永井均先生の<私>の哲学を検討する その8

永井均先生の<私>の哲学についての考察を追加します。

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永井均著「<子ども>のための哲学」の電子書籍の58/332から引用します。

友人に話した方の問いには、そういう取りちがえはない。それは「ぼくはなぜ生まれてきたのだろう?」というものだったが、

もっと正確にいえば

一組みの男女がセックスをして、ある特定の人間が生まれ、そいつが「永井均」と名づけられる。そこには何の不思議もない。

でも、その子がどうしてぼくでなければならなかったのか、ぼくはどうしてそいつでなければならなかったのか、

ここにはどうにも説明のつかない神秘がある。
その子が生まれ、成長し(いまこの原稿を書いていながら)そいつはぼくではないという状況もじゅうぶん考えられるはずではないか?

そもそもぼくなどぜんぜん存在しなくてもよかったし、別のやつがぼくでもよかったのではないか?

引用終わり

永井先生は後で、上の、ぼく、を<ぼく>と表現しています。

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永井均氏をNで書き換えると、上の
引用の一部は、次のようになる。

「なぜNが<ぼく>なんだろう?」という問いである。

★★★ <ぼく>はべつにNでなくてもよかったし、逆にNはべつに<ぼく>でなくてもよかったんじゃないか?

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【私の考察】
下のように仮定します。

仮定1:
普通の人は、つぎのように考えている。
Aという氏名の人がいるとする。Aは、A自身を「私」で表現する。
「私はAです」、「私は〇〇歳です」
などである。

B、C、・・・と他の人についても同様に
BはB自身のことを「私」、CはC自身のことを「私」と表現する。

これは正しいものとします。

私の疑問1
★★★のようなことを考える人は、 ごくごく稀ではないか?

人の心と身体はくくりつけになっている、
が普通の人の考えではないか。

私の疑問2
永井先生は、仮定1の「私」の表現を使わないのだろうか?

永井先生が、講義をしたり、書籍を書くのは、
「私」としての活動か、<ぼく>としての活動のどちらなのか?

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