
地獄の朝
色々受け入れただけでなく、明け方の明るさ。
それによって、また地獄が再びやってきた。
刷り込まれるほどに苦しんだ、地獄の朝が・・・。
小学校という、地獄の檻に出向かなきゃいけない。
お腹が痛くなったらどうしよう。
やっぱり痛くなってきた。
しかも物凄く痛くて、歩くだけでも出てしまいそう・・・。
でも、親も先生も助けてくれない。
耐えるしか・・・。
ない
そんな朝が。
今だに苦しめてくる。
とにかく”おかしい”
良い方にも、悪い方にもとにかくおかしい。
普通の子じゃない。
それは、幼い頃から既に持ってた、性別違和・・・。
というか、性同一性障害にしろ、性別違和にしろ、トランスジェンダーにLGBTQにしろ、そういう言葉があるから使ってるだけで。
厳密なところでは、個人としての発言は、こういうものとは違うほど、です。
とにかく感受性というか、あまりにも周囲=一般常識と違うだけでなく。
一般常識をぶつける大人が、”言葉で言い負けるから、逆キレしてしまう”
それ程に、説得できる言葉、安心できる空気を提供してくれてない。
それはもう、当時の記憶が残ってて、当時の感情のまま。
今でも朝を苦しむ事になるという、ね。
朝が来て、陽が差し込むだけで。
体が拒否反応示すかのように、胃がグチャグチャになるし、それ故に今だに「朝を迎える」がトリガーになって、激痛を伴う痛みが発生する。
「親や大人が、ちゃんと見て、聞いて、接して」
それを述べるのも。
私は当時の経験のせいで、今だに苦しんでるから。
そして、そこには親からすらケアどころか。
「イジメられるのは私の方も悪い」
「たかが腹痛。その程度なら学校に行けるだろ」
「病院に言ってもわからないというのに、学校にいきたくないからってウソを付くな」
etc。
トイレに篭って、下痢の状態なので実際に出てしまう。
一旦終わったと思って、トイレから出ても、また痛みがやってきて。
「このままだと、漏らしてしまいそう」
体からそういう信号が出てるのを感じ取るので、再度トイレに入る。
とはいえ、いい加減出かけないと遅刻する、という時間になると・・・。
”問答無用で叩き出されてました”
それでも、ね?
当時から、余りにも気づき過ぎてる。
それこそ、痛みがあって辛くて苦しいのに。
「辛いのは、苦しいのは自分だけじゃない」
親や先生が言うから、ではなく。
実際に、周囲が気づかないレベルでの、人の辛さ、苦しさ、悲しさを感じ取ってしまう。
だからこそ、面倒見が良い。
だからこそ、優しい子。
そして、それを自分の我慢のために扱える。
コレについても、何度と無く。
「そうじゃないよ。見えてるし、助けなきゃってわかるから」
小学校上がった1年生でも、コレだったんですよ。
そして、それを元に「客観的な判断の中に痛みも苦しみも込めず」
痛い思い。
つらい思い。
悲しい思い。
そういう物を、言葉と感情にして出すだけでなく、我慢してても、雰囲気や空気、表情や仕草で出してるから。
「頑張って痛みに耐えて、自分も頑張らないと」
あまりに感じ取れ過ぎるから。
客観視や、客観的な判断というのが、過ぎてしまい。
自分を苦しめてもおかまいなし。
それは、小学1年生の頃から、変わらないんですよ。
だって、そうしなきゃ。
親も先生も、怒って怒鳴るばかりで。
「会話が成り立たない、コミュニケーションができない。」
怒りの感情を大人が制御できてなくて。
感情に流されるばかりで、冷静さを失ってしまう。
しかも気づくから訴えると・・・。
バツの悪さから、更にエスカレート。
これが、小学1年生時点での「日常」ですが何か?
痛い、辛い、苦しい。
そう訴えると。
病院に行っても結果がわからない。
私が小学1年生=まだまだ昭和。
過敏性腸症候群なんて、言葉も聞かないほどだったので、その頃には無かったのかな?と思うほど。
ただ、病院って言っても、近所の小児科に行っただけで。
大きい病院に居て、正確な検査、というのは、してもらえてないです。
それなのに。
「病院でわからないから、そんなはずはない!」
でしたから(笑)
あまりの酷さに加えて、子供の頃の話でもあるので(笑)を付けて、笑い話のようにも語れるほど。
正直、そういう身なのでね。
親が子供に対して、接し方間違ってるなぁ。
そうやって、直ぐさま怒りをぶつけるから。
”その怒りが、子供に影響を与えて=感情の伝播で、子供も怒ってしまう”
それが、見聞きするだけで。
「感情の動きすらわかってしまうから」
気付いてしまう。
やれやれです、ほんと。
学校は更にひどく・・・
激痛だけでなく、実際に下痢を起こしてるので。
トイレに行くのは当たり前、なんですよ。
でも、頻度が多いから、と。
「アイツまた、トイレの大にいったぞ!ウンコもらしたぞ!ウンコマンだ!」
数人がそうやって叫びながら走り抜けていく。
そしたら即座に、周囲が”事実無根の話”から、視線をぶつけてくるんですよ。
汚い。
近寄るな。
うわー、小学生にもなって、まだ?
しかも、ね?
気づくんですよ。
教室の壁ごしでも、ね。
先に気づく→視線を送って目が合う、と・・・
汚いものを見る目でヒソヒソ話をしてる。
関わりたくないから、合ってしまった目を背ける。
お構いなしに”うわー、きったねぇ”という視線をぶつけてくる。
お腹痛いし、仕方がないことなのに。
一気に学年の大半がそういう、ね?
実際に漏らしたかどうか?なんてのは一切きにしないまま。
数人が”笑って馬鹿にしながら駆け抜ける”と、そういう、ね。
自分が在籍する学年。
その大半が、言葉に流されて、事実確認をしないままの、地獄に早変わり。
それ程に、負の視線をぶつけられるでなく。
「嘘だから。あの子達は実際にトイレに居なかったし、見てないから。トイレから出てきたのを目にしただけで、ウソ言ってるだけだから」
負の視線をぶつけてくる同級生だけでなく。
「先生が話聞かないのよ?」
「”た か が そ の く ら い”」
「”そうなるのも、貴方の方にも」
いわゆるイジメられる側にも原因がある理論しか、教師が出してこない。
それどころか。
他の子の場合は、クラスの数人がイジメたというだけで。
授業を変更して、クラス会議。
「イジメについて」
を、先生がやる。
”これすらも、日常でした”
だからこその、
「親すらも敵」
ケアによる安心。
受容による安心。
与えてもらったことがないのよ。
何故そうなったのか?
いやまぁ、「話聞かないから」
これだけです。
とはいえ、そういう目にあった私が言ってるだけ。
そう言われそうですが。
多分、その時の当事者が連れてこれて、問い詰め様なら間違いなく。
「言い訳します」
そういう行動をされると、ね?
”只でさえ、気付き方が異質なので”
視線や態度、空気や雰囲気、言葉の使い方並べ方ほか。
その人から漏れ出る感情を「気付いて学習してしまう」
でも、そうそう、そういう人どころか。
小学校1年生の時点で「大人でも、それ程の人は居ない」と言われるほど。
”口を開けば、図星や建前の裏の本音を指摘して、怒らせることすら出来てしまうほど”
ただただ、反論するばかりではなく。
反論しながら”目に映る部分”があればすぐに気付いて学習してしまうんですよ。
だから、ね?
経験として話しを聞いてもらえない!というのではなく。
親だろうが、大人だろうが、そういう図星を付いたときと同じ様に。
「これは、話が聞けない状態なんだな」って、客観的に。
目で見るだけで”把握してしまう”から。
感情を制御して、自分を引き下げることが、
出来てしまうし、やってしまうし、それが”余りにも自然とそうある”様子なので。
「ちゃんと”話しを聞いて欲しい”」
話しを耳に入れてるだけで、なーんも気付けないのは、流石に低レベル。
そういうのも、こういう経験ではなく、今度は成長してから。
相談上手、聞き上手、教え上手、と。
そういう、目に映りさえすれば、目が拾ってしまう。
感じ取って気付いてしまう、が良い方に出るから、そういわれてたわけで。
逆に、それは流石に、自己責任って時には、突く方に出てましたから。
こういう悪い部分がある、実際に怒ってる。
でも、言葉を向けられたから覚えてそうなはずの周囲が覚えていない。
それ故に、良い方に出た時は褒められるという、矛盾を示す。
ぐうの音も出ない。
それ程正確に指摘して、反論出来るけど。
した所で、直ぐ様感情的になって、客観的な整理と話が出来ない。
そういうのが、様々で拾えてしまうし、分かってしまうから、言わない。
ホントこう、敏感どころじゃなくて。
「お前はエスパーか?心が読めるのか?」
目に見える、耳に聞こえて感じ取れるという部分が。
周囲にとっては過ぎてて読まれる=エスパー、超能力者か?になるほど。
余りにも細かすぎる所に気づく=少しでも負の感情が漏れるようなら、
散々苦しんできたから、それこそ自己防衛、防衛的な本能と言わんばかりに。
自分自身も理解しきれず苦しむほどに。
自然と、目や耳が拾ってしまうんですよ。
目に見えて行動で示されたとか、それはもう、目に見えてる現実。
その現実に対して「何故そうなってるのか?」という追求が出来ないようなら。
「何も見えてない、気づけてない」
そうある側からは、そう言うしかない程度なのよ。
なーにが、生きづらい、だ。
甘えんじゃねー、ですよ。
度が過ぎるから、自分に向けられて無くても。
縁も関係性も無くても。
気づくことが出来てしまう範囲でやられれば。
気付いてしまう=ムダにネガティブを受け取ってしまう。
だから、辛いし苦しい。
でももう、慣れました。
だってそういう人だから。
だってそういう家族、そういう関係性だから。
人の目もはばからず、外に出ても、恐らく家庭でもそうなんでしょうね?という程に。
やらかされると気付きます、町中だろうが、スーパーだろうが、子供だろうが。
だから、ね?
「自分にしか目がいかない親、そういう人の話は、役に立たない。」
バッサリ言葉で切り捨てるんですよ。
指摘してもいいですが、凡そ、ね?
バツの悪さから”ぐぬぬ”しつつ、限界越えたら切れる。
そういうタイプってわかりますから。
そりゃもう、呆れるほどに、様々に違う他人から。
そうある様、様子、状態の変化の細かい部分を見て。
幼い頃から、変わらないと言ってしまうほどに、見て学習してますから。
受け止めてもらえなかろうが。
あまりに気付きすぎるから、それを元に多角的かつ、客観的に判断して。
自分を制御出来てましたから。
小学1年生の時点でも。
ほんとこう、一体何が見えてるの?
度が過ぎ、どころではないのかも?
なんかこう、雲をつかむような話というか。
にわかに信じがたいとは思います。
でも、そうやって生き抜いてきたし、だからこそ、今でも。
朝が来ると地獄。
く~るしみ~の あ~さがきた
じ~ごぉ~くの あ~さ~が
なんて、替え歌謳ってしまうほど。
朝が来ると、自分の意識や気力でも、動かせないほどに動けなくなる。
気分も沈んでしまう。
もう、気力もなにも、痛みだ辛さだに耐えるのは限界だ・・・
だから「うつ病という診断」なんですよ。
気持ちが沈む=体も動かなくなる。
もう、生活に支障がでてる、どころじゃないんです。
子供の頃から、ずっと。今でも、変わらず。
というか、30年耐え切って、社会人としてやってた事すら、ね?
「あんたそんな状態で・・・」
と、言われたことがあります。
でもこれが、悲しいかな。
距離感近いと、”そこまで我慢させてた”という事の受け入れ拒否が発生する。
だから、訴えない。
分かってるから、敢えて退く。
そして、これが、母の後悔という部分。
ガンになって、もう無理だと悟って、モルヒネを使う覚悟が出来たからか?
それまでの看病の状態だけでなく、過去も相当に思い出した結果、
「親として守ってたつもりだった。でも、つもりなだけだった。」
「守られてたのは、自分のほうだ」
落とし込めなかった当時と違い、今では、ね。
その時は「そんなことないよ?」と咄嗟に言いましたが。
色々整理できた今は、半分正解、半分外れ。
「私自身にも原因はあるから」
と、返すでしょう
余りにも度が過ぎてる。
とはいえ、良いも悪いもがそうあるのを認めたら。
抑え込もうとして、怒りをぶつける、その他大勢とぶつかりあうだけ。
そういう人生だったので、言えないんですよ。
だってもう、ね?
当たり前のように「そんなのはお前だけだ!」になってましたから。
なーんで、味方がいないのに。
同じ敵を持つなら、一旦は協力しましょうという、周囲の大勢と。
戦うなんてアホな真似ができるのか。
そんなの自業自得、墓穴をほるだけなんですよ。
そういうのが、ね?
私が指摘した瞬間に、顔、表情だったり。
態度や体が見せる仕草だったり。
様々から、ね?
「やっぱりあれよね?指摘されると、認めたくないから自己擁護しかできないよね(苦笑」
ってわかってしまうんですよ。
そして扱えるからこそ
初見であっても、相談という状態なら、相手の事が少なからず。
相手の方から「なんでそんな所に気付けるの!?」と、先んじて驚かれるほどに。
自然と扱ってしまうんですよ。
もう、目に見えて、耳に聞こえて、色々出てるから。
それだけじゃなく、頭の中で勝手に再現ムービー状態でもあるし、そこは”個人の頭の中での推測”の領域なので、「多分」とか「恐らく」とつけて。
「何となくこう、話しを聞いてたらこういう事が想像出来たんだけど・・・」
って濁しつつ伝えるけど、実際はそれ程に。
表情や仕草、態度という目に見える部分。
話してる内容や、声の状態ほかの耳に聞こえる部分。
拾って、掴んで、得られた結果から分析、追求して。
”気がついたら扱ってしまうので”
「あ、ごめんね?多分だから、偶然だから!」
更に強く念押しして、相手に余計な感情の波を立たせない。
その為の念押しも自然とやってしまうほど。
相談をする、乗る上で、感情の波がたって、感情的になるということは、愚策中の愚策です。
何がどうあれ、客観的かつ、建設的な話が出来ないことには、相談なんて乗れたものじゃない。
それを、事が済んだら更に冷静に話せてしまう。
それを、最中には無意識でやってる。
それは、”そういう事を感じ取って学習したから”、です。
何を感じ取ってるか?
色だろうが、光だろうが、臭いだろうが。
人の様子や感情だろうが。
気づくことが出来るという、現実、から、ですよ?
人がどうとか、光がどうとか、そうじゃない。
実際に生きてる上で、目の前だったり、自分が置かれた環境だったり。
普段意識しないでしょうけど、当たり前の現実として、発生してること。
事象、なんですよ。
太陽がある以上、光なんて常時降り注いでるから。
強く受けた時だけ、ではなく。
日中なら常に、目が光を受けてんの!
なんで、この程度”気付けない、感じ取れないの?”
今生きている。
生きてるからこその現実がある。
その中には、様々が入り乱れてる。
そして。
それを歴史も含め押さえて、見えないはずなのに、イメージとして見える物がある。
だから、現状なんて。
「現実にそうなってる以上、なるべくしてなったから、現実」
でしょ?
賽は投げられた、でおなじみのカエサルですら。
「人間、都合の良いものしか見ない」と。
紀元前からそういう言葉が残るほどに、普段、現実を客観的に見ることが出来てない。
それも、良い悪いではなく、人間としての一面、ですよ。
そして、何が出来る、出来ないだけでなく。
それ程敏感に感じてるなら、本人の中で。
他者にとっては、”にわかに信じがたい”になるから、繋げることが出来ない様な状態でも。
そうある本人なら”深い部分での類似性”という部分から繋げることが出来る。
ただ、それを表に出すと、証拠だ、エビデンスだ、という話にもなる。
そこを、どうにか上手くやらなきゃいけない、ただそれだけ。
それも、現実や人間、人間社会が持つ”一面”ですから。
そこをやれてるから”何かしらあるとおかしいだなんだと否定されるのに”、別な状況だと”良い評価をされることにもなれば”、自分としては、ごく普通の事と出来てしまうので。
おかしいのに、普通に溶け込めてる。
だから”今まで生きてこれてる”
良い悪いあるし、精神的な病みにもなってますけどね。
良いも悪いもが行ったり来たりするのは、人それぞれ違うから。
人それぞれ違うということは、善悪すら、逆転するの。
それも、日常とか、当たり前とか、そういうレベルで発生してるの。
だからこう、一方的にしか見れない人は。
正義中毒と言わんばかりに断罪する。
そして、それはもネットの世界まで侵食してんのよ・・・・。
というのが、手に取るようにわかりますよーう。
あとがき
なんかこう、最近、どうにも朝が・・・。
嫌でもフラッシュバックするんですよ。
お陰で今日は、今は落ち着いてますが下痢して、ドボドボ出てます。
体にもう、染み付いてしまったんですよね。
毎日のように「痛い」と訴えれば、「そんなはずはない」だ、「甘えるな」だ。
学校ではトイレに行くという生理現象に対し「イジメられるのは貴方も・・・」と、話しを聞きやしない。
それが、ほぼ毎日です。
週の何日この苦しみに耐えなきゃいけないの?
なんで、誰もお話きいてくれないの?
で し た か ら
それでも生き残れます。
道も踏み外しません。非行に走るとか考えたこともないほど、です。
あまりに感じ取れてしまうから、客観的な情報を相当量処理してただけでなく、それをもって客観的に判断出来てたんですよ。
つらかろうが苦しかろうが、客観=感情を持ち込まない、ですから。
それは自分だけでなく、周囲の言い分からも、です。
そういう部分も、感じ取りすぎてしまう分、出来すぎてしまってる。
とはいえ。
こういう思いや経験をする人が生まれてほしくないので。
HSPという言葉は正しく知られてほしいですし、それ以上に、ね?
直ぐ様感情揺らされて、口開く様を直せ!
感情的になる人が多すぎですよ。
ネットでもそういう声が増えてますし。
HSPという言葉も、自分の不満のはけ口だったり、自分が良いとするものを語るだけで、言葉の意味や内容という、本質の部分がほぼでない。
敏感、繊細、生きづらい。
じゃ、済まない。
その程度じゃないほどに、様々に。
感じ取る、影響を受ける、そうすることで拾える=脳が処理して判断出来るし、それ故に「普通じゃない」行動すら、いとも簡単にやってしまうんですよ。
先日も書きましたが。
「感じる」という言葉が出てくるのは、脳で処理されて、そういう言葉や思考が浮かんでるから、言葉にして表に出すことが出来る、ですよ。
幼稚園児の頃は、そういう処理が出来なくて言葉が浮かばない=言語化出来ないから、困ったり、やらかしたりする子が周りにいましたけど。
気付いて「代わりに言語化して、伝えて、気づかせる」
こういう事が、幼稚園児の時点でも、出来てました。
発達障害の人とか、こういうこと出来てたんですか?
HSPってつけたり、自分がそうだと言う人いますけど。
感じるって、感情や感想だけじゃないです。
五感とか、感覚器とか、なんで目、耳、鼻、口、触覚に「感」が付いてるか?
こういう事すら気づけてないですよね?
言葉から、成り立ちはどうあったか?何を意味する言葉なのか?とかを、
感じ取ってないですよね?
他人や周囲への注意が欠けたり。
自分の興味や拘りが強かったり。
そうあるから、他者の深い部分なんて何も感じ取れないですよね?
ほんともう、ここまで言わせるなよ・・・ってほどに、お粗末。
生きづらさなんて、あまりに感じ取りすぎるだけでなく、同等レベルの人が居ないと、話す事もできなければ、ただただ否定されるばかり。
そうあるからこその困惑から、悩みや苦しみが深くなる。
でも、相談が”できない”んですよ。
そういう部分が深すぎて、受け止められる人が少ないので。
過ぎたるは及ばざるが如し。
感じ取りすぎるだけでなく、それが元で、人が良すぎというほどに。
気遣いなんかも自分じゃ気付けないほど自然に”やり過ぎ”てしまうことにもなります。
気を遣ってくれてるし、問題ない、寧ろ感謝するレベル。
「でも、お前はおかしいだろ」
良いことをしても、やり過ぎるようなら、異なものとして、否定を食らうんです。
って、太字が多いなぁ。
本当に「普通」から浮き出て「過ぎる」と。
そう言われるのが日常茶飯事、当たり前で普通のこと。
そもそも、素とか、自然体での感じる、すらも過ぎてますから・・・。
そうなることうけあい、です。
過去の事と割り切れてても。
幼い当時は余りにも辛すぎた。
なんで小学校低学年で、道路に飛び出て車に引かれてシねばいいのかな・・・とか思う生活しなきゃいかんのよ?
という、状態だったせいか、今でも朝がくると。
お腹が痛くなって、下痢をして。
いわゆる活動時間=学校に行ってる間、常日勤としての勤務時間。
このくらいは痛みや、体力消費との格闘になりかねないんですよ
辛さも苦しさも感じないのに。
体が勝手に思い出して、つらい状態になってしまうほどに、しみついてるというか、刷り込まれてるというか。
日光なんて、それほどに辛いもの、です。
でも、ツライツライ言ってたら、いきてけねーって、ほんと。