第2話 政治主導に対する反論への反論
前回述べた政治主導に関しては、主に左派から批判されることが多い。その内容について反論を試みる。
官僚が、内閣の言うことだけを聞き、やる気をなくす。言うべきことを言わなくなる。
それを言ったら、民間はどうなるのか。ほとんどの会社では、社長は人事権を持っている。それでやる気をなくす役員や社員がいるのか。だれだって、自分の望む好きな仕事をやっているわけではない。
また、上司に人事権があるからと言って、それで上司に物が言えないとか。そんなこと民間ではまったく問題にならない。
言いたいことがあれば、言えばいい。それで左遷になるなら、それは組織の風土の問題であり、上司の度量の問題である。最終的にはそれらも含めて、有権者が判断すればいい。
官僚の中立性がなくなる
官僚を自由にさせておいて中立になるなら、それもよいだろう。
しかし、実際問題、中立でないから問題なのである。
官僚は自分たち組織のためなら、何でもする。自分たちに近い勢力には協力し、そうでない勢力は、スキャンダルをリークしたり、意図的に混乱をおこさせて、政治に監督責任だけを背負わせる。
ありとあらゆる手段を使って、自分たちの世界を守ろうとする。
官僚の中立性を言うなら、それを担保する仕組みが必要だろう。トップを民間や外部から任用するなどの制度がない限り、今の仕組みのまま中立性を期待するのは無理である。
そして、前回も言ったように、本当に官僚の中立性を担保するのは政権交代である。定期的に政権が変わることによって、官僚は中立的になる。
そして、安定した政権交代を実現するのは、政治主導しかない。
官僚が政治的になる
これは、逆だろう。内閣人事局のなかった昔の方が、よほど政治的であった。いわゆる族議員と組み、内閣の方針を骨抜き、あるいは方向性を決めてきた。こういった弊害があるから、政治主導が叫ばれたのである。
そもそも政治主導が言われるようになったのは、小泉政権から民主党政権の間だろう。国民や左派が熱狂的にそれを支持した。それを今になって、安部長期政権の一スキャンダルだけをもって、政治主導を批判する。
あまりにも近視眼的ではないか。
ほんとうに政治主導が問題なら、安倍内閣のモリカケ問題とか、忖度とかそんなちっぽけな問題は出さす、国の統治のあり方から、正面切って議論すればいい。