書くリハビリ うつ病って?
今更かもしれないけれど。
今一度改めて、とでもいうんですかね。
あくまで、個人の状態と、言葉の意味を加味して、うつ病ってどんなもの?という部分に触れてみようかなぁ、と思います。
日本でうつ病が認知され始めた頃に、様々な情報が錯綜しましたが。
一部で言われていたような、やる気が出ないだけとか、なまけ病とか。
今でもなんか誤解してる人がいるようですし、決して動けないはず、という症状ではないので、そういう部分に触れてみようと思います。
大別としては、気分障害
うつ病というのは、あくまで症状の一般的な名称、通称というか。
例えば、頭痛にしても、只の頭痛なのか?偏頭痛なのか?というような。
一括にすると、頭痛なのだけど、偏頭痛、群発頭痛、緊張型頭痛と個別の症状が意外とわかれてる。そういうのと同じなんですよね。
精神疾患としては、気分障害。
その中でも、気分が憂鬱だみたいな状態が続くのがうつ病、そこに妙にハイになるという気分の上昇も入るようだと躁うつ病という感じです。
まぁ、この辺は実際はもう少し細かいのですが、今回はあえてそこには触れません。
実際は医師が診察した上で、診断を下すものなので、あくまでうつ病という診断をくだされた個人はこんな感じですよ~という部分に触れるだけですし。
こういう部分では不安も同じくで、日常生活に支障をきたすレベルになると病院で診察を受けて、全般性不安障害とか、社交不安障害(所謂対人恐怖)という診断をもって確定するもの。
なのでこう、一般的にこうある、というのは、
個人、個人で意外と差があるもの
というのが、実情だと思います。
ほんとにね。
知ったからって、大して詳しくもないのに、一般的とか普通とかいう言葉と共にちょっと知っただけで、知ったつもりになる人が居るというのは。
総じて、精神疾患の治療をする上では妨げになると思いますし、実際に個人としても、
個人の状態より、一般的とか、こういう情報があるからと、押し売りのごとく周囲にしつこく言われて、
余計に気分が落ち込んだわ・・・
という、悪化を招いて苦しんでた時期もありましたしね。
当人としても、良くわからないけど何だかモヤモヤして憂鬱な気分が続くどころか、
頑張らないといけないなんて、当たり前と言わんばかりにわかっとるわ!
なのですが、動こうとすると体が嫌がるかのように、気分が落ち込んでしまう・・・・・・。
また、職場で対人関係に不安があるので、気分が落ち込むというのは、
不安が原因の不安障害なのか?
うつ病のような気分障害なのか?
ただただ、嫌な人、嫌いな人が居て合いたくないから気分が落ち込んでるのか?
というように、自分自身ですら明確に出来ないようだと、
これはうつ病だ、という思い込みは少しばかり時期尚早というか。
それをもって病院を受診しても、うつ病と診断されないとか、そういう事の原因になりかねず、思い込みのせいで誤った道を進むことにもなると思います。
そういう意味では、ネットでのチェックリストも所詮は参考。
ネットのチェックリストでうつ病と出たので、うつ病と診断されるという保証はありません。だからこそ、病院の受診を進められるわけで。
病院で違うと診断されたのなら、他に理由がある、気持ちの落ち込みだと思います。
気分と気持ちは違うのよ。
なんだか憂鬱な気分・・・
こういう部分にも、ね。
気分と気持ちの違いもあらわれるといいますか。
持続的になんだか、もやもやして優れない、何だか心も体も重苦しい。
所謂、憂鬱な気分というのも、心だけでなく、体の方も動かせはするし、動こうと思えば動くんだけど、どうにも気分が持ち上がらなくて・・・という、ね。
とはいえ、気力で動こうと思えば動けてしまう、だと、抑うつ状態としか言われないかも知れません。
完全に落ち込んでしまうと、下手するとトイレすら、もうこのまま・・・というような状態になりますし、流石に、ね。
それはそれで問題があるので、体を起こしてトイレに行きますけど。
それほどなので、嫌な人が職場や学校に居る、嫌なことがあってそれを避けたいみたいな、理由があっての落ち込みというのは、単なる気持ちの落ち込みだと思います。
避けたい、という理由があってこそ、ですしね。
仮面うつとか、なんちゃってうつというのが、うつ病が日本でも認知されるようになってから、ある時突然聞くようになったのですが。
そういう、避けたいことを隠した上で、兎に角知識から気分が優れないとだけ訴えて診断をもらい、休めるようになったら、活動的になったという、ね。
そういう人が出ちゃったんですよね。
なので、今でも動ける=仮面うつとか、そういう仮病みたいなもんじゃないの?という誤解はあると思います。
うつ病のはずなのに、動けるのはおかしい、なんてのを今でも見聞きすることはありますし。
そういう部分からは、ただただ避けたい、逃げ出したいからの気持ちの落ち込みなのか?は、当事者自身が目をそらさずに見れるようにないとイケナイとも思います。
憂鬱な気分というのも、なんか雨が降ってて・・・みたいに理由がある事もありますし、そういう場合は理由がわかるからこそ、面倒だとか、必要だからとか、判断も合わせて動いたり、動かなかったりの選択もするんですよね。
また、雨天時は雲の厚み次第では結構暗くなりますし、それが視認によって影響することで、気分が憂鬱になるという側面もあります。
それが、うつ病となると、
理由も無ければ、天気も関係ない。動ける時は動けるけど、面倒とか考える事すら億劫で。
上にも書きましたが、トイレに行きたいという生理現象による体の状態があっても、気分が上がらないからとズルズル限界まで我慢して、流石にこれはヤバすぎでしょ?という感じで動きもする。
ちょっとした買い物も動けないわけじゃないので、出掛けれる時はありますが、出かけようとした寸前で、一気に気分が落ち込んで体が動かない、になってしまい、もういいや、今日は休もうって、休んでしまう。
気力を振り絞ろうにも、個人としてはもう理由がないのに涙がでてしまい動けなくなるほどまで無理したので、気力すらわかなかったりします。
なのでね。
実は結構しんどいんですよ。
自責にご注意
うつ病と診断され、休職という期間も経験しましたが、
兎に角惨めでやりきれない・・・
なので、自責が強い時期がありましたね。
まぁ、割と初期の頃なので、今はそういう自責はしなくなってます。でも、そういう自責という部分から、自分が自分を痛めつけるかのような状態にすらなってたのは、今となっては、危ない、と思います。
こういう自責という部分には、個人としての複雑さもあるんですよね。
そういう状態でも、見聞きすることでの様々な受け取り、感受性として自分が持ってるものはちゃんと能力を発揮してくれます。
だからこそ、余計に申し訳なくなって自責が強くなってたというのは否めないんですよ。
こういう部分からも、お前は真面目だからとか言われてしまい。
自責が強かった頃は、結構真剣に受容ってしてもらいたかったんですけどね。それをいくら説明しても周囲が、お前は真面目だから、で話をきいてくれない、と。
休職するどころか、職場からもすぐさま復帰を促されて、
これはもう○される!と命の危険を感じ取って、退職したくらいです。
多分、母が油断したと言ったのは、ちょうどそういう時期に、
「何でそんなに、私が私だからこその意見を出してるのに、自分はこう思うとか、他人がその価値観で私の意見をバッサリ切って、痛めつけに来るのさ!」
って、結構マジでキレちらかしたんですよ。
多分、その時にしまった!って思ったんだと思います、母は。まぁ、遅かったわけですが。
1歳時点で、察しの良さとそこからの行動から、将来的に精神を病みかねないとは思ったものの、成長していくうちに、普通に育ってるように錯覚してしまって、油断をした。
そうも、言ってましたしね。
まぁ、その通り、なんですよ
そういう自分はこう思う、を寧ろ私のほうが今まで受け止めて、心配させないようにしてたんだと、ようやく気づいてもらえたと言うか、何というか。
私のほうが、自分の意見を受け止めてもらえなくても、相手の意見を受け止めるだけでなく、心配をさせないように振る舞ってたのは事実です。
なので、インポスター症候群という物も、知ってたりするんですよね。人生という舞台で演じてましたから。
ほんとこう、子供の頃から過敏性腸症候群という症状は無かったけど、顔が青ざめる程に痛みを訴えてただけでなく、下痢すらもしてたのに、たかが腹痛と言われてしまい。
それに対して、学校をサボるというような行動をとらなかったんですよ。
気持ちの部分どころか、体に痛みすら出てても逃げなかったんですね。
それでイジメを受けることにもなってましたが、そういうイジメも先生も助けてくれないわ、親も親で話を聞いてくれないわ。
それで感情的になって泣いたりはしましたが、私の方は逃げ出すことは一切なかったんですよ。
小学校どころか、中学でも多感な時期と言われるのに、感受性の部分と性別のバグからくるアンバランスさに対し、個人を見てもらえなかったんですよね。
普通はこうだ、という意見でバッサリ切られるばかりで。
中学では「男だしついてるんだろ?」とか触られるというセクハラも、男子だから当然という感じで、された私がどう感じてたのか?を普通という言葉を盾にして無視されてたくらいです。
そういう部分も理解されない、とはいえ、それも違う人間同士だから仕方がない、と。逃げずに向き合って、学校に通ってたんですよ。そういうストレスがあったからこそ、偏頭痛も結構頻繁に出るようになりましたけど。
なので、過去に数回、
「あんたそれでよく、グレたり、道を踏み外したりしなかったよね・・・」
と、引かれたこともあるくらいです(苦笑)
というか、当人すら不思議なんです。
兎に角、走馬灯というか、悪い方に行こうとしても、周囲の人の笑顔とか、泣き顔、心配する顔を勝手に脳がイメージ再生してしまって、踏みとどまれてたという感じで。
良いも悪いも、自分の意識や意思すら超えて、生き残るためと言うんですかね。踏みとどまらせたり、必要以上に悲しまないように事前に悟らされたり。
そして、逆にそうやって無理してでも頑張ってきてたという過去があったからこそ、うつ病と診断された初期は相当にショックうけてましたし、結構つらかったです。
なので、自責は余計に強くなってた時期もあるわけですが。
今となっては、よくもまぁ、精神病んでからも、持ちこたえたもんだわ・・・って当人が呆れるくらいです。
まぁ、ね。
自責してると、惨めさから気分は間違いなく沈み方向に行くので。
また、個人としても様々な違いを抱えながらも話すら聞いてもらえなかったという状態も自責として働いてたわけで。
結局、うつ病という状態まで行ってしまった原因に、そういう自責もからんでますし、周囲が兎に角普通とか一般的とか、個人の意見以上にそういう価値観から話を聞きやしなかったというのも、影響してると思います。
なので、ね。
そんなに自分を責めてはよくないよ、と言いもします。
ですが、HSPという、感覚処理感受性が高い人という言葉に対しては、単純に自身の感受性云々だけでなく、それをもってそういう苦痛すらも乗り越えて来てるので、
その程度で、生きづらいとか(笑)とも言うんですよね。
何がどうあれ、どういう状態であれ、生き残りつつ何とか一般的という生活をしてますから。
なにはともあれ人それぞれ
ほんとこう、精神疾患については認知はされたものの。
どういう診断がくだされてても、人の精神状態や心理という部分が、病気で一括に出来るというのは、
まずありえないです。
そもそも、精神科という専門の科があった上で、医師という国家資格を持った人が診断をするわけで。
いくら知ったところで、素人に毛が生えた程度だと、ネットなんかは不特定多数=見ず知らずの人を苦しませかねないんですよ。
それなのに、うつ病だけでも、当事者ですら自分がどの程度というのも語らないわ、あくまで自分がそうあっただけ、という部分を抜け落としたまま、
人を助けたいから、とか。
アホか?と。
人を助ける、救うというのは、情報与えて立たせればハイ終わり!じゃないんですよ。
立っても、人生という道のようなものを歩いていかなきゃいけないし、立ち上がる助けになっても、歩ける助けにならなきゃ意味がない。
ましてや、それで歩きだしても無理をしかねないので、今度は立ち上がれないどころか、ぶっ倒れて更に危険という状態にすらなりかねないんですよ。
そういう部分があるからこそ、病院なんかでは、過剰に患者に感情移入しないようにしてると思いますよ?
なので、退院したら、以降はハイサヨナラ、みたいな。
あくまで病院は助けるのではなく、人が生きる力、自然治癒力なんかの補助的立ち位置だと思います。
手術とかして、山場を乗り切って助かったということはあっても、退院したら自力、ですから。
なので、リハビリという、歩くための訓練とか、ものを握る訓練とか、程度によっては、そこくらいまでなら、という所までは費用は必要とは言えやってくれる。
でも、そこから先は、自分ないし、家族や友人知人、パートナーが支えて歩くことになるわけですが、最終的には自立、自分で立って歩くという事をしなきゃいけないんですよね。
HSPなんかも、知ったから同じ様な人を助けたいとかいう人がいますけど。
なんも知れとらんわ!っていう。
生きづらさすらも、乗り越えさせてくれるのも、感受性だぞ?
個人としては、上にも書きましたが、悪い道に進めなかったのも、否応なしに「何をするのが良いのかよく考えろ」と言わんばかりに、記憶を掘り起こして見せてくれたくらいです。
制御どころか。
何がどうあって、そうなったのか?みたいな、未知の領域がまだまだあるですよ。
自覚してから40年近く付き合ってきましたけど。
ほんとにね。
多様性とか言って、みんな違ってみんな良いとか言いますけど。
助けるとか、救うを勘違いしてるでしょ?というのも、ときおり見かけるのでこれは酷い・・・なんですよね。
そういう事を適当に言葉を見繕うより、人はそれぞれ違うということは、どういう事なのか?を先に考える必要があると思います。
情報にただただ流されすぎなんですよ。
と。
もう、バッサリ、グッサリなわけですが。
届かない人には届かないでしょう、とも思いつつ。
今日はこんな感じですかね。
あとがき
気がつけば、話が広がっている。
とは思うものの・・・。
結局、うつ病という気分障害の部分では、個人としてはダメージを受け続けてる様な感じなので、ほんと頭が痛いです。
個人的には、わけがわからない混乱のなか、涙が不思議とあふれてしまい、最悪胃の中身がでないのに、えずきが止まらないから横になる。
これが、うつ病と診断された頃の初期の状態でした。
命を断つという逃げを勢いでやろうとしても、ポジティブ方面の走馬灯が発生して、出来なくさせられてたんですよね。
それは、子供時代、学生時代に兎に角話を聞いてもらえないという、受容が無いからこその苦しみすらも、逃げ出すことを体というか、脳?が許さなかった、みたいに、寸でのところで止められてるんですよ。
お前の進む道はそっちじゃねーから、と言わんばかり。
こういう部分があるからか、強く影響を受けそうな死にたいしては、事前の虫の知らせみたいな感じとりがあるだけでなく、それを受けたときから悲しむ方向に感情が動かなくもなります。
祖父、祖母、母について、事前に悟ってましたし、母についてはもう、明らかでしたからね。
「あ、お別れのときが来たんだ」
頭に浮かんだのがまずこれで、しかも中学くらいに不思議と想像して自分が嫌になった事が当たってしまったと、記憶が掘り起こされて、頭の中でそう告げられる、みたいな状態だったので、看病をするなかでも1人だけ悲観せず、入院や闘病という環境の変化はあれど、母に付き添うことが出来てました。
結果、母から「あんたに守られてた」と。
どうしても、ね。自然と頭の中で繋がると言うか、繋げられるというか。
まぁ、うつ病についてで、始まったはずなのに、如何せん経験というか、色々有りすぎたし、どうしても気づく、察するという部分は、外側だけでなく、自分自身の内側にもガッツリ働いてます。
だから、外向とか内向とかも、アホくさい、と。
遺伝子の構造の二重らせんではないですが。
立体的にすれば交差はしなくても、橋渡しは随時ついてますし、平面で書けば一旦は離れたように見えて、再度交差すると思います。
そういう感じで、ね。
科学的、非科学的も、付かず離れずでどこかしら繋がってたり、収束したりするのでは?と思います。
また、ね。
HSPにしても、精神疾患にしても、自分がスタートラインのものは、ほぼほぼ自分にしか作用しません。
だって、人それぞれ違うわけですから。
そういう、人の違い、個人差を考慮していない、個人レベルの情報が増えすぎなんですよ。
うつ病とかは気分障害だし、憂鬱レベルならだれしも浮き沈みがあるし、それが日常生活に支障があると医師が判断するから病気になってるだけで。
治るもなにも、常に浮いたり沈んだりして、下手すれば再発するという、寛解=一旦は落ち着いてる、程度にしかならなんですが?
過去に散々、治るという言葉を見ただけでなく、医師がそういう、ね。
言葉を使ってしまうのはどうなの?と思いますよ。
治るって言ってしまえば、いずれ良くなるという、安心の先取りをしてしまうことで、思い通りにならず、下手すると寧ろ悪化するという可能性。
そういう、一般人が気づいて、これは注意しないと・・・と思うようなことに気づけ無いんですかね?
まじで、疑問です。
うん。
注意しとかないと、言葉は凶器なんですよ。
大して知れても居ない人が、知ったかぶりで助けるとか、自分が助かったから安易な情報拡散とか。
寧ろ、混乱しか呼ばないし、混沌を発生させる要因ですから。
と。
何ででしょうね。
今日はぶんぶん丸しちゃってる感じがするので、そろそろ忍ばせるとしましょう。
それでは。