私とガーデニング
自営ガーデナー(註:対外的にはプランツコーディネーターを名乗っていた)歴25年、植物の仕事にかかわり始めてから28年ほどになります。
世紀が変わる前後のガーデニングブーム時代には、個人のお庭づくり以外にも多方面からお仕事の依頼が来て、最盛期はガーデニングの講座や講習会、講演会などで年間60回以上も出張したこともありました。
忙しいのはありがたかったのですが、お付き合いの幅が広がると多様な価値観に直面し、こちらが伝えたいことが曲解されたり、否定、批判されたり、損害を被ることも出てきて、ガーデニングっていったい何なんだ!?
と自問を繰り返すようになりました。
辞書的には、gardening =「園芸,庭造り;植木屋の仕事,造園(術)」 ということですから、日本でも昔から行われてきたことに間違いありません。
「造園」でなく「ガーデニング」というひびきは、なんかおしゃれでハイソな感じがしますよね。
講習会で受講者の方たちにこんな質問をしてみたことがあります。
「ガーデニングを始めてどれくらいですか?」
すると、
「いままでやってきたのはガーデニングっていうのかしら。でも花が好きで、10年も前からクンシランをずっと咲かせていますけど。」
てな答えが返ってきたりします。
ガーデニングってなに?
ホームセンターで買ってきた鉢花を窓辺に飾るのはガーデニング?
おじいちゃんの盆栽いじりはガーデニング?
庭の草むしりはガーデニング?
プランターでトマトを栽培するのは?
新築祝いにもらった1.5mものの幸福の木に水やりするのは?
友達に分けてもらった金のなる木をただ鉢で置いてあるのは?
だれが、「違う」と言い、だれが「そうだ」と言うのでしょう。
私が、「それも立派なガーデニングです。」と言うと、
「それなら、ガーデニング歴15年になります。」(-_-;)@*#$%ЖЮ⊿★Ω◎ξ!!
人がYESと言えばそうだし、NOと言えば違うんですか?
でもきっと、ガーデニング雑誌「BISES」(ビズ:現在は休刊)なんかに載っているイギリスの片田舎に住むスチュワートさん夫婦のお庭や
南欧の石畳の町並みに飾られた鮮やかなハンギングなんかを見て、「何て素敵なんでしょう!こんなガーデニングにあこがれるわぁ」と思うんですよね。
現代はホントに複雑怪奇。もはや「名は体を表す」ということわざは死後に近い!ガーデニングという言葉は、幽霊みたいなもんです、ニッポンでは。
日本人って「型」や「枠」がないととっても不安になる民族なんですよね。それが、歴史ということなんだと思うんです。
なら、われわれらしく、その歴史に忠実にガーデニングも型どおりのものをやっていけばいいんじゃないでしょうか。
極端なことを言うな!と怒られそうですが、私たちは、空調の行き届いた快適な部屋で、リモコンを押すだけで、食事がでてくるような生活が理想だと思っているフシがある。自分が動かなくても、欲しいものが手に入るという錯覚をすることがままあるわけですよ。
「うちの庭和風なのよ。どうも気に入らなくて。手入れもできないし。もっとおしゃれにしたいんだけどどうしたらいいのか…」
親の代までの通り、年に二度、植木屋さんに手入れしてもらえば、庭はずっときれいでいられるわけです。でもしたくない。お金かかるし。和風は好みじゃないし。
カンタンですよ。
自分で直せばいいんです。自分の好みどおりデザインすればいいんですよ。「それができないから困っているんじゃないの!」
それなら、プロに全部任せますか?それだけの予算はありますか?
ないものねだり。結局、何も進まないでしょ。
省略できるところ、努力するところ、折り合いをつけるところ、そういうことを少し時間かけて考える必要があるんじゃないでしょうか・・・
などと当時は、鼻息荒く訴えたりしたものです。
gardeningを少し学問的な言い方ではhorticultureと言います。後ろのcultureは文化・教養を意味しますが、同時に「耕す」「開拓する」という意味もあります。
こんな言い方もあります。
「cultivate one's (own) garden 自分のことをする,自分のことに気をつける」
どうでしょう。「ガーデニングは“自分開拓”だ!」というのは!
それなら、どんな形であれ植物と接点さえあれば、流行や新品種に惑わされることなくずーっとガーデニングが続けられるとは思いませんか?
あせらず、ゆっくり、歩く速さで。
そんなこんなで、里山に移住してきて、己の感覚を裸にし、「生きる」という共通の望みを植物や生き物たちと共有できる永続的な喜びをかみしめている毎日です。万物に感謝です。
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