【読書ノート】夫のちんぽが入らない(こだま著)
私には悪いクセがある。流行曲でもベストセラー本でも、そのときには読まずに何年も経ってからそっと読む、というものだ。YMOの音楽だってヒットしたのは中学生の時だったが、何十年も経って大人になって子供も生まれてから狂ったように聴き出した。「これ、いいよねー」という私に、次男が「そうだよね、テクノポップの原型っていうのかなあ。懐かしいよね」と言われてしまった。
さてこの本も2014年の文学フリマで出店されて話題になり、大幅加筆されて扶桑社から出版された。もちろん発売当初はタイトルを知っていたし、「セックスレスの本なんだろうな」と見当はついた。恥をさらすと当時のわたしもなかなか子供ができないのと、性欲減退が重なってどことなくギクシャクしていた。なのに狂ったようにアダルトビデオを見ていては怒られていた。主人公の夫は風俗に通っていたそうだが、同じようなものだろう。とかく男は溜まるのだ。
結婚している人は「子供が欲しい人」ばかりではない。ただどれだけの人が本気で「いらない」と言い切っているのか。「諦めた」人も相当いるだろう。高齢化出産どころか、実質は高齢化結婚。
「充実したキャリアを捨てるのか」「人生それでいいのか」という周りやメディアからの文句に踊らされて、どんどん結論を先送りするのが普通になっている。ネットニュースなどでこんなウワサを撒き散らす人はほとんどが独身子なしなのに。子供がいて毎日必死に送り迎えしている人は、貴重な時間を使ってこんなニュースを垂れ流しはしない。
ただどちらにしろ子供を持つことはますます難しくなっている。この本では「ちんぽが入らない」という言葉を通奏低音として、職業との両立の難しさ、周りからの無理解、両親を通しての家制度からの呪縛、など描かれている。
ここでいう「ちんぽが入らない」≠「子供がいない」だ。というのも主人公は他の人のちんぽは入ったのだ。妊娠の可能性がないわけではないことがわかることで、主人公をかえって苦しませる。三十代半ばで閉経したこともあり、夫婦でかなり強い意志を持って子供を持つことを断念する。
ただこの本の視点で欠けているのは「養子」の概念だ。あるいは「シングルマザーやシングルファザーとの再婚」と言ってもいい。
個人的で申し訳ないが私の周囲でシングルマザーやシングルファザーと結婚してしている人が五組ぐらいいる。私も若いときには「自分の血のつながっていない子を?」と疑問だった。ただ今ならわかる。自分の子供の顔は見たい、が似ていても似ていなくても構わない、ということだ。自分は別に完全な人間でもないので「ぜひ自分に似てほしい」という気持ちはない。この歳になってこの違いに気がついた。大阪の商家では子供が商売に向いていない場合に番頭に娘を嫁がせることが普通だ。渋沢栄一だって自分の子供を承継人としない「廃嫡」にしたではないか。
「養子」をむかえると配偶者と子供が一気に手に入る。一人で老後を過ごすよりよほどいい。何より四十や五十半ばで結婚して子供を一から育てると、定年になっても子供はまだ被扶養者。お互いのためにもせめて五十歳の時点で子供には十歳を超えていてほしい。
「恋愛」は気持ちの共有だが、「結婚」は財布の共有だ。学生時代私を振った人が、結婚適齢期になって「さ、そろそろ結婚しようか」といってきた人が二人いた。私はその時点でもう結婚2年目なのに。企業経営と同様に結婚も「サイフの共有」があってもいい。
そう、シングルマザーやシングルファザーとの結婚、あるいは養子制度というのは、財布で時間を短縮する「M&A」なのだ。