本当の願い
わたしの生き方は、まず身体の都合を聞いてから、できるものの中から選ぶ、という選択の仕方の積み重ねだった。結果、望み通りの得意な道を選べることはほとんどなく、生きるために苦手な道ばかり歩んできたように思う。また、そういうひとは世間にも少なくないだろう。でもそのひとたちには愚痴を聞いてもらえる友人などがいるはずだ。わたしにはいなかった。
そして今、やりたいことを自由にやって良いのだと頭では理解していても、自分の本当にやりたいことがわからない…
いや、ひとつだけある。
耳の聞こえが悪く、両耳に補聴器を装着しても、はっきりと大きな声で話すひとの声しか拾えない日々、それは、小さな頃は何でもないことだった。聞こえていない自覚すらなかった。そのうちに腎臓疾患が見つかり、耳どころではなくなったり、母が片手を離してしまったり、揶揄われたり軽いイジメにあったり、いろいろあるうちにわたしはすっかり自信を失い、周りの大人が決めた通りに歩むしかない人生に突入していった。
それでも密かな夢はあった。
難聴がこのまま進み、すっかり聴力を失ったら、障害年金を貰いながら、南の島で絵でも描いて暮らそう。
少しのお魚と果物を分けて貰えればそれでいい。どうせ聴こえないから言葉が分からなくても問題ない。辞書を使えば書いてあることは理解できる…
なんでもない普通の夏の日だったと思う。定期検査に訪れた病院で、異動により新しく担当になったT先生から爆弾を落とされる。
「これは、手術、どうするの」
「え。前の先生が自信がないって言うからそのままですけど」
「じゃあやろう。オペ室いつが空いている? …」
T先生は看護師さんと話し、あれよあれよという間に、2週間後に手術の日が決まった。
成功率は50%、術中に内耳液が漏れればそのまま失調する、との説明。
失敗に終わっても平気だった。今のまま放っておいても聴こえなくなっていくんだし、それが早まるだけのこと、そうなったら南の島で海を見ながら暮らすと決めていたから。
そしてあっという間に2週間後、イチニイサンで全麻で眠って、次の瞬間
「Kさーん、聞こえる〜?」と看護師さんに起こされて、そこで初めて愕然となった。
ええ…あたしの南の島は…?
諦めなければならなかった。
生きていく為には、弱い腎臓を抱えたまま一生働かなければならない。その事実に打ちのめされそうになった。
わたしは夢と引き換えに聴力を得たのだ。
そして気付いた。
聴こえなくなった時のことは想定もし、覚悟も決めていた。
でも聴こえるようになった後のことは何も考えていなかった。想像もできなかった。
普通のひとが20年近く掛けて自分の生き方を模索し、たくさんの選択肢の中から仕事や生き方を自由に選び、恋愛したり結婚したり子供を授かったり…れ、恋愛?!結婚?!出産んんんーーーー?!
無理、むり、ムリーーーー!!!
26歳にもなって、また世界が変わったのだ。大転換である。
それは、良いことのほうが多かったと思う。
たくさんの友達ができ、たくさんのことが経験できた。T先生には感謝の思いしかない。
一方で、良いことばかりでもなかった。
今まで「こう」と思っていた生き方を変えるのは本当に大変で、未だに戸惑うことばかりである。
準備期間もないまま新しい人生に突入してしまったから、次々に起こる出来事にいちいち振り回され、自分の望みが何処にあるのかを考える余裕もなく、今は目の前のことをやっつける、という道を半ば強制的に歩まされて来た感すらある。ずっとずっと後手後手のままなのだ。
あのとき、T先生の決定に従い、手術を選択したのは紛れもなく自分自身である。
手術から3年くらい経ってようやく、あ、自分ももう恋愛しても良いんだと気付き、初めてできた彼氏とそのまま結婚したのも、好きなひとが出来て、両思いになれたなら結婚するもの、という幼稚な判断で自分自身で選択した。仕方ない、生まれ変わってからまだ3歳だったんだもん。
あれから何年も、何十年も経って、いろいろなことが起こって、ヒーヒー泣きながら乗り越えて、いま、思う。
南の島に住みたかった。
静寂の中、風に吹かれながら何処までも続く海原に心を遊ばせ、寄せては返す波を見つめながら眠りたかった。
疲れていたんだ。
物心がついたころからずーっと、疲れたまま生きているんだ。
でも、今なら、手を伸ばせば届く。
手放したはずの夢が、決心さえすれば、叶えられる。
本当の選択のときがいま、訪れているのかもしれない。