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写実(リアル)のゆくえ

本日お出掛け日和、晴れ日和。
久留米市美術館で開催されてる「写実(リアル)のゆくえ」展に行ってきた。

美術という言葉が生まれた明治時代に活躍した松本喜三郎の生人形や、高橋由一の油絵、工作品などを導入とし、日本の写実表現がどのように変遷し、現代美術や彫刻における写実とは何かを提示している展覧会である。

高橋由一の「鯛」はこれまた山田五郎オトナの教養講座で知っていたので、実物を見るためにGO!

山田五郎のオトナの教養講座↓


追求される写実(リアル)

今現在、現代美術の世界では写実ブームが到来しているんだそう。
やはり時代は回るようだ。
展覧会では、伝統ある写実表現が息を吹き返しているものもあれば、そこから脱却した新たな写実を生み出している作品もあり、非常に興味が湧いた。

会場始めに堂々と展示されていた水野暁氏の作品は、母親の姿を連続的に描いていたけれど、その姿はどんどん抽象になり、最後にはどの線が何を表しているのか分からないほど、入り乱れていた。

生身の人間がこの世界をどう捉えていってるのか

ある種、これは私たちの世界がいかに曖昧で不安定な世界であるかを、見事正確に切り取っているのではないのだろうか。

生を写し取ってるのか死を写し取っているのか、10年近く答えは出ていません。

こちらは、昆虫の自在置物を製作している満田晴穂氏の言葉。
本当に緻密で精巧な金属工芸品である自在置物たち。
足の毛や触覚、羽根、眼球……全てに至るまで本物と見間違うほどに、再現されてあるその作品は、ある種の命の神秘さと美しさが表現されている。
まるで生きてるかのような自在置物。
しかし実際は、もう死んでしまった昆虫をモデルに製作されている。
もし、生きてる状態の昆虫をそのまま参考にすることが出来れば、その時出来上がるものは、本当に置物なのか。それともーー

人の技とは思えぬ写実(リアル)

いつかゆらっと動く理想の金魚を描きたい

そう語るのは、堀田隆介氏。
彼の作品の代表作はなんと言っても「金魚酒」。
私はこの作品を見た時に、一瞬「これ本物金魚なんじゃ…?」と思い、ゾッとしてしまった。
もちろんそんな事はなく、この作品は本物の酒升に透明な樹脂を流し込み、その上に綺麗な金魚を描く。その金魚が乾いたら、その上からまた樹脂を流し込み、固まったら金魚を描く……そんな工程を繰り返すことで、描かれている絵に厚みと動きを持たせ、まるで金魚がその場で泳いでいるようなリアル感を持たせている。

これは是非とも本物を見てほしい作品で、彼の言葉の通り、実物を見ていると本当にゆらりと泳ぎそうな空気感があった。
まさに命を吹き込んでいる感じ。

金魚がいる世界が霊的な世界。
ドボンっと突っ込むことで、我々はどんな存在かということを考えてほしい。

私たちは何故命を持って動くことができるのか

人の技とは思えぬリアルが作り出す不気味さと神聖さは、鑑賞者を精神的な異空間へと連れ出してくれる。

(ちなみに、私は展覧会の後に堀田氏の「金魚ノ歌」を購入したのだけれど、美しい金魚が本当に気持ちよさそうに泳いでいて、とても心癒された)

本物よりも美しい写実(リアル)

人は何故写実表現をするのだろう?

目の前に見えているものと、そのもののまわりにある空気や気配のような、目には見えないけれどなんとなく感覚で感じているものを一緒に描くことが出来ないかなと思ってる。

鉛筆一本で静粛なる世界観を表現している秋山泉氏は、空気の感触や、静かな音など目には見えない情報を絵を通して感じてほしいという。

モノトーンで、時が止まっているような静観な秋本氏の作品をみていると、その作品の世界での物語が頭の中に流れてくる感覚があり、作品のシンプルさとは裏腹に、とてもドラマチックな感動を覚えた。
この認知の矛盾は、完璧な写実表現と、ゆえの美しさから成るのではないか。

また、日本人初の西洋画家であり、西洋の写実表現を日本にもたらした高橋由一はこう語る。

絵の方が自然物を超越して美しく、見るものの心と目を感動させるものに至って初めて神技の域に達した作品であると言えるのだ。

これが写実主義の根本だと、私は展覧会を通じて感じた。

自然が作り出した美を凌駕する美を人間が作る。

その過程で人はまた、自然の脅威を目の当たりにする。

最後に

明治から現代にかけて、いや日本の伝統としての“写実表現“を一同に見ることで、また新たな世界を覗くことができた。

カメラがある時代で、人が生み出すリアルにどんな意味があるのか、知りたい方は是非。

久留米市美術館で4月2日まで開催中

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