はずがない、と、かもしれない
自動車の免許を持ってる人なら、運転に際して、人が飛び出してくるかも知れない、子供が飛び出してくるかも知れないというように、予測をもって運転んしましょう、と言う話は聞いたことがあると思います。
こういう話は何気なく流しがちですが、こういう部分でも主観と客観の差があるんですよ。
主観:自分として、自分の立場で
客観:自分の立場から離れて、周囲、相手の立場を考えて
人が飛び出てくるというのは、相手側の見え方、事情、状況があるがゆえに発生するものであり、それに対して車の運転という移動しながら近づいてるわけですし、そもそもが他者の思考を完全に読むというのは不可能であり。
何かしらの理由によって飛び出してくるかもしれない、と客観的に捉えて考えたほうが、それが予測につながることで、自身の回避行動に、つながる、と。
と、冒頭が長くなりそうですが、主観と客観のお話なんですよ。
車の運転での例について
こういうのも、掘り下げていくと色々見えてくるんですよね。
まず、人。
大人だ子供だ関係なく、予想外の行動、予測できない動きというのはとるものです。成長するに従って、色々判断出来るようになるとは言え、咄嗟と言う言葉があるように、何かに気づいて意識を持った判断以上に体が動いてしまうというように。
予測とか可能性も、事故という部分で考えると、相当に突っ込んで最悪のケースを想定してないと発生してしまうもので。
とはいえ、どうしても普段だと意識するには難しい。
自動車であっても、運転に慣れが生じることでの油断という相反する側の発生もあるので、うるさいようでもあって、注意を当たり前のように促すものだと思います。
正直面倒なんだけど…
確かに面倒なんですよね。言われてしまうのって。
でも、それは言われてる時に、言われたことで強く意識出来てるからこそ、考えが及ぶもの。それに対して、面倒というようなら、寧ろ普段は出来ない方どころか、やってないと思います。
やってたら、面倒だと感じないですし、可能な限り最悪を想定しておくのは当たり前ですし。
こういう部分で、私個人の話をするのもなんですが。
個人として、周囲に驚かれる部分って、意外とそうある当人は想定済み、予測済みという事に対してというのも多いです。
だからこそ、なんでそんなに!?となるわけで。
そこを突っ込んで話してると、ありえないと言うだけでなく。
バカバカしい、アホくさいと言われたり。
そんな事考えてる暇がない、考えてたら身が持たない。
正直面倒だ。
と、様々な返事が返ってきます。
まぁ、確かに面倒かもしれないけど、個人的にはもう、感じ取りすぎ、気づきすぎだけでは対応できなくなったので、それを元に先を予測して回避するようになったのは、
そういう人たちにイジメられた、虐げられた、感情をぶつけられたという、ね。
私にとってはまさにそういう事すら死活問題。感情を叩きつけられた時のショックって、PTSDみたいに症状化するまで行かなくとも、嫌でも思い出されて苦しむということがあるんですよね。
そういうのを、捌こうにも周囲に居る人間の方が多いだけでなく、ぶつけられる側としては個人=一人なわけですから、違ったものを持ってしまった以上、予測して回避するようにしなければいけなかったんですよ。
と、過去の話が出てきましたが。
そういう人生を残念ながら送ってしまった、幼少期はもうすでに過去、という身からすると…
面倒でもやっておかないから、痛い目見るんですよ?
でしかないというか。楽を選んで苦を迎えても、面倒というのは、流石に主観がすぎると思います。
うん。
そんなはずがない!
個人としては、個人の有り様として何度も目にしてるだけでなく、私のほうが自覚できないほどに板についてて自然とやってることに対し、説明を求められた結果、
人が飛び出してくるはずなんて無い!
からの事故が発生するかのように、他者がなんやかんやぶつけてくる、と。
違う人間なんですけど?と行かないんですよね。
自動車の免許取得で言われるのは、自動車どころか、自転車であれ勢いが付けばおおよそ人間の命を奪いかねない凶器になってしまうから
という部分があるからこそ、とは思います。
かといって。
人同士であればいいんかい!とは思います個人的に。
お前みたいなやつは、会ったことがない、見たことがない、だけじゃないんですよね。
人間として、そんな事ができるはずがない!
作業に集中しながら、背後からの無言の視線に気づくというのも、何度と無くやってるのに、観測できてるのに、相手側としても私がそういう姿を見せるという事象を何度も経験してるのに。
自分と比較して、優れてる部分は受け入れない。
はずがない!というのは、主観だけでなく、主観が強すぎるがゆえの、自己弁護、自己擁護みたいな部分もあるんですよね。
こうやって、はずがない!を事故じゃない、傷を追ってない、命に関わってないとはいえ、何度もぶつけられるようだと、正直いい加減にしなさいな、とは思います、ええ。
はずがない!はずがない!って、今目の当たりにして驚いたでしょうに。
という感じで、はずがないというのは、現実逃避として使う人も多い、というのを個人的に自分以外の他者の様子から嫌というほど。
確認してたりもします。
人間を理解できるはずがないではなく、理解できるかも知れないとしないから、寄り添うことが出来ないわけで。
理解してもらえないというのも、言えば理解してもらえるはずとか、してもらいたいが強すぎて、理解してもらおうという寄り添いがないがゆえに、理解されない。
はずがない!だけでなく、こうなるはず!というのも、自分の思い通りという感じでね。
主観的な見方だけでなく、一方的な要望、理想も多いんですよね。
そして、主観であるがゆえに、こうなるはず!の場合は、同調しない人に苛立ちを覚え、怒りだし、ついには汚らしい言葉を浴びせる…と。
個人として、行き過ぎた自由が横行するという表現を使ったりしますが、おおよそ主観による主張というのが強いだけであって、実際の所自由というより、私の思い通りが横行しすぎですよねぇ?とか、時折呆れカエル🐸んですよね。
とはいえ客観も過ぎてしまえば
これまた、過ぎたるは及ばざるが如し、です。
今の自分がそうあるというか、自分自身が主観と客観で板挟みになるからこそ、どうしてもあがいてしまう状態にもなってます。
自分を大事に出来なさすぎ、というか。
まぁ、幼少期が幼少期故に仕方ないんですけどね。
感受性が過ぎただけでなく、その時点でも言語化という部分では、教えた内容に対して周囲の子より突っ込んだ言動とかしてましたし。
幼稚園に上がる頃には動物図鑑持ってね。
進化ってもう終わってんの?何で人間の上いないの?でしたし。
こういう部分でも、子供だからそんなはずがない!な人が周りに多すぎたんですよね。そして私にだけでなく、母にも少なからず影響があったので、母の言う油断=周囲がうるさくて仕方がないから、多くより私を言い含めるしかない、という状況に陥ったと言うか。
なにはともあれ、客観視は大事です。
結局なんにしても、相互で云々はありますし、今の世の中ってプライバシーという言葉の元に、個を分断しただけでなくそこに自由という物をくわえて、より個同士が分断しあうように仕向けて出来上がった様な世の中ですからね。
良くするなら、自由や権利にしても、差別にしても、主観的、自分はこうだからこうあるべき!こうなるはず!というのを捨てないといけないでしょう。
個人的にはそう思います。
あとがき
少し前にチェルノブイリでの事故を思い出すかの様に触れ。
今朝方、福島での事も再度触れて、色々思い出しながらみてましたが。
やっぱりこう、主観的だったり、自己弁護、自己擁護みたいな部分が強くなりすぎてると言うのは否めず。
事件は現場で起きてるんだ!ではないですが、対応してる現場と比較しての…みたいな映像も、そういう自分の立場というね、そういう物を守ろうとしてるような姿も見受けられ。
そして、その、自分の立場というのが、主観という。
たまたまこう、触れてて、事故の風化とか問題だよなぁ、とか考えてたわけですが、何がどう転がったのか、主観と客観という部分に行き着いてしまい。
想定外って、小さいそうなるはずがない!の積み重ねが積もり積もってしまってたから、大きくなりすぎるという部分は否めないと思います。
日本は島国というだけでなく、そうそう感染症による被害がないからって、考えようといってたのに、そんな万が一があるはずがない。
福島の件を深堀りして触れてたら、やっぱりこれか…と言わんばかりに出てきたんですよね。
過去には、そういう万が一はみたいに一笑に付すという事があったと。
現状、足元の地面、地殻がマグマを抑えてくれてますが、割れたら大惨事だと思いますし、火山の噴火なんかはその一端だと思います。
確かに常々、そういう部分に構えてるのは気疲れするし、そうそう起きもしないことに気をもむ事はストレスになるというのはありますし、わかります。
ですが、想定しておくことでの心構えくらいは、時折考えることで形成されますし、実際昨年からの感染症騒ぎでは、なんでそんなに騒ぐかねぇって感じで見てました。
客観視、客観的も出来なきゃダメとかそういうものではなく、現在は出来なさすぎてる悪い部分が出てるので、それを政治だなんだのせいにしてばかりじゃそれが加速するしかない、悪循環なんですよね。
なのでまぁ、何をどうするというわけでもなく。
時折思い出して考える、そうすることで少しずつ自分の中に、土台を作るってのをしないといけないんじゃないでしょうかね。
という事で。