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【身の上小噺】SNSでいいねを押す基準

SNSで必ずあるいいね👍ボタン。
自分がするアクションに対して、他者からの何かしらリアクションがあると嬉しくなる。そのリアクションとして一番簡単な手法がいいねを押すこと。SNS幼稚園があるならいいねをすることは年少さん、言わばひよこ組で習うだろう。いいねに加えコメントするのはウサギ組で。今度は自ら発信することをクマ組で習うはずだ。

冗談は縦置き、このいいねは自己承認欲求を満たすことに突出させたSNSでは欠けてはならない必須の項目だ。


そのいいねに関する話。


インスタで言えば、ある人は全ての投稿にいいねを押している、またある人はSNSをそもそも開く習慣がない、またある人は全て把握している上で押さない。

新Xもそう。コメントを残したり、旧リツイートをしてみたり、いいねをしてみたり。Threadsもまあ、そうだ。mixi2も、うん、まあ。みんな年長さんまでに学んだことを存分に活用している。


そんなSNSで気軽に出来るいいねだが、俺は基本押さない。いいねを既読と同じような価値に下げたくないからだ。俺の押すいいねにはもっと価値を生み出したいという誇大化した不思議な自尊心を抱えている。謎の拘りだが、無闇矢鱈といいねをしないと決めている。


しかし、俺は全部が全部押さない訳ではない。寧ろ良かったと思ったら積極的にいいねを押下する。では、その良かったと思う判断基準とは?



それは“見てて面白かったか”どうか。
これが全てである。


文言を見て笑ったらすぐいいね
自分の語彙にない言い回しで笑ったらすぐいいね
知見が広がったと思ったらすぐいいね
痛くなったらすぐセデス

俺のいいねは単なる既読に留まらず、プラスで“これを見て俺は笑いました、興味深かったです”という思いが必ず籠っている。

いいねしたモノはアーカイブに残るので、偶に顧みる。その未来の自分をも笑わせているものにしか興味・関心がない、持てないのだ。



インスタでよくあるのがデザインに凝ったオシャレな投稿。これには一毛も興味ない。何が面白いのか分からないから。

そのオシャレさ、カッコよさから抽出できる面白さ、学びって何だろうか。「あっ、このレイアウト見やすいから参考にしよう」とかはまだ分かる。
でもそれだけ。
視認性の高さ以外、俺はオシャレから学びを一回も見出せたことがない。おそらく、これからも興味はないだろう。

でも、ちゃんと見出すことにチャレンジしてみたいとは思ってるよ。知見の風呂敷は広げてなんぼですからね。



だが例外もある。全く面白くもない投稿、記事でもいいねをするときだ。


そのパターンは単純に仲の良い友だちが楽しそうにしていたとき。
特に内容も凝ってなく、添えられた文章もありきたり。写真だけなのにいいねを押すのは、友だちの写真から伝わる朗らかさや幸福感が俺にも伝わって嬉しくなるから。


そう思わせてくれる友人には完全に心を開いているのだろう。

ただ、いいねを押すかどうかは完全に気分によるため滅多にない。ニア天邪鬼。前世が座敷童子。

しかし、これでいいねをするときは本当に心を開いている人だったときのみ。
普段から会ってくれたり、都合が合わなくても別日を提案してくれたり。遊びに誘うキッカケの9.5割は俺なのだが、0.5割でも向こうから打診をしてくれたり。
重要な連絡もスムーズで、空いても1日程度で必ず返事をしてくれる。何の不満もない。ストレスフリーの人たち。


こういう人たちとは一緒にいてつまんなかった時がないので、楽しそうにしてたら無条件で押しちゃう。押したくなっちゃう。
そのくらい俺は君たちが好きなんだよ❤️
本当にありがとね。

これからも末永くよろしくしてな。




こういう記事を書いたら、無性にも適当に全員のツイート、投稿にいいね押して回っちゃいたくなるな。

すぐこういう気持ちになるの、やっぱ俺の前世って座敷童子なのだろう。座敷童子は5〜10歳の幼童。最年少の5歳は年中〜年長に当る。

SNS幼稚園の年長さんは自分で発信することを学ぶ。今現在で書いているこのnoteこそ、幼稚園の卒園論文なのだろう。


これが座敷童子の卒園論文だ。
読者の年少さん諸君、アウトプットのお時間だ。いいね待ってるぜ👍

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