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「母国語」って、ナゾじゃない?ってずっと思ってた。

 プロフィールの質問項目でよく見かける。母国語はなんですか?「母国語」。母国の言語?英語ではmother tongue。「母語」。母親が話す言語。言語学では一番最初に習得する言語は「第一言語」。出身国の言語と母語と第一言語が全て異なる可能性だってある。だが聞かれるのは「母国語」。日本人で、日本人の両親から生まれ、最初に会得した言語が日本語の私は「日本語」と答える。

 なぜ私にとっての日本語は「母語」でも「第一言語」でもなく「母国語」と呼ばれがちなのか。それは日本という国民国家(Nation State)で、国民(Nation)を形成するための装置の一つ、言語政策(教育)が成功しているからだろう。

 日本語は小学校から高校まで「国語」という科目名で教えられる。英語は「英語」という固有の言語名なのに、日本語は「国語」。国の言語。日本という国には東京弁も津軽弁も京都弁も、アイヌ語も琉球語もあるけど、「国語」として教わるのはただ一種類の、標準化された「日本語」だ。

 かつてはそれぞれの方言・それぞれの言語として存在していたことばたちが、標準化され、統一されて「国語」として教育される。統一された言語を共有することによって、私たちは「日本語という国語」を共有する「日本人」だという意識が芽生える。

 ベネディクト・アンダーソンは、近代という時代は、「印刷資本主義」により、印刷された言葉が新聞・小説などのマスメディアを通じて流通し、直接には何の関係もない個人の間に「想像上の」絆が生まれたとして、上記のような帰属意識を「想像の共同体」と呼んだ。

 「日本人なんだから日本語を話す」とか「日本語を話すんだから日本人だ」というのは今となっては当たり前かもしれない。しかし北海道に住んでいる人が、会ったこともない沖縄に住んでいる日本語話者を「同じ日本人」と認識するようになったのは、実は明治以降、ここ百数十年の話なのだ。(※1886年に小学校令(義務教育開始)、1874年に読売新聞、1879年に朝日新聞創刊(活字メディアの発達)。私たちは日本語という言語と、日本語で書かれ話されるメディアを通じて、全国の人々と「同じ日本人」という「想像上の」絆を結んでいる。

 それを可能にするのが、小学校、中学校、高校で行われる言語教育である。「国語」という教科は、「児童/生徒よ、あなたは日本という国民国家の一員だ。日本人は日本語という“国語”を話すのだ」というメッセージである。「日本人」というナショナルアイデンティティと「日本語話者」という言語的アイデンティティがぴったり重なるように、私たちは教育されている。だからこそ、「母国」の「言語」という「母国語」という言葉が、疑問や違和感なしに多用されるのだ。


 さらに「母国語」という言葉は、国民国家という主題のみならず、シティズンシップという主題にも関わってくる。シティズンシップには、国籍という法的側面の他に、ナショナルアイデンティティという社会的・文化的側面がある。「日本人である」ということには、「日本国籍を持っている」ということ以外にも、社会的・文化的要素が関係してくるということだ。言語はそうした社会的・文化的要素の一つと言える。「母国語」という概念やそれを生み出した国民国家の言語政策は、この点でシティズンシップと深く関わっている。

 「日本人=日本語話者」というイメージを教育されている私たちは、ある人が日本国籍を持ち、母語や第一言語が日本語でも、日本語で教育を受けていても、外見が日本人に見えない=外国語話者と見てしまうということがある。(※蛇足だが「外国語」や「何ヶ国語」という言い方も上記の「母国語」と同様に、国民国家の言語政策に影響された用法だろう。)

 例えば『But we’re speaking Japanese!』の動画のようなことを、私自身、大学のキャンパス内でやらかしたことがある。昼食を食べる場所を探していて、アフリカ系の外見的特徴を持った学生に英語で「Can I sit here?」と聞いてしまったのだ。彼女は日本語で「空いてますよ」と答えた。ドキっとした。モロッコ人の母と日本人の父を持つ私の友人が、「よく英語で話しかけられる。私東京生まれ東京育ちなんだけど」と言っていたのが思い出された。慌てて謝罪した。こういう瞬間に立ち会うたびに、彼女たちは自分が「日本人でない」と言われているように感じるのかもしれない。

 また反対に、「日本人=日本語話者」というイメージを私たちが教育されているがために、「日本国籍を持っているなら日本語を話せるはずだ」という思い込みも起こる。例えば、大阪なおみ選手に対して「日本語でコメントお願いします」と繰り返す日本の記者の例がそれだ。

 吉野耕作によれば、ナショナリズムとは、「われわれは他者とは異なる独自の歴史的・文化的独自の共同体であるという集合的な信仰(Nation)や、それを自治的な国家(State)の枠組みで実現、推進する意思、感情、活動の総体」だ。国民国家の成立そのものが「われわれ」と「他者」の区別に立脚しているのだから、どんなナショナリズムも「われわれ」意識の共有・教育と、「われわれでない他者」の排除から自由ではない。

 「母国語」という一つの言葉をとっても、「日本人=日本語話者というわれわれ」意識をつくりだす言語教育という装置や、「日本人に見えない=外国語話者/日本語を話さない=ホントに日本人?」という排除の存在が透けて見えるのである。

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