私たちは、つい捕らわれてしまう:思考の切り替え研究室
こんにちは
思考の切り替え研究室
室長のりなです・・・
・・・思考の切り替えや
人の心や精神世界について学び
人生を楽に楽しく生きる方法について
ひとり密かに研究しています。
今回も
その研究に関することを
書いていきたいと思います。
私たちは
拘っていることに
つい捕らわれてしまう。
これを持っていなければ
楽しくない、幸せじゃない。
パートナーに
こうしてもらわなければ
愛してもらえていない。
親には
こうしてもらわなければ
愛されていない。
思い通りになっていなければ
幸せとは言えない。
こんな風に。
私も時々
はっとします。
私はゲームが好きで
子供の頃は
自分が苦手でも
弟のプレイを観ながら
一緒に考えたりして
楽しんでいました。
任天堂のゲーム機や
プレイステーションなど
新しい本体が出るたびに
親に買ってもらったり
大人になってからは
自分で購入してきました。
去年までは
ニンテンドースイッチを
持っていましたが
金銭的な理由から
手放してしまいました。
手放すことは
自分で決めたことだし
その時はそうすることが
最善だったと思っていますが
好きなものの
ひとつだったこともあり
ゲーム機を持っていないことが
不幸なことのように感じて
不足感に捕らわれてしまっていました。
スイッチを手放していなかったら
手元でちまちまとゲームをする幸せ。
またやりたいゲーム
やってみたい新しいゲーム
それが楽しめたら
どんなに幸せだろう、と
考え始めるとワクワクした次の瞬間
それができない今の現実を見て
ドーンと不幸のどん底に
叩き落されるのです。
そして
その考えのまま
日々の生活を送ると
素直でいられなくなり
人間関係がうまくいかなくなったり
なんでも何かや誰かのせいにして
自分の本質から
離れていってしまうのです。
でも実は
ありがたいことに
一番ハマっているゲームは
スペックの低い我が家のPCでも
遊ぶことができるので
本当にまったくゲームが
できないわけではなく
手元でちまちまとゲームすることや
他のゲームや新しいゲームをすることに
そこにしか幸せを得られないと思って
拘ってしまうと
たちまち捕らわれてしまうのです。
夫婦関係においても
「夫婦ならこうするべきでしょ」
という認識がお互いちがう
ちがうけれどそれは
愛していないのとは違う
ということを分かっていなければ
ただ一緒に過ごせる幸せは
無かったことになってしまう。
例えばそれで別れたとしても
また誰と夫婦になろうとも
自分の「夫婦ならこうあるべきでしょ」に
はまらなければ別れることになる。
それが辛くないし
色んな人と結婚できて
楽しくて仕方がないのなら
それも良いと思うし
1人になってもいいし
それを望まないのであれば
なにをもって幸せかのハードルを
少し下げてみても
損はないんじゃないかと
私はそんな風に思います。
私たちはつい
自分の思った通りじゃないと
思った通りの愛し方を
してもらわないと
不幸だと思ってしまう。
けれど
本当にそうだろうか
他人や外側に
何かを求めている時
はたしてそれを得たとして
本当の意味で幸せなのだろうか。
誰かが
したりしなかったりすることで
自分が不幸になるとしたら
それはとても窮屈で不自由で
楽ではないと思うのです。
その誰かには悪気がなくても
いつも期待を裏切られる人生を
自分は生きなければならないのは
楽ではないと思うのです。
人に期待する気持ちを
感じてしまうのは
悪い事じゃないし
いけないことでもないし
裏切られることだって
決して自分の価値を
下げたりすることではないけれど
ただ「そうなんだ」と
気が付くことさえできれば
楽な気持ちへと
自然と傾くのではないかと思います。
気が付かないと
ずっと感情が
「悪いことが起きたー」
「いけないことが起きたー」
「命の危機だー」
と騒ぎ立てるので
疲れてしまいます。
騒ぐ心には
「そうなんだね、感情はそう思ったんだね」と
優しくうなずきながら
そっとその場を去るように
手放せるといいな、と思います。
私も実践していますが
忘れてしまうこともあるし
捕らわれてからじゃないと
気が付けないということもあって
いつでも完璧にできないのですよね。
でも、やっぱり
やってみた人
やってみようと思った人だけが
こうやって自分の心と向き合って
人間として生きる辛さから
少しでも楽になっていけるのではないかと
私はそんな風に思います。
とはいえ
人間らしく没入して
様々な感情と一体となって
人生を楽しみたい人もいるので
私が楽だと思う生き方が
誰にとっても楽しいかというと
そうではないとは思いますが。