永井均先生の<私>の哲学を検討する その10

永井均先生の<私>の哲学についての考察を追加します。

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永井均著「<子ども>のための哲学」の電子書籍の58/332から引用します。

前の記事での引用と同じ文です。
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友人に話した方の問いには、そういう取りちがえはない。それは「ぼくはなぜ生まれてきたのだろう?」というものだったが、

もっと正確にいえば

一組みの男女がセックスをして、ある特定の人間が生まれ、そいつが「永井均」と名づけられる。そこには何の不思議もない。

でも、その子がどうしてぼくでなければならなかったのか、ぼくはどうしてそいつでなければならなかったのか、

ここにはどうにも説明のつかない神秘がある。
その子が生まれ、成長し(いまこの原稿を書いていながら)そいつはぼくではないという状況もじゅうぶん考えられるはずではないか?

そもそもぼくなどぜんぜん存在しなくてもよかったし、別のやつがぼくでもよかったのではないか?

引用終わり

永井先生は後で、上の、ぼく、を<ぼく>と表現しています。

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永井均氏をNで書き換えます。

<ぼく>は、著書を書いたり、講義をしたりする、心である主体と言えるでしょう。

「別のやつが<ぼく>でもよかった」
と書いてますので、その別のやつをWとします。

現在、Nの<ぼく>は、存在しています。

◎ Nの<ぼく>が、Wの<ぼく>になる、出来事が起きた、
と考えます。

それ以降、Wの<ぼく>は、それ以前のNの<ぼく>の記憶、性格、知的能力を受け継いでいる筈です。

何も受け継がないで、Wの記憶や性格などが◎以前のままでは、◎が起きた意味がありませんから。

そうすると、ある日に、突然、Wの知識や性格は別人になってしまった、

ということになります。

また、<ぼく>を失ったNの記憶や性格は、どうなるのか?
という疑問が生じます。

以上から、
「別のやつがぼくでもよかったのではないか」

ということが現実にあり得ると考えるのは、大変に難しいと思います。

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