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「他者」がもたらす「開眼」
武術家として達しているかどうかと、経験年数は関係ない。
「開眼」したかどうか、以外にない。
何年やってても「開眼」しなければ同じである。
大小の「開眼」を繰り返すことで進歩する。
「開眼」すべく探すことが「稽古」である。
私が重要な開眼を得たのは、武術歴20年を超えてからだった。
光岡英稔先生にお会いできてなかったら、この開眼はなかった。
もちろん、私を武の道に導いてくださった石井敏先生、そして甲野善紀先生、また中井祐樹先生には心より感謝している。
趙永昌老師からは孫臏拳を、李尊思老師からは心意六合拳を伝授していただいた。また韓競辰老師からは韓氏意拳の指導をしていただいた。韓氏意拳については内田秀樹先生からも随分ご指導いただいた。
またハワイアン八卦掌については、光岡英稔先生とレイモンド・カーブリド先生からご指導いただいた。
また、パラエストラ東京では大関智洋先生に多大なるご指導をいただいた。また三迫ボクシングジムのトレーナーの皆様には大変お世話になった。
…こうしてみると、本当に多くの先生方にお世話になってきたものだ。
改めて感謝を申し上げたい。
私は「武縁」に恵まれた。
自分一人だけで修行を続けて「開眼」できるのなら、それは本物の天才だ。
私には到底そんな才はない。
なので、良き師を求め、指導を受けて試行錯誤してきた武術歴になったといえよう。
もし私に才があるとするならば、「このままではだめだ」と思える才があった、ということだろうか☺️
「開眼」できるかどうかという話だが、開眼をもたらすのは、ほとんどの場合「他者」であろう。
自分一人で開眼した場合であっても、自分の中に「他者」を見出したときにそれが起こるのではないか。
また「型・式・套路」も「他者」として開眼をもたらしてくれる。
「他者」は予想できない。
付き合いの長い「他者」ならかなりの部分予想できそうだが、「他者」である限り、突然まったく予想しない反応が出てくる可能性は常にある。
だから、「他者」と向き合うのはしんどいし、時として自分の嫌な面、弱い面を逃れようもなく突きつけてくる。
しかしそもそも、「他者」と向き合う技術が武術ではないのか。
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自分の嫌な面、弱い面を見せてくれる「他者」には、感謝の念を持たなければならない。
それができて初めて「開眼」があり、進歩がある。
それなくしては、何十年やってても進歩はない。
中には、広く名が知られていて、道場を主宰し多くの弟子を持っているにもかかわらず、まったく進歩がないという人もいる。
いかなる人生を選ぶかは自分次第。
メメントモリ、ケセラセラ。
なればせめて、悔いなき人生にしたいものだ。
(画像生成: ChatGPT/DALL-E)