなくなった家電。初めて泊まりに来る兄嫁のためにと、使い古されて汚れが落ちなくなったものは大体買い替えた。もちろんこれから自分たちが使い続けるために。そんなものたちが期待とは裏腹に置いてけぼりにされていた。今回業者は頼らずに車に乗せれるものだけを厳選したので仕方がない。心の中でごめんねと呟いた。

少しづつ命を吹き込むように触っていった。窓を開け、空気の流れを作り、ひとつひとつ異常がないか調べていった。居間にキッチン、寝室に仏壇。自分の部屋のチェックもした後、家の中央に位置する部屋に戻った私は全力で叫んだ。「たーだーいーまーーーーーーー!!!!!」フンを落としていった奴への牽制と、寝静まった家を叩き起こすために。その数時間後には、ずっと生活していたかのような今までと何ら変わらない私と家がいた。

出て行くときにお世話になったあの人とこの人とあの人とこの人に再び会いに行き、それぞれのお土産と近況を報告しあった。「二拠点生活をした場合の実家でやりたいこと」もいくつかあったし、仕事もそれなりにあったのでなかなか忙しい日々だった。それでも1人だったので、ぼーっとする時間もちゃんと作れた。

色々考えたが、特に何か期待していたわけではなかった。ここに1人帰ってきたからって何かいいことを閃いたり、今後のキャリアや人生の行方を決めたりなんかは別にどうでも良かった。ただただ自分の欲望のままに五感を癒す時間を過ごしたかった。それでも暇すぎると人間はどうしても突き詰めたくなるのだろう。「これは面白そうだ。こんな感じでやってみよう」「やっぱりこっちの路線で攻めてみよう。○歳までには形になってくれるといいな」なんてのが次々と出てくる。センチメンタルになっているのも要因の一つだろう。

そんなこんなであっという間に2週間が経ち、新居に戻る日になった。自分の手で吹き込んだ命をひとつひとつ切っていく。自分の部屋に「またね」としばしの別れと決意を告げ、神様とお釈迦様とたくさんの先祖に感謝とお願いをして実家を後にした。

お世話になった方たちからの有難い手土産のおかげで、旅行人生で1番重い荷物を抱えて(というか引きづり)新居に戻った。母は兄夫婦と旅行中なのでこちらの家でもまた1人。またもや夜だったので、すぐ寝ようと思ったが、こういう時に限って変な虫が出てくる。実家にいたときには、あれは夢だったのだろうかと思っていた新居での生活が一瞬で現実になった。


そして今に至る。私の初めての二拠点生活からもうすぐ1ヶ月が経とうとしているが、今でも夢みたいだ。まさかこんな形で私の夢を叶えられるとは思わなかった。考えようによってはただの引っ越しであり特別なことは何もない。だけど私にとって「引っ越し」はあまりにも受け入れられない現実だった。自分を守るための対応策で出てきた「二拠点生活」だが、とても前向きで良いと思う。

仕事に家族に、忙しく過ぎていくだけのただの日々が、今この瞬間も、実はすでに始まっている私の二拠点生活なのだ。次に帰るのは半年後。フンだらけになっていないといいのだけれど…。期待せずに待っていよう。

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