カント「純粋理性批判」への極めて素朴な疑問 2

NHK 100分de名著「純粋理性批判」からの抜粋です。
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主観的な認識以前の、客観的な物そのものの世界があると考えます。
しかし私たちは、主観のなかに現れ出た現象しか認識できず、物自体を認識することは不可能です。これがカント認識論の大前提となります。

私たちはどのように現象界において物事を認識しているのでしょうか。
つまり、主観の認識の「共通規格」はどのようになっており、どのように働いて私たちの日常的な認識(一輪の花が花瓶に挿してある) を成り立たせるのか。

カントの主観の共通規格(メガネ)は二層構造になっており、感性+悟性というかたちになるのです。

まず、物自体が感覚器官を刺激します(触発する、とカントはいいます) 具体的にいえば、視覚・嗅覚・聴覚・触覚・味覚などを通じて、「赤い色のなにか」 「甘い香りのなにか」といった多様な感覚を受け取ります。

テーブル、茶色、花瓶、花のような概念を用いることで、多様な感覚の束から「これは……………だ」という判断がつくられていきます。
空間・時間のなかに多様な感覚を位置づけるのが「感性」の働きであるのに対し、多様な感覚を概念で整理することによって明確な判断をつくり出す働きが 「悟性」と呼ばれます。

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【私の考察】

上のカントの認識論の方法は適用できない物自体がある。

例えば、種々のウイルスである。
存在しているのは確かである。
自分の身体に感染していることを確認する方法がある。
従って、ウィルスは物自体に含まれると言える。

しかし、自分が感染していても、それによる感覚は生じない。

例えば、コロナウィルスに感染しているかどうかは、PCR検査をしなければわからない。
PCR検査は、自分の感覚を元にしていない。

また、放射線も感覚を生じさせない。

ウイルスや放射線は存在する。
それらは物自体に含まれる、と考えられるのではないか。

【結論】感性、悟性によって物自体の全てを認識することはできない。

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